第8話 凶漢
背中に山でも抱えているかのような重たい荷の下で、馬飼たち悪童隊はひいこらと息をつきながら沢を上った。ぞろぞろと蟻の群れのように連なった行軍が、アマゾンを思わせる密林を進む。南天に昇った太陽が容赦なく木々の隙間に照り付け、少年たちの体力と水分を奪っていった。
「今頃雪さんたちは、プールで水遊びっすかねえ」
スキンヘッドの上に浮かんだ汗を拭きながら、後輩がぼやく。
「言うな、余計虚しくなる」げんなりした顔をしながら馬飼が答える。「もう半日歩きどおしだが、せっかく付けた差は守りてえ……。今日中にゴールしないとペナルティだしな」
「五頭さんたちなら充分引き剥がしたじゃないっすか……」
後輩が弱音を吐く。彼らはいくつかのチームの先頭を維持していた。
「にしてもキャンプ地に着く前からこのスパルタ、教官はどんな奴なのかね」
三年の後原が肩を怒らせながら呟く。馬飼も同調する。
「今時こんな訓練、軍隊でもやらねえ。もっとも日本の軍はほとんど機械兵だけど……。海外出の奴じゃねえか」
「陸軍の特殊部隊かもしれませんよ。あれって日本でも、まだ人間がフロント張ってるんでしょ」
「傭兵に一票」
うだうだと管を巻きながら頂上を目指す一行の前に、小さく訓練場が見えてきた。
到着と同時にへたりこんだ馬飼たちを、下ろした荷の上に悠然と腰掛けた五頭が、キャップの蓋を開けながら言った。「遅かったな」
「なんでお前らが先にいんだよ」
寝転がったまま、逆さになった世界を見上げて尋ねる。五頭はドリンクを飲み干して言った。「地図を見なかったのか?」ボトルを地面に置き、胸ポケットから出した地図を片手で広げる。
「俺たちが上陸した港の南東に、宿営地がある。目的地である演習場は山頂にあるが、そこまでの道があの獣道だけなはずがない。俺たちはともかく、管理者や補助者が登ってこれないからな。そこで、舗装された車道やロープウェイのような一般ルートがあると考えた。俺たちは最初からそこを目指して動いたんだ」
「そんなんありかよ?」
不平を漏らす馬飼に五頭が肩で答える。
「上陸時に局員から伝達された禁止事項は、積荷を放棄しないことだけだ。重要物資の移送を想定しての訓練ということだったから、これはさすがに破れない。だが他の条件に言及はなく、実際地図上には水場の無さそうなはずの地点に給水ポイントの記号が付されていて、そこがさっき言った一般道に重なっていた。これはそちらのルートで来ることも想定されているという証左だ」
「その通り、戦場にルールなど無い。お前たちはアスリートでも修行僧でもなく、兵隊なのだからな」
声と共に馬飼の視界に影が差して、胸倉を掴まれる。不意を突かれ驚いた馬飼の上体を引き起こして、影はそのまま馬飼を殴り倒した。
馬飼を張り倒した男は、吸い終えた煙草の煙をサングラスの前に吐き出すと、迷彩服のポケットから出した携帯用灰皿に吸殻をねじ込んで言った。「寝んな。学生の部活じゃねえんだぞ。終わってすぐ緩むな。お前は戦地でも、指令を果たした途端に警戒を解くのか?」
突然の出来事に少年たちは呆気にとられていたが、すぐに我に返る。
「ンだテメエは!!」
口々に罵声を引っ提げて迷彩服に詰め寄る。「ウチの頭に何してくれてんだコラ!! テメエ俺たちが誰か分かって手ェ出してんだろうな⁉」
「やめろ、お前ら」
五頭が鋭く諫める。
「その人の言い分は正しい。それに今の疲弊したお前たちじゃ、勝負にならない」
「でも、五頭さん……」
「五頭の言うとおりだ」
切れた口の端を拭って立ち上がりながら、馬飼が制止する。それから手の甲に滲んだ血を眺めて、迷彩服の男を見返す。
「今の拳……。あんたも改造人間だな」
「そうだ」男はサングラスを外して、鋭い目を覗かせた。
「俺は跡星丑。これからお前らを一端の兵士に鍛えてやる教官だ。よく覚えておけ、クソガキ共」
〇
治安維持局本部の地下の白い廊下、手術室のテールランプが、不吉に赤く灯っている。扉の脇に並んだ長椅子の前を、見が落ち着かない様子で行きつ戻りつした。椅子の上ではやつれた顔の紫が膝の上で手を組み、視線を床に落としている。横では心労に力尽きたように、悩まし気な表情で袈裟丸が眠っている。
手術中のランプが緑に変わり、扉が横に開く。袈裟丸がぱちりと目を覚まし、跳ね起きる。
「雪君は……」見が執刀医の下に駆け寄る。紫が無言で顔を上げ、執刀医が慣れた態度で答える。
「さすがの生命力です。安全圏まで持ち直しました」
一同から安堵のため息が漏れる。執刀医は心中察するにあり余るという風に肯いた。
「肉体の強度に救われました。全身にⅢ度の火傷があり、熱による粉砕骨折に熱傷が気道まで及んでいた。普通の人間ならまず助からなかったでしょう。現在は低温のマクガフィン溶液に浸けて骨組織の自然治癒と無菌状態を維持しています。三日もすれば意識を取り戻すでしょう」
「……はぁ」
しなしなと壁にへたりこんで袈裟丸が声を漏らす。紫がその肩を優しく抱いた。
「幸い狂花帯や外蔵骨格に影響はありませんでしたので、我々だけでどうにか処置することができました」
「狂花帯をいじれる葎先生が出張中ですからね……。遠隔手術にも限界がありますし、この状況で助かったのは奇跡的ですよ」
見が胸を撫でおろし、それからぽつりと呟く。「一ちゃんのお陰かな」
一同の中に、再び沈黙が流れる。執刀医がちらりと紫と目を合わせる。目礼して手術室の方へ引っ込んでいった。紫が額に組み合わせた手を合わせて嘆く。
「……すまない。私が付いていながら……っ」
「君の責任ではありませんよ、注連野局長」
紫は視線を上げる。白い廊下の奥から、革靴の音が近づいてきた。「相手は『悪王』御黒闇彦……。この世界の帝王にして無道の君、仕方のないことだ」
四十代後半の青いコートの男が姿を見せた。短く刈り上げた頭はきっちりと黒に染め上げられ、口元は厳めしく、妥協の余地のない頑なさを映すように引き締められていた。
「幣原公安部長……! 何故ここに」
紫が居ずまいを正す。見が袈裟丸を立たせて敬礼する。男は手を下ろすように促して紫に視線を戻す。
「部下の危急の時です。駆けつけておかしいことはないでしょう。特に伏魔殿が要する唯一の『12人』、その危機とあってはね」
紫が顔を歪め、頭を下げる。
「ご心労を重ねることとなり、申し訳ございません」
「それを責めるつもりは、ありませんよ。むしろ君の失態は、真白隊員の戦闘を注視するあまり、八号に逃亡の隙を与えたことにある。違いますか」
「いえ……、仰る通りです」
「誰なんですか、この人」袈裟丸が見に耳打ちする。見が小声で答える。
「幣原古人公安部長……。公安のトップだよ。伏魔殿の長である注連野局長の、さらに上の人」
袈裟丸が緊張したように姿勢を直す。紫が謝罪の姿勢のまま重ねた。
「重要保護対象である一々江隊員を奪われてしまいました。これ以上ない失態です。すぐに部隊を再編成し、奪還作戦を……」
「いや、いや。それはもうよいのです。注連野局長」
「よい、とは?」
幣原の発言の真意を探るように、紫が面を上げた。幣原は表情を変えずに続けた。
「先刻の、私の言葉を忘れましたか。言ったはずです。君の責任ではない。相手はあの御黒で、ゆえにこれは……、仕方のないことだ、と」
「? ……! まさか……」見が何かを察したように声を上げる。
「公安部長、それはつまり……」
「ええ」
幣原は温和な表情を一分も崩すことなく応じた。
「我々公安は、この件から手を引きます。注連野局長、彼女のことはもう忘れなさい」