第19章
沙羅は予想せぬ事に驚いて振り返る。美しく歪められた端整な彼の顔。
どうして、そんな顔を見せるの? さっき言った言葉は嘘かもしれない――と沙羅は考える。頭の中を甘い期待が支配する。
掴まれている腕が熱い。沙羅は掴まれている腕と樹を交互に見比べる。
「…ごめんっ……」
樹から発せられた身に覚えの無い言葉。その樹の一言に沙羅は困惑する。
何故、自分を引き止めるのか。彼の心理が分からない。樹の行動が嬉しくない訳ではないが…。自分を止めた理由が聴きたい。彼の口から全てを。
沙羅は足元に視線を落としたまま、黙っている。
「……っ…」
いきなり手首を強く握り締められ、沙羅は小さく悲鳴を上げた。
「……痛いっ!」
「…あ、ごめんっ……」
「……。」
何も喋らない沙羅を見て、樹は掴んでいた腕を放す。
「……。」
「……。」
二人は何も言わない。木々のざわめきだけが音を奏でた。長い沈黙が続き、沙羅が樹に背を向ける。そして、沙羅は樹を一瞥し屋上を去って行った。
彼女の居なくなった方を樹は何ともいえぬ表情で見つめていた。
「…らしくないな…」
ポツリと呟いた一言が青い空へと吸い込まれていった。
ギラギラと輝く燃え滾る太陽。降り注ぐそれに心と身が焦がされる。その光が心地よく感じた。いつもなら、直ぐに光を避け戻ってしまうのに。今は何故か太陽に包まれていたい。この感情はあの子からの罪悪感から来るものなのか。樹は手を握り締め、壁を叩く。見れば、己が叩いた壁は見事に凹み、先ほどまで白かったものの一部は粉々にされていた。
忌々しい自分の、人とはかけ離れている力。
「……くそっ!」
すっきりしない気持ち。あの子に対しての罪悪感。何度否定しても、沸き上がってくる思い。あの子の傷ついた顔を見ただけで胸が締め付けられる。あの時、腕を離したくないと思った。それに自分を分かって欲しいとまで思った。自ら彼女を避けたというのに、醜く、意地汚く、身勝手だ。
最後の最後まで彼女は、恐れて怯えてハンカチを返しに来た。彼女が返しにくるまで、自分はそんな布切れなんてとっくに忘れていた。いや、彼女の事が頭を離れなかったからだ。
彼女が屋上に入って来たとき、自分でも頬が緩むのが分かった。酷い言葉を浴びせたと言うのに、それでも彼女が来てくれたという事実が、自分でも舞い上がるのを心の奥で感じた。その思いとは反対に信じたくないと言う自分。答えはもう喉のすぐそこまで来ているのに、それを中々口に出すことは出来ない。そんな自分がどうしようもなく、情けない。
彼女の怯えた顔、震えた手足、小さな声。最後に彼女が見せた、泣きそうな失望したような表情が脳裏に甦ってくる。彼女を抱きしめたくても、抱きしめられない。その全ての元凶は自分。何故、『関わるな』なんて言ったのだろう。今思えば、バカだった。
『関わるな』その一言が彼女を傷つけたのだ。傷つける為に言ったのではない。彼女を守る為に危険に晒されないように守る言葉だった。それが裏目に出るなんて。
後悔して分かった自分の気持ち。長年自分が経験していなかった淡い恋心。ようやく樹は沙羅に対する感情が分かった。いつ、気付いたのかは分からない。そう思った瞬間から沙羅に対する苦しい思いは恋だと樹は知った。沙羅の魅力に惹かれる自分。――否もう、溺れてしまっているのかもしれない。
人間と吸血鬼はけっして共存出来ないと、人間を忌み嫌っていた自分が――人を、一人の人間に恋をするなんて、思ってもいなかった。
口元に笑みを浮かべ、空を見上げる。見上げた空にはサンサンと輝きを放つ、光の源が淡く強く、存在を示すように、樹の顔を照らしていた。