第10話 黒に関する噂
「しっかし跡星の野郎、連日スパルタだな……」
丼に山盛りに盛られた米に食らいつきながら、馬飼が右頬をさする。戦闘訓練で受けた打撃のせいで口の裏が腫れていた。強化された体、一撃なら何と言うことないが、跡星の打撃は正確で同じ個所に攻撃を当ててくるから厄介だ。咀嚼の度にうっかり口を噛みそうになる。柤岡が口をもごつかせながら相槌を打つ。
「にしても跡星の先公が教官だったとは、驚きっすね」
「先公?」
「あいつ、うちの高校の古文教師っすよ。すぐ辞めちゃったけど。気付いてなかったんすか?」
「そういえば教師にエデンのスパイが紛れ込んでたって話だったな……。あいつがそうか。つっても学年の違う教員は分からねえな、授業は大概寝てるし」
けろりとした顔で馬飼が答える。食後の茶を注いで五頭が同意する。
「とりわけ学園では鳴りを潜めていたしな。雰囲気も随分違って見えた。あれが奴の本来の姿なんだろう。あるいは七号に人格でもいじられたかな」
「七号……?」箸を動かしながら、耳慣れない単語を後原が聞き返す。
「真白と同じ『12人の怒れる男』の、七人目だ。俺も詳しくは教えられてないが……、話には聞いてる。伏魔殿に属してはいないが、外部の協力者の立ち位置で、条件と報酬次第で動かせるんだとか。そいつが精神操作系の能力を持っていて、跡星をこちら側に寝返らせたんだ」
「あー、たしか『煙草森』とかいう奴ですよね。局長が言ってたの、聞いたことあります」
柤岡の口にした単語に、湯呑を運ぶ五頭の手がぴたりと止まった。予鈴が鳴って跡星が顔を出した。「いつまで無駄口叩いてやがる。後が支える前にとっとと風呂に入れ、お前ら」
食堂に残っていた生徒は慌てて飯を掻きこんだ。
〇
高窓の暗がりの一室に扉を開ける音が響く。部屋の主の足音を吸収するほど厚い絨毯には塵一つ落ちておらず、その上に乗ったデスクの品々と同様の高級な輝きを闇の中に溶け込ませていた。
幣原古人は自室の扉を開け、サイドボードに置いた水差しに手をかけた。色の無い透明な瓶に都会の淡い光が反射する。グラスを下げ、一本足の椅子に腰を下ろす。それからやおら部屋のライトのスイッチに手を伸ばした。
「明かりは付けない方が良い」
部屋の隅から低く呟かれた声に幣原は手を止めた。影の濃い壁の際に視線を向け、幣原は溜息を洩らした。「君ですか」
幣原にぴたりと銃口の狙いを定めたまま、雪は口の端を歪めた。
「一介の構成員の顔まで覚えておられるとは」
「部下の顔を知らないとでも思いましたか……と、言いたいところですが、生憎君は特別ですからね。一介の構成員と呼ぶには核心すぎる」
幣原はグラス越しに雪の顔を眺めて問う。「下に守衛がいたはずですが」
「次からはうちの小隊員を使われると良いですよ。少しは警備になる」
こともなげに言う雪に幣原は肩をすくめた。「愚問でしたね。次の護衛には強化手術を受けさせましょう」それから銃口を見返して鋭く切り込んだ。「要件は一さんのことですか」
「言うまでもない」
雪は銃を軽く鳴らして続けた。
「公安の長はあなただ。局長もあなたには逆らえない。のまえの捜索の撤退命令を取り下げてください」
幣原は薄く笑った。「何がおかしい?」雪は眉を顰めて問う。
「いえ、それだけの力と功績をもってしても、中身は15歳の少年にすぎないのだな、とね」
「隊員の情操教育に力を入れるべきでしたね。今時の子供は何をするか分からない。大人しく従っておいた方が身のためですよ」
「やれやれ」
幣原はグラスを下ろす。
「君はどうやら大きな勘違いをしているようだ。超法規的権限を持った治安維持局と言えど、公安という組織の一部であることに違いはない。いくら公安部長でも、一個人の意志で全体を動かすことはできませんよ」
「しかし……、上から圧力をかければ、大勢もそちらに流れる。不可能ではないでしょう」
「無茶を言いますね」幣原は額に皺を刻んで続けた。「私は独裁者ではない。あなたや悪童隊のような常人以上の力を持つ部隊を鶴の一声で動かせるようなシステムでは、国家は守れませんよ。役人や官僚はあなたたちと違って、銃弾の一発で命を散らすのです。私一人脅すだけで公安を操れるなら、この国はとっくにテロリストの手中ですよ」
幣原の正論に雪は唇を噛んだ。幣原は悠然とグラスの水を飲み込んだ。
「……そもそも君は事の大きさを理解できていないようです。これは公安の決定ではなく、政府の決めたことなのです」
「……!? 日本政府が直々に……?」
「正確に言えば、政府の結んだ条約に従っている、ということですが」
幣原は時計の文字盤に軽く2回触れる。雪は警備を呼ばれたかと身構えたが、机上に文書が映し出されただけだった。
「御黒闇彦の起こす事件に介入してはいけない。これは暗黙の了解ではなく、正式な条鋼として定められていることです。もっとも、一般に公にはされていませんが」
「馬鹿な……。一国家が一人の人間に屈しているとでも言うのですか」
幣原は横に首を振る。
「日本だけの話ではありません」
スクリーンを拡大し、署名を大写しにする。アルファベットで統一された複数の名前が連ねられていた。「条約を締結したのは国連です。御黒闇彦という一個人を相手に、安保理は相互不可侵条約を結んだのです」
「⁉」
雪は驚きのあまり銃を下ろした。英文で書き込まれたスクリーン上の条文には、たしかに幣原の言った通りのことが記されていた。
「〈死にゆく者のための太陽〉、御黒闇彦……。彼は帝王にして覇王、あらゆる暴威の頂点に立つ男。世界中の軍隊を集めても彼には敵わないと、安保理は判断したのです。実際彼の力は次元を超えています。観測できた範囲の『12人』にさえ、彼に対抗しうる器はいませんでした。希望があるとすれば正体不明の一号、昼神イヴ……。あるいはエデンの悪魔・未知数の12号、寿くらいでしょうか……。しかしいずれも現在の所在は掴めていません。一号はエデンに封印されているとの報告さえある」
その報告は雪がしたものだ。祁答院の口から聞かされた話であり、事実のまえに力が供給される所を雪は見ている。
「そんな人間が、なぜ野放しに……」
「そんな人間だからですよ。考えてみたことはありませんか? 『12人』や贋作……、新時代の戦争兵器をいくつも持っているはずのエデンが、なぜこの小さな島国のテロ活動で満足しているのか。君や悪童隊を所有する日本政府が、どうして他国への侵攻に踏み切らないのか。なぜ世界の冷戦状態はギリギリのところで保たれているのか。三者が互いに牽制しあっているから? それも一つの原因でしょう。しかし根本的な理由はそこにはない。我々は皆等しく恐れているのです。御黒闇彦という怪物の尾を踏んでしまうことを」
「っ、冗談じゃない……。世界が一人の男を恐れて戦争を見合わせるなど、そんな馬鹿な話があってたまるか」
「不思議な話ではありません。君も恐らく知っての通り、『12人』にはそれぞれ最低限保証された力の規模があり、緩やかな序列が存在します」
聞いたことがある。11号の残間愛は最低でも〈一都市を掌握できる〉強さだと言われていた。
雪の指摘を幣原は首肯して補う。
「エデンから得た情報では、能力の規模はおおよそ号数3つごとに大きく変化するようです。9号から7号にかけて〈国家を陥落させる〉力を、そして6号から4号——真白雪くん、あなたのオリジナルの5号がここにあたります——彼らは〈複数か国の連合軍を降伏させる〉能力を持つと認定されている。ここまではあくまで理論上の序列であり、個々人の熟練度や力量次第で下位の号数の者が上位を上回ることも充分あり得ます。何と言っても最低基準ですからね。……しかし、最上位の三人は格が違います」
口に出すことも憚られる、というような緊張した面持ちで唇を下で湿らせ、公安部長は先を続けた。
「海土路佑介、御黒闇彦、昼神イヴ……、3号以上は単体で〈地球を壊滅させることができる〉レベルであると言われています。……恐ろしいことにこれは誇張でもなんでもないのです。実際彼は地球の平均気温の上昇現象を一人で止めている。人類が二百年かけても抗しきれなかった環境問題を、たった2ヶ月で、余興代わりに解消してみせた」
「っ……」
秒針の音だけが時の進行を伝えていた。言葉を失い黙り込む雪に向けて、幣原が説き伏せるように言葉を繋いだ。
「真白君、君はコピーとして、オリジナルの第5号に匹敵する力を持っています。しかしその5号ですら御黒闇彦には一段階劣る。それに加えて君の能力は、まだ発展途上だ。今の君がどれほど足掻いたところで、御黒闇彦には手傷一つ負わせられないでしょう。それどころか、彼の機嫌を損ね、世界の終焉を招きかねない」
「っ、しかし」
「幸い、御黒の行動は派手で注意を引くものの、そのあまりの強さゆえに世界の情勢には無干渉です。……雪君、御黒闇彦と言う存在は事故や災害のようなものです。もはや彼は大自然そのものだ。我々は彼という脅威と恩寵とともに生きていくしかないんですよ」
幣原は話は終わりだという風に電灯のスイッチを付けた。ぼんやりとした黄色い灯りが部屋を照らし出す。幣原は銃を下ろし立ち尽くす雪の方に向き直り、ゆっくりと扉を示した。
「帰りは、玄関から出ていってくれますか」
雪は呆然と部屋を後にした。エレベーターを降りて正門を出た雪を、待ち受けた公安の特殊部隊が取り囲んだ。雪は抵抗することもなく縄に着いた。