第28章
暑さで寝付けず、目を覚ます。外はまだ暗い。壁に掛かっている時計を見ると、まだ起きるには早すぎる時間。ゴロリと寝が入りをうち、今日の事、正確には昨日の事だけど。その事を思い出す。無意識に沙羅は唇を、なぞる。想像より熱かった樹の唇、吐息、温もり。彼の全てが沙羅を熱く溶かしてゆく。樹の事を思い出し、余計に目が覚めてしまう。
「…樹は、私の事、”好き”なんだよね…なんか、嘘みたい」
ほうとため息を漏らし、ばふっと側にあった枕に顔を埋める。
異性から告白されたことは何度もあっても、好きな異性からなんて一度もなかった。嬉しいけど、自分で良いのかと思う。他に可愛い子だっているし、自分なんかと沙羅は思う。樹の事は好き。だけど、どうすれば良いか分からない。好きとは伝えたいけど、その後はどうすれば良い? 両思いになったら付き合うの? 樹と友達以上になること、その不安が抵抗となり沙羅の思いを繋ぎとめている。
しかし、溢れる思いは止められない。彼を思い浮かべるだけで好きという気持ちが流れ出す。どうしようも出来ない思いに溺れてしまいそうだ。沙羅を溺れさせて苦しませ居ているのは樹であり、それは変えられない。恋や異性を好きになるからこそ、甘くほろ苦い思いをするのだ。それは誰でも経験するもの。
「……はぁ」
息を吐き、目を瞑る。浮かんでくるのは樹の顔。彼のことを考えれば、会いたいと心が告げる。
「樹…」
と呟き、それが眠りの中に誘う言葉であるかのように、沙羅は寝息を立て眠っていた。
朝日が差し込み、小鳥が鳴く。まぶしさと鳴き声で沙羅は目を覚ました。ふわぁーと欠伸を一つして伸びをする。
――今日は樹に伝える日。それを実感し、制服に着替える。リボンを調え、いつもより丁寧に髪にくしを入れ、歯を磨く。しゃこしゃこと歯磨きを動かし、うがいをする。と、その時。奥の台所でトースターがチンッと快音を出し、音とご飯の匂いに誘われ、沙羅は洗面所を出る。
「あら、おはよう沙羅。今日は早いのね…何かいい事があるのかしら」相変わらず鋭い勘の母。
ニヤリと笑みを返し、お皿にのっている食パンを一口かじる。サラダもあるし、目玉焼きにベーコンもある。ヘルシーな朝食だ。それを食べ終わり、鞄を持つ。
「いってらしゃい、気をつけてね。って言っても、樹くんがいるから大丈夫ね…」
「…な、なんでそこで樹が…」
「はいはいっ! 分かってるから、外で待ってるわよ? 彼」
急いで靴を履き、ドアに手を伸ばす。
「いってきますっ」
ガチャとドアを開ければ、樹が目の前に居た。驚き慌ててドアを引けば、すかさず足をドアに挟んでくる樹。
「…沙羅、何で締める?」
「えっと…そ、の」そう問い掛けられただけでも、沙羅の心臓は爆発寸前。
行き成り樹がドアを引き、前のめりに倒れ樹のシャツを掴んだ沙羅。そんな沙羅を抱きとめ、支える。
「大丈夫…?」
顔を上げると近い顔。ドクッと心臓が音を立て、顔に血が昇っていく。直ぐにシャツから手を離し、髪を触る。
「…少しは意識してくれた?」と耳元で言われ、真っ赤になる。
「いつも、してた…」
小さな虫の鳴くような声音で告げる。
「……えっ?」
「っ…意識してたのっ…いつも、樹だけを見てた」
恥ずかしそうに俯いて言う彼女の言葉にきょとんとする。そして、沙羅はもっと真っ赤になって言った。
「好きなのっ! ……樹の事がっ」
顔を隠し逃げようとする沙羅を掴まえ、腕に閉じ込める。
「やっ…! 離しっ…て!」
本当に嫌がるなら、叩いてでも殴ってでも逃げるだろう。でも、それを沙羅はしない。その事が嬉しくて強く抱きしめる。
「…好きだ沙羅」耳元で何度も囁く樹。抱き締められ、首筋に顔を埋められる。
心臓が保てなくなり沙羅は隙を見て腕から逃げ出す。
「~学校遅れるっ!」
恥ずかしいのか樹の鞄を引きずるようにして、歩き出す。そんな沙羅にくすりと微笑み、彼女の歩幅に合わせ隣に並んだ。
「…なぁ、沙羅」
「な、なに?」まだ、頬を紅くし樹を見ようとしない沙羅。慣れるまでは当分、沙羅のりんごのような顔を拝む事になるだろうと樹は思った。
「…何でも無い」
くくと喉で笑い、沙羅の反応を楽しむ。それにむっとし、頬を膨らませる沙羅。
このまま沙羅を見ていようと思ったのだが、どうやら時間切れのようだ。もう直ぐ、学校の入り口が見えてくる。残念と思いながら、樹はにやける。これからはいつでも沙羅に会える。彼女はもう自分のもの。人間を好きになるなんて思っても居なかったが、と沙羅を見つめた。
パックのジュースを飲みながら、くたっと蒼浬にもたれ掛かる。
「どうしたの、沙羅。なんか、疲れているみたいだけど…」
「どうしたも、こうしたも…私の心臓が持たないっ!!」
愚痴れば、それは惚気だと言われてしまう。
「…へぇ。早いわねー。事が進むの」
「ヴ…だって、言わなきゃいけないのかなーと思って…」
「あんた、馬鹿でしょ」
「だって…どう言っていいか分からなかったんだもんっ!」
顔を真っ赤にして沙羅は言う。
「でも、嬉しいんでしょ? カレカノになって」
「そ、それを言わないでっ…」
「おーお。真っ赤になっちゃって可愛らしい。…ねぇ! 明冬もそう思わない?」と言葉を投げかける。
「…よかったな、沙羅」
咎められているような気がする。それに、明冬の顔が怖い。何かあったんだろうか。
「で? なんで、沙羅は此処にいるの?」
「お昼食べに…?」
「はあ!? 普通、行くでしょっ! 久遠くんのとこに!」
「な、なんで?」訳が分からない。どうして、此処にいちゃ悪いのか。
「鈍感。だって、付き合ってるんでしょ? お昼一緒に食べるのが基本よ、基本っ」
基本なのかと納得する。
「さ、立って!! 今からでも、遅くないからっ! いってら~」
立たされて、教室から出される。
「ちょっ…!」
叩いても、返事は返ってこない。窓から、お弁当が投げられる。慌ててそれをキャッチし、ため息を吐く。危なかった。お弁当の中身が潰れていたらどうしよう。
しぶしぶ、沙羅は立ち上がり、樹のクラスへと向かう。
「あの…。久遠樹くんっていますか?」
廊下側に居た、眼鏡を掛けた男に沙羅は話し掛ける。
「樹? 樹なら、さっき出て行ったよ。君は…」
樹と呼んでいる事は、彼と仲がいいのだろう。
「お…、アイツが話していた子じゃん。へぇ、趣味いいな、樹」
顔をズイっと近づけられ、退く。近づけられた彼の瞳を見て吸血鬼だと分かった。人間離れした風貌。結っている雰囲気がどことなく樹に似ている。
「天眞、樹に知れたらどうする…。厄介ごとはごめんだ」
ずれた眼鏡を直し、ため息を吐く。
「いいじゃん。だって、樹のお気に入りなんて初めてだぞ? お前は気にならないのか、神楽?」
「気にならないと言えば嘘になるな…」
「だろ? なぁ、樹が戻るまで俺達と話しようぜ、沙羅チャン」
突然呼ばれた名前に驚き、目を見開く。
「私を知ってるの…?」
「だって、なあ?」
「あぁ…知ってるさ。君の事は。樹がいつも五月蠅く、沙羅沙羅って呟いてたからね」
その事を聞き、顔が熱くなる。
「あ、樹から、俺達の事聞いてねのか?」
コクと頷けば、天眞と神楽は顔を見合わせる。
「これは…独占欲か? 樹の」
「そうじゃねーか? たくっ…少しは言えっての」
樹の事で会話をするなんて。なんか、吸血鬼らしくない。もっと違う形を想像していたのに。予想と違い、笑いが零れる。
「くすくすっ……」
沙羅から漏れた、笑いに二人は何かと思い彼女を見る。くすくすと微笑を浮かべる沙羅が居て、顔を見合わせる。
「あ、ごめんなさい…。余りにも予想と違って、笑っちゃった。ごめんね?」
二人を交互に見て綺麗に微笑む沙羅。そんな彼女に毒気を抜かれ、天眞と神楽は見惚れた。
「じゃあ、取り合えず。自己紹介とちゅーことで、俺は武藤天眞。よろしく」
握手を交わし今度は神楽と呼ばれている人を見る。
「泉神楽。まぁ、よろしく」なんだか対照的な二人だなあ。そう思い、くすりと笑う。そして、失礼だと気付き、止める。
「私は…」
「いい、知ってる。水無月沙羅だろう?」
見透かしたように言う神楽。
「で、沙羅チャンはさ、どこまで知ってるの? 樹はほとんど知ってるって言ってたけど、実際は?」
吸血鬼の事だ。
「全部知ってます。樹が私達と違う事も、高宮架斐の事も…」
「驚いた…そこまで、知ってるなんて」
口をあんぐりと開け呆けている天眞。
「じゃあ、樹に婚約者がいる事は?」
「…えっ?」
信じたくない。樹はそんな事一度も言ってなかった。
「ま、婚約者っていっても、樹は破棄したみたいだからな…誤解を招く様な事、言うなよ神楽」
「事実だろう? 破棄しても、あの女は樹を付きまとっている。気持ち悪くて仕方が無い…俺なら、すぐ付き返すのに」
その言葉を聞いて少し安心した。
「そう言えばさ、沙羅チャンは樹とどういう関係な訳? それが一番聞きたかったんだけど…」
「天眞、付き合ってるに決まってるだろう」
恥ずかしくて言えなかった沙羅は神楽に助けてもらった。
「そうだろう?」
「…はい、そう、です」恥ずかしがりながらも沙羅は言う。
「なるどねぇ、道理で樹が惚気てたわけだ」
「アレだけ、分かり易いとこっちも困る」
「…えっと、樹はいつ戻ってくるんですか? まだ来ないけど…」
「あぁ、それは…栢夜と話し込んで、うっ」
神楽が肘で天眞をどつく。
「考えなしに口を出すな、馬鹿天。彼女が困るだろう…今、樹が話しているのは栢夜じゃないはずだ」
「栢夜?」不安な顔をして二人を見比べる。
「ほら見ろ」
じろりと神楽に睨まれ、冷や汗をかく天眞。
「屋上だ。行きたいのなら行けばいい…」
「ありがとうっ」最後に微笑み、駆け出してゆく沙羅を見て、お腹を押さえながら天眞は眼鏡を拭く彼に問う。
「惚れたのか?」
「変な事行ってると、塞ぐぞ」
「ご、めんって…。けど、樹が惚れた訳分かった気がしたなあ…」
「同感だ」
「あぁ…先に見つければよかったな」
沙羅の顔を思い浮かべ、頭をかく天眞。
「上手く行くといいな」
「そうだな」
そんな会話を交わし、二人は同時に屋上を見上げた。