第26話 白と黒
「……、うわぁ……」
雪と袈裟丸の給仕に訪れた七坐は、透明なアクリルガラスの向こうを眺めて頭を抱えた。「あの恩知らずめ〜! これ、私の責任になるかな……」
すごすごと回れ右をして、警備室への道を小走りで向かう。ガラスに表示されたシステム情報には赤い警告の記号と共にでかでかとエラーのサインが出ていた。開け放たれた透明な扉の向こうはもぬけの殻で、兄妹の姿は陰も形も無かった。
〇
息をつく。吐いた傍から白い結晶に変わって金髪混じりの毛先にまとわりつく。雪は霜の降りた氷の道に踏み出た。御黒闇彦が立ち塞がるようにポケットに手を突っ込む。
「前と顔つきが違うな。いつもなら一度倒した奴に興味はないんだが……、少しは出来るようになったか」
御黒はこちらを警戒した様子もなく眺める。雪は腹に力を込めて言い放つ。
「のまえを返してもらう」
「威勢の良さは変わらずだな」
青年が薄く笑う。
雪は無言で折れた捌光の刀を突き出した。
「道中偶然拾ったものだ。僕は物質の記憶を遡り読むサイコメトリーの力を持ってる。今の戦闘の一部始終を把握させてもらった。もちろんあんたの能力もな」
「そうか。なら話が早い」
御黒が首を小さく傾ける。「お前も視た通り、たった今、『12人』の三人を下したところだ……。こちらの消耗は期待するな。俺に与えられた不死の能力図、『滅びゆく者たちの太陽』は、熱力学の第二法則を歪める永久機関を疑似的に再現したもの。俺は半永久的に熱エネルギーを生成できる。体力切れはありえないってことだ」
「ご丁寧にどうも。逃げるなら今の内って言いたいわけ?」
「確かめておきたいだけさ。奴らと比べて……、俺を楽しませる自信があるか」
御黒が冷たく視線を伸ばす。雪がそれを睨み返す。沈黙の数秒……、開戦の狼煙を上げるように、沙毘の柄が発火する
しかしそこに雪の姿は無かった。御黒の目が雪を探すように左右に動く。
眼球の動きよりも早く、雪は背後に回り込んだ。完全な死角。狙いを澄まして拳を溜める。
キン、と鉄を叩くような音がして、雪を囲む空気が凍り付く。予知に合わせて雪は瞬間的に後退した。
「熱感知か……」氷雪の上に片膝を付いて雪は呟く。御黒が振り返る。
「いいスピードだなぁ。瞬間移動でも身に着けたか? あるいは……」丸眼鏡の薄縁をかちかちと叩く。「喪苅、今の映像を二百分の一倍速で再生してみろ」
何事か彼のインカムに反応がある。低く返事をする御黒を油断なく見つめながら、雪は腰を上げた。
「……やっぱそうか。空間移動、ではなく、相対時間のずれを利用した超加速……。Q。五号の狂花帯、量子器官は時空間に干渉する力を与えるが、適合者によって特異な方面が時間系と空間系に分かれることになると予測されていた。お前は前者のようだな」
「こうも簡単に種がバレるか。傷つくね」
雪は頬に汗を浮かべながら答える。「でも分かったところで、結果は変わらない」
「ああ、そうだな」御黒が冷たく返す。「どんな仕掛けだろうが、俺に届かないことに変わりはない」
雪が再び地面を蹴る。御黒が視線を伸ばし、空中に連続で凍結を仕掛けるが、雪の残像を捕えることすらできない。周囲を一周し、完全に見失わせたところで切り返す。
「……!」
瞳は完全に反応しきれていない。それでも御黒は野生的な直感で「それ」を捉えた。咄嗟に腕が動き、熱の断層を貫通した雪の拳を防いだ。
骨を打つ衝撃があって、御黒の体が僅かに後ろへ滑る。通じた……! 雪はたしかな手応えをもって距離を取り直した。蒸気を上げる腕を庇うように冷気に曝し、その様子を確かめる。……まだ動く。これなら……。
「驚いたな」
感心したように御黒が腕を振る。「どういう仕掛けだ? 俺の絶対融解領域を通り抜けるとは」
「考える暇は与えない……!」
襲い来る炎を掻い潜り、再び雪は時を加速する。揺らめく紫火が亀の歩みのような歩みで空気を溶かす。舞い散る雪の結晶の一粒一粒が停止したようにゆっくりと落ちていく。それらの中を雪だけがいつもの速さで駆け抜ける。御黒は勘付いたようだ。強化された肉体の素早い反射で防御と回避を狙ってくる。しかし向こうに野性があるなら、こちらには予知がある。互いの動きを読めるなら、高速で動く雪の方が圧倒的に有利だ。肌に灼けつくような痛みを感じながら、打撃の雨を手当たり次第にぶつける。
衝撃波が飛び散るほどの超音速で雪の拳が襲いかかる。御黒は急所への攻撃を捌こうともがきつつ、低い声で叫んだ。「……そうか、熱伝導速度を減速させたのか……。通常なら俺に到達する前に蒸発するはずの拳を、熱の伝わる速度を遅くすることで耐えてるんだな?」
「気付いか。だがもう遅い!」
雪は地面から突き出る氷槍を避けて正面に回り込んだ。時間にして数秒、熱の伝達を遅延してなお肌は爛れ、拳骨は骨を剥き出しにしていた。歯を食いしばり地面を踏みしめる。
この乱打で決める!
急所を含む16箇所への打撃が同時に繰り出された。追撃に渾身の右を頬に叩きつける。御黒の体がぐらりと傾ぐ。とどめだ……。雪は全身を捻り、高速回転の勢いを乗せた回し蹴りを御黒の胴に叩きつけた。
ずしり、と確かな感触がある。割れた氷嚢に足を沈めるような重たい響きだ。これで……、雪は祈るような気持ちで御黒の黒髪を見下ろす。……その隙間から覗き返した瞳が、冷たい輝きで応える。「……掴まえた」
雪は凍り付くような戦慄に足を引いた。悪王の両手にがっちりと掴まれた脚はびくともしない。
「なかなかいい連打だったよ……。俺でも最後の一撃を捕えるのがやっとだった。もっとも、初めからその一発に狙いを定めていたためもあるが」
「なぜ……、攻撃は全てヒットしていたはず……。立っていられるわけが……」
「ああ、確かに当たってた。だが俺のガードが熱障壁だけとは言ってねえ。こんなこともできんだよ」
御黒が顔を上げる。その頬にぴしりと亀裂がはしり、薄ら氷が剥がれ落ちた。割れた頬の薄氷に一滴の血が滲み、蓮華のように広がって滴った。雪は目を見張る。氷の……鎧?
「……実を言うと、お前が来た時から妙に嫌な予感がしててな。念のため、肌の上と衣服の下に氷の膜を張り巡らせておいた。超高密度に限界圧縮した氷の結晶体だ。時間をかければ壊せただろうが、一撃捉えるまでの時間稼ぎには充分だ」
「っ、そんな……」雪が絶望を露わにして呟く。「これだけやって、僅か傷一つ……」
御黒がにやりと口の端を上げる。
「憂うことなどない。それは他の誰にも成しえなかった歴史的快挙だ、誇りに思え。……それよりいいのか? 俺の間合いに入ってから、だいぶ時間が経ってるが」
はっとして己の体を省みる。掴まれた脚を中心に肉が焦げ、肌が溶けだしている。全身を貫く痛みに雪は苦悶の叫びを上げた。
「勇敢だな、真白雪。仲間を助けるために命を投げ捨てる……。だがな、この世は所詮強者の世界。被食者の捨て身など、頂点捕食者の前には虚しい足掻きにすぎん。よく覚えておけ、覚悟だけでは願いは叶わない!」
雪は喉が張り裂けるほどの絶叫を上げ、己の手刀を膝に叩きつけた。
鈍い音がして、雪の体が地面をもんどり打つ。極寒に冷え切った雪が焼けた肌を冷ますように纏わりついた。
「……ふむ。膝から下の融解減速を解除して切り捨てたか。自切とは胆力があるな」
掌の中で瞬く間に蒸発する雪の脚を見て御黒は独りごちった。綿雪の合間で雪が激痛の責め苦に呻いている。
「これでお前の機動力は損なわれた。もはや勝負はついた。弱者を痛ぶる趣味は俺には無い。その火傷、今は地獄の苦しみだろうが……、命までは失しないだろう。せいぜい拾った命を無駄にせず、生き延びることだな」
眼鏡を直しながら言い放ち、踵を返そうとする。
雪が引き留めるようにその足を掴む。掌が焦げて煙が上がる。御黒が見下ろす。
「まだ闘る元気があるか……。それとも殺してやる方が、お前への慈悲になるか?」
「まだ……ッ、両手も片足も残ってるだろうが……!! たとえこの身が張り裂けようとも、のまえを連れ戻すまではァ……‼」
両手と左足で獣のように凍土を踏みしめ、雪が臨戦態勢に戻る。その目は絶望を跳ねのけて、狂気的なまでの闘志に燃え滾っていた。
叫びながら、白い影が飛び掛かる。全身でぶつかるように、剥き出しの骨を、歯を突き立てて突っこんでいく。御黒は手の焼ける子供の相手をするように僅かに顔を振った。
「……愚か」
〇
淋しい雪風が二人の間を吹き荒れる。独りは氷でできた玉座に腰を落とし、もう一人はそれに見下ろされる形で氷雪の上に体を横たえている。片足は捥げ、両腕は氷結し皹割れている。胴にぽっかりと空いた黒い空洞から、生暖かい血が湧いては零れ、そして凍りついていく。その目は今や、空虚以外の何物も映してはいない。
「お前はよくやったよ、真白雪」
玉座の上で目を瞑り、御黒闇彦が呟く。
「貴様の選択は愚かだったが……、その愚直さも貫けば信念となる。立派な最期だったと、一には伝えておいてやる」
返事はない。玉座を離れ、雪の心臓の上に指を当てる。辛うじて続いていた微かな心音が弱々しくゆっくりと波打ち……、そして消えた。
ここまでだな。
御黒は顔を伏せる。雪の瞼を閉ざし、立ち上がって城塞の方へ歩を進めた。
…………まえ。
御黒は足を止める。風に乗って声が聞こえたような気がした。振り返る。音のした方向、真白雪の呼吸を止めた肉体が、そこにある。もはや熱源反応もない。冷たい骸になりつつある……。
どくん、と心臓の大きく跳ねる音が聞こえた。
御黒は目を見張る。止まったはずの雪の体が拍動に痙攣し、片足を支えに、吊り上げられてでもいるように胸からゆっくりと起き上がっていく。
その手足の先で細胞と肉の塊が膨れ上がり、伸びた骨を覆い囲むように欠損した部位を再生していく。
黒い革の手袋を耳に当て、御黒が叫ぶ。
「おい、喪苅! 観測上の奴のバイタルデータを送れ! 今あいつの身体に何が起きてる?」
喪苅が何事か答える。しかし次第にそれは掻き消され遠のいていく。砂嵐のノイズが混ざりだし、大きなうねりを生み始めていた。
「電波妨害……?」御黒は眉根に皺を寄せる。「だがそれは八号の……」
顰めた眉の下で、再び両目が見開かれる。雪の体を取り巻くように黒い稲妻が奔り彼の筋肉に活力を与えている。
「ははッ、そうかつまり……」
御黒が生き生きとした表情で彼を睨む。
「そういうことか、真白雪……、お前が『寿』なのか! ただの五号のクローンなんかじゃねえ。お前こそが最後の12号……、エデンの悪魔だったんだなァ!!」
御黒が底の深い紫の瞳を少年のように輝かせた。嵐が吹き荒れ、天上では雷鳴が轟く。白から金に変色した髪、その後ろに明滅する炎と雷が、悪魔の翅のように玄く輝いた。




