第9話 俘囚
チェス盤の枡目のように、白い線で区切られた真っ暗な天井が、果てしなく広がっていた。
のまえはぱちりと瞼を瞬かせた。遠のいていた意識が遠近感を取り戻すように覚醒していく。掠れた声で呟く。「ここ……」
「お目覚めかな?」
頭上から声が降ってくる。のまえは視線を上方に動かした。眠たそうな眦を下げ、人懐っこい笑みを浮かべたメイド服姿の女が、こちらを覗き込んでいる。ラベルの無いボトルを差し出して言った。「お水飲む?」
のまえは横たわっていたベッドの上に身を起こした。光沢感のある上質なシルクで編まれた生地がさらさらと肌を撫でる。辺りは天井と同じ模様をした床と壁で囲まれ、凄まじく広大な空間の一角に、ぽつんと部屋にあたるスペースが存在しているようだった。
激しい渇きの感覚が、遅れて追いついてきた。のまえは彼女の差し出すボトルに手を伸ばしかけ、それから、躊躇するように引っ込めた。
「にゃはは。心配しなくても毒なんか盛ってないってば」
ぱきっと音を立ててキャップを回し、女が毒見してみせるように口を付ける。こくりと喉が動くのを見て、のまえはおずおずと手を差しだした。「はいよ」女がボトルを握らせる。ほっそりした温かい手だった。
一口口に含んでみる。無味無臭に近かった。のまえはしおれた花が雨を浴びるように、水を流し込んだ。
「にゃは、間接チューしちゃった」
ベッドの横にしゃがみ込んだ女が楽し気に言う。ピンクの髪が鉢植え植えた花のように揺らめく。のまえは一息に水を飲み干し、人心地ついたように息を吐き出した。
「……あの、ありがとう」
「お礼には及ばないよん。御黒クンの頼みだからね」
「御黒……?」
「にゃあー、名乗ってないのか奴は」
女は呆れたような顔で立ち上がって、天井に向かって叫んだ。「こらーっ、闇彦の坊ちゃん! 挨拶くらい覚えんか!」
「うるさいんだよお前は」
壁の一画が音もなく開いて、黒髪の青年が現れた。縁の無い眼鏡をかけた痩せ型の男で、身に纏った猛獣のような圧力さえなければ、文学青年という言葉さえ似合いそうだった。爬虫類式の切れ長な瞳孔がのまえを映す。
「寝覚めはどうだ、一々江。俺は御黒闇彦。お前の連れと同じ『12人』の一人だ。いや……、正確には雪は12人のコピーか」
「なんで、のまえの名前……」
「お前の時計を解析させてもらった。喪苅……、そこにいる女は機械いじりが趣味でな。そこらの技術者よりよっぽど仕事が速い」
ちらりとメイドの方を見る。ピースサインを出して喪苅がウィンクする。のまえは御黒に視線を戻して尋ねる。
「ここはどこ? 雪くんは無事なの?」
「五号のクローンか。伏魔殿にまともな治療技術があれば、別状ないだろう。別に殺してもかまわなかったが……、お前にとって大事な人間なようだったからな、交渉材料として生かしておいた」
「交渉……?」
「そうだ。まあ人質と捉えてもらってもかまわん」御黒はつかつかと壁際を歩くと、革張りの黒い一人がけのソファに腰を沈めて答えた。「俺が用があるのは、お前の狂花帯や生体情報だ。それが昼神の能力の解明に役立つからな。その実験に協力してもらおうというわけだ」
「昼神……、あの場でも言ってた。一号の人」
のまえは水辺での会話を思い起こすようになぞらえる。
「その通りだ。昼神イヴ……、行方知れずの第一号。五年かけてやっと発見した先日の反応、あれがお前のものだったと分かった時は落胆したが、奴の片鱗を持つ生きたサンプルが手に入ったことが、望外の収穫であることに変わりない。この機会を最大限活用させてもらう」
「……、嫌だって言ったら?」
「安心しろ、殺しはしない」御黒は肘掛けに肩肘をついて答えた。「だがお前のお友達がどうなるかは分からん。俺がその気になれば、『12人』レベルの兵士ひとり殺すことくらいわけない。なんなら治安維持局ごと潰してやってもいい」
のまえは眉に力を入れ、睨むように御黒を見返した。御黒は氷のような眼差しでその瞳をじっと眺める。数瞬、しかしたしかな時間、のまえは目を反らすことなくその視線を受けきった。御黒はおもむろに肩を落とした。
「そう気を立てるな。俺としても友好的な協力関係を築きたい。無理強いでは最良のデータはとれないからな。……お前のことは賓客として丁重にもてなす。監視として喪苅は置くが、最低限のプライバシーは保証するし、必要なものは可能なかぎり取り寄せる。休暇に来たとでも思って、くつろいでくれればいい」
「そーゆーこと」
喪苅がにっこりとスカートの裾を摘まんでお辞儀してみせる。のまえは逡巡し、言葉の重みを受け止めるように手を開いたり握ったりして、ようやくこくりと肯いた。「わかった。協力する」
「そうか。賢明な判断のできる奴で助かったよ」
御黒は頬杖をついて応じる。それから片方の口角を上げてほくそ笑んだ。
〇
洗濯と乾燥の終わった白いシーツの山を抱えて第二病棟の廊下を歩いていた染は、廊下の先を見て籠を取り落とした。白く神経質に磨き上げられた床に籠の音が薄く反響する。点滴台を杖のようにして病室の外に出、荒っぽく包帯を巻きつけ、手術着を羽織った雪は、ひたひたと床に吸い付かせ前後させていた裸足の足を止め、彼女を振り返った。
「何やってるんですかっ、お兄ちゃん」
袈裟丸は慌てて駆け寄った。雪の目が虚ろに袈裟丸を映す。遠慮がちに雪の体を押し戻す。火傷の跡はすっかり消えていたが、まだ肌には痛々しい赤みが残っており、掌に感じる胸の感触は治癒のためにエネルギーを使い果たしてすっかりやせ細っていた。「……袈裟丸か」
「『袈裟丸か』じゃありませんよ。まだ目が覚めて2日しか経ってないんです。容器を出たばかりなんですから、ベッドで安静にしててください」
袈裟丸の腕力にすら容易に押し返された雪の足が、よたよたと病室の敷居を跨ぐ。
「退いてくれ。あれから四日も無駄にしてるんだ。のまえを救けにいかなきゃ」
雪は暗い瞳で、病室の暗い電灯に照らされた袈裟丸を見下ろした。「公安は静観の構えなんだろ。治安維持局が動けないなら、僕一人で行くしかない」
「無茶言わないでください……。今度こそ落命しますよ」
「それがどうした」
「お兄ちゃん……! 苦しいのは分かるよ……。でもたかが……、たかが女の子ひとり、じゃないですか。そんなことのために、お兄ちゃんが命を捨てる必要なんてないですよ」
術衣に皺を寄せ、縋りつくように雪の体にしがみつく。
「お兄ちゃんには……、お兄ちゃんには私がいるじゃないですか……。私じゃだめなんですか? 私が、のまえ先輩の代わりになって、それじゃ……」
「……代わり、だと?」
雪の声の調子が変わったことに気付いて、袈裟丸ははっと彼を見上げた。雪は見たこともないような痛切な表情で血の気の失せた唇を噛んでいた。
「誰にも代われるわけないだろ。のまえは……、彼女は僕にとって初めてできた『本物』なんだ。誰が代わりなんかに……」
「そんなの!」不安に駆られたように、袈裟丸の悲痛な声が兄の言葉を遮る。「私だって同じです! お兄ちゃんの代わりなんていない。だからこうして……」
「黙れよ!! お前に何が分かるんだッ!! 本物の家族でもないくせに!!」
地雷のような叱声が飛び、袈裟丸の腕が払われる。点滴が無理に外れ、雪の血が袈裟丸の腕に飛び散った。袈裟丸はびくりと肩を震わせた。
怒声を上げることすら大儀なように息をついて、声を荒げたことを後悔するように目を逸らし、雪は絞り出すように言った。「もう分かったろ……。義兄妹なんて所詮こんなもんさ。お前もこんな義理いつまでも貫かなくていい、ただの隊員に戻っていいんだ」
彼女の顔を見ないように目を伏せたまま、雪は袈裟丸の横をすり抜けていった。背後で少女のへたり込む気配がした。扉が閉じる。その直前、微かにすすり泣く音が、聞こえた気がした。