第27話 深き森は悪魔の匂い
そこは暗い森の奥底のような、深い穴の底のような、それでいて輝きに包まれた宇宙の果てにも見える場所だった。
真白雪は気づくとその場所に居た。場所という言葉が適切であるかどうかは分からない。だが彼の自我はそこにたしかに存在しており、曖昧な形で世界を認識していた。雪は身を起こした。身を起こしてみて初めて自分が横たわっていたことを自覚した。そしてその隣にしゃがみ込み、両手を頬に当てこちらを覗き込んでいる者がいることに気付いた。
それは10代か20代くらいの若い女だった。少女と言っていいかもしれなかった。若葉色とピンク色が奇妙なバランスで入り混じった髪で、山羊のように横に伸びた瞳孔が薄っすらと白んでいる。どこかあどけない表情と老成した落ち着きが同居した表情で、絶えず認識を誤認させるような不可視の衣裳を纏っているかのようだった。事実、彼女が身に着けている衣服はぼろきれの様でもあり、聖職者のケープのようでもあり、礼装でも平服のようでもあった。そしてそもそもの見た目に反して、どうしてもその同定に留保を付けたくなるような、そんな朧さを具現化したような存在が彼女であった。
それでもなお雪の頭には、ある少女の仮称がよぎった。
「ニノマエ……?」
少女はにんまりと笑った。いや……。雪は目をこすって見つめ直す。……それは明らかに、一々江のかつての片割れとは違っていた。しかし、どこかにその俤を感じたのだった。
彼女が笑みを残して口を開く。
「汝は一々江ではないよ、真白雪くん。彼女の別人格でもない。だけど、ここにその影を見るのは正しい反応だろう」
少女の声はどこか遠くから響いてくるようでもあり、己の内側から滲み出てくるようでもあった。
「まずは初めましてと言うべきかな? 本当はいつも近くにいるんだけどね。この状態で汝を認識するのは初めてだろうから、こう挨拶しても差し支えないはずだ」
「何なんだ君は? 僕は世界の果ての果てで御黒闇彦と戦っていたはず……。……まさかここはあの世かどこかで、君は僕を迎えに来た天使なんてオチじゃないだろうね」
雪の問いかけに少女はくすくすと笑った。
「当たらずとも遠からずだね。ここはさしずめ三途の川のほとりと言ったところさ。君はそこに片足を浸して、賽の河原に寝そべっているんだ。何やらそんな気がしてこないかい?」
気づくと雪の足元には遥か彼方から続く巨大な渓流が広がっていて、黒く死相を帯びたがしゃどくろが岸辺のそこらを埋め尽くしていた。向こう岸は遠く、目を凝らしても霧に包まれたように見えなかった。
「臨死体験、と言えばいいかな。時として、夢枕や……、死の淵を垣間見た者がここに現れる。意識の奥の奥、集合的無意識とでも言うべき井戸の底に。だから天使という呼称もそう遠くはないのだけれど、それはむしろ々江にこそ当てはまる言葉だと思うね。彼女はわたしの片翼だから。だが、汝はそこまで限定的じゃない」
「要領を得ないな……。とどのつまり、君は何者なんだい?」
「筆舌に尽くしがたいね。汝を呼び表す言葉はいくつもある。絶対者、超越、一者、『神』……」
「『神』だって?」
雪は思わず叫んだ。諫めるように彼女が手を挙げる。
「そう呼ぶ者もいるということさ。ま、汝のことは良い……。それより君に差し迫った問題は、自らの生死ではないのかな?」
雪は足元を浸す川を眺めた。
「いや、僕の生き死にはどうでもいい」
彼女が片眉を上げる。雪は意志の籠った瞳で顔を上げた。「……でも、のまえの命は別だ。僕はここから還らなきゃならない」
「そうだろうね。そうだろうともさ」彼女は愉快そうに笑って、雪の後ろを指さした。「なら、この道を引き返すといい。君はまだ、御黒くんを倒していないのだから」
雪は緋い川に水音を立てて岸辺へと戻り、疑問を口に浮かべる。
「君も、御黒を知っているのか?」
「知っているも何も。汝はなんだってお見通しだよ。全知にして全能、それこそが汝の本分だからね」
河原の淵に足をかけ、雪が振り向く。「全知全能と言うなら教えてくれ。あなたが僕を生かす理由は何だ? 僕にはまだ役目があるのか?」
「汝が? ふふ、それは違うよ、雪くん。君は君自身の手で蘇るんだ。そこには汝の意志も力もなんら介在していない。汝はあくまでも観測者であり、ただ一つの存在にすぎないからね。君はただ見せたまえ。『悪魔が来りて笛を吹く』、その真骨頂を!」
声はそこで途切れた。雪は髑髏の上に足を引きずり上げ、そして……、戦地に甦った。
御黒闇彦の目には異形の魔が写っていた。仮面のように顔を覆う氷骨が象られ、黄金に染まり上がった頭に角が突き出し、緑炎で象られた翼を玄雷の天輪が照らしている。尾骶骨からは爬虫類じみた尾さえ生え出で、生贄を求めるように揺れている。
「るぁ……、見苦、みぐっ、御グ炉オ……」
地獄の業火に喘ぐように雪が体を捻じ曲げ、禍々しいプラチナに染まった頭を覆い呻く。その隙間からニタリと、血のように真っ赤な笑みが覗く。
まさに悪魔だ。
御黒は独り笑った。〈エデンの悪魔〉……、二号に届きうるただ一つの脅威として聞き及んでいた存在……。それがこんな所にいようとは。
今の少年に自我は無いようだった。目を開けたまま泡沫のような言葉の羅列を嗚咽のように垂れ流している。異様な殺気と敵意が周囲を包んでゆく。
「なるほどな……、その雷と炎……、時空間能力はクローンとして複写された力と思っていたが……、模倣こそがお前の真の力というわけか。それが12号……、その狂花帯の本質、と……」
御黒は瞬足でも逃れきれないほどの広範囲に向けた、巨大な氷塊を放つ。「仇ッむ」悪魔の右手が動く。凍り付いた大気が氷の剣を創造していく。
ぱくりと氷塊が裂ける。八号の斬撃がエデンの悪魔に道を明け渡す。音速で移動する悪魔の拳が御黒の心臓を捉えた。
「……っ、と。そりゃ意味ねえって言ったろ」
鎧の破損と引き換えに雪の腕を捉えた御黒がほくそ笑む。「ふん。これで……」
「まッだ、マ、だ……」
悪魔の眼がぎょろりと巡る。
「あ? …………ッ⁉」
全身が総毛立つ死の気配。御黒闇彦の心臓が唐突に鼓動を止める。残間愛、11号の心臓操作がその体を蝕んでいた。「……ッ、てめ……!」
強烈な打撃が御黒を地面に叩きつけた。額に張った氷の膜がひび割れ血が流れ出す。異様に発達した筋肉を以て、Qは淡々と拳を振り下ろしていく。
「アぁ……月夜、に、緑児の拳赤き鉄塔。燃える土・凍れる心臓が海を渡る。転変する愚王の瞬きは招く……。……黄泉の疫い。そして血塗られた、供物の山羊と弑逆の、末路を……‼」
夜空に咆哮する。
「守る……!! ケサ丸、まぁぁぁちゃん、……ノ、まえ……! 奪わせなイ‼ だれ、にも、誰にもォ!!!」
雷を帯びた拳が高々と御黒に狙いをつける。
寒暖差の起こした突風が、雪の躰を弾き飛ばしていた。雪が意味の無い言葉を呟いて退く。
御黒は光学迷彩に一気に熱を流した。過剰な熱にオーバーヒートを起こした迷彩がショートし電流を暴発させる。ドクン、と弾みをつけ、御黒の心臓が再び脈を刻み始めた。
「……はッ、死ぬかと思ったぞ、こいつめ!」
額の傷口を凍らせて止血し、氷の鎧をさらい厚く身に纏う。
「フン、考えてみればエデンの符合にも、ヒントはちりばめられていたわけか。Qはトランプにおける12番。『寿』は……、クク、人名とばかり思い込んでいたが……。『寿の獣』。浮世絵に描かれた架空の動物に、そんな名の幻獣がいたな。十二支の動物の混合体……、『12人』の能力全てを使えるお前に相応しい暗号というわけか。まったく爾凝の爺さんらしい遊び心だな」
「アぁ……? 濁……?」
「ニコラ博士だ。てめえのその狂花体を埋め込んだ爺さんだよ。……!」
御黒は腰を落とし低く斬弾を躱した。問答無用で雪が攻撃を放っている。野性の直感は正しく、本来ならば掻き消すことのできるはずの衝撃刃が、御黒の間合いを通過していく。
中和されている……、絶対融解領域が!
考える間もなく、四本の黒い雷。しかしそれすらも囮、雪の神速の拳が御黒を氷山の一角まで弾き飛ばす。相手は御黒自身の能力も使える、熱障壁の温度を下げ無効化を図っている。御黒は崩れていく氷壁の下に立ち上がりながら口の端を歪めて嗤う。「噛み応えがあるな、エデンの悪魔」
再び雪が消える。背後から神速の連打が御黒を襲う。通常時でも捌ききれなかった連撃だ。加えて電気刺激と筋肉増強による膂力の急激な増大……、継ぎ足す間もなく氷の鎧が剝がされていく。
舌打ちをして、指を鳴らす。地面に巨氷の針の筵が用意される。意に介した様子なく、予知で迎撃する雪。障壁をものともせず、針を破砕して突き進んでくる。だが大気に現れたいくつもの高熱反応には、さすがの寿も反応を見せた。
「大した能力だ! だが所詮は猿真似。原点を超えることはできない!」
御黒の一喝と共に、無数の熱光線が宙に浮かぶ。寿が咆哮する。逃げ道は針地獄が既に埋めている。氷剣諸共消し飛ばし、光線が雪の躰を貫いた。
再び脚を落とされ、獣のように悪魔が呻く。
模倣を警戒して、威力を落とし過ぎたか……。眼鏡を直して小さく呟く。「だが捉えた」
さらなる高温の炎の渦が宙にうねる。細く帯状に収斂されていく。細胞の回復すら追いつかない速度で焼き切る……。
途端に頭上で雷鳴が轟いた。「!」御黒が見上げる。幾柱もの閃光が降りそそぎ、歪んだ磁場を辿って雪に直撃する。10号の充電回復……、狂花帯を刺激して、見る見るうちに脚が再生していく。あり余った電気エネルギーが熱エネルギーに変換されて、緑炎の渦になっていく。凝縮された力の塊が、三叉に分かれた禍々しい光の槍を形成していく。悪魔が目を剥く。
「『グングニる〉」
「ほう……、俺に火力で挑む気か。いい度胸だ。こちらも相応の本気で応えてやる」
御黒は創りかけた炎の帯を掻き消し、掌を氷土に叩きつけた。土表よりせり上がってきた大氷河が猛烈な圧縮を受け、小さく、納屋ほどのサイズにまで凝集し結晶化する。圧迫された氷同士がめり込み絡み合い、あたかも極楽の蓮の華じみた形を成す。
最高硬度の氷盾が御黒を覆い隠す。それでも御黒はまだ何事かに集中するかのごとく目を閉じ、地面に手を添えている。
鏡のような完璧な反射が雪の相貌を映し出す。氷が雪を直線状から逃がさぬよう半身を取り囲む。雪もまた逃げるつもりなどないと言わんばかりに氷を形成し、十全な足場を形作る。
「ノ、まエ……」氷の仮面に皹が入る。銛を振りかざす雪の眼に一瞬だけ、理知の光が灯る。「俺はお前をッッッ!!!」
電流が肥大した筋肉を駆け抜け、全身をバネのようにしならせる。氷で固めた足場に反動して余すことなく伝えられた力が、光の銛を神速の投擲に導く。劫火の炎槍は空気の振動を以て斬撃を帯びて氷華へ突き刺さり、氷河の修復を置き去りにするスピードで鏡盾を貫き抜けた。
熱エネルギーを氷に吸収された槍は御黒に届く前に拡散を始め、炎と衝撃の純粋な塊となって御黒の体を押し出した。氷の柱を次々と打ち破って遥か後方へ御黒を弾き飛ばし、氷崖へと激突させた。
熱と衝撃でばらばらに砕け散った氷鎧が辺りに散乱する。白い霜煙を上げて大きく割れへこんだ崖の下に、がくりと項垂れた御黒闇彦の姿があった。頭部から血を流し、肉体から漏れ出た湯立つような熱い血の溜まりが、氷の床を気化させている。
「……これで……」御黒がゆるゆると腕を上げる。余力のエネルギーを寄せ集め追撃の手を下そうとする雪に、指を突きつけ、照準を合わせる。
「……チェックメイトだ、寿」
空気が張り裂ける。火山の大噴火にも似た水蒸気の凄まじい爆裂が、巨大な氷河の大地を消し飛ばす。
岩肌はめくれ、足元から噴出した凄まじい蒸気の熱膨張が爆発となって氷床を引き裂いた。ビルたちは根元から残らず倒壊し、大気は暴風となって瞬く間に衝撃波をもたらした。都市を丸ごと飲み込むような巨大な大穴が、大陸の上にぽっかりと口を開いた。
それは核や水爆よりも遥かに強大な大自然の猛威だった。御黒闇彦は地表約2500メートル、永久凍土の遥か最深部に瞬間的に核融合並の灼熱を出現させた。南極の巨大な氷の大地は戦闘で傷ついたとは言え、圧倒的な密度で大陸に鎮座している。大量の氷を載せた深部の圧力は深海などとは比べ物にならない大きさで氷を圧迫している。
そこに現れた、人工の太陽。熱源の出現による急速な温度上昇によって、膨大な範囲の氷が瞬時に蒸発、氷床に駆けられた巨大な圧力はそのまま爆発の威力となって大地を吹き飛ばした。
巨大な窪みとなった都市の跡地に、真白雪が横たわる。千切れ飛んだ身体は既に再生によって修復されているが、衝撃と肉体の負荷に意識を失っている。再生に全てのエネルギーを費やし、髪は黒一色からまた白混じりに退行している。翼や天輪も喪失していた。
瞬時に止血を終えた黒の影が少年の足元に降り立つ。御黒闇彦。人類の次席の座を守る彼こそは、大自然の脅威そのものであり、天災の申し子であった。




