第11章
沙羅は無我夢中に走っていた。家が見えてくると沙羅は逃げるように玄関に入り、直ぐ鍵を閉めた。力が抜けたように沙羅はズルズルと座り込んだ。
「はぁっ……はぁっ……」
息を正そうとゆっくり空気を吸うが苦しい。余りに苦しくて私は咳き込んだ。それに目尻が熱い――。視界がぼやけるのは走ってきたからじゃない……。この涙は何の為のもの? 私を襲ってきた吸血鬼が怖かったから? それとも初めて見る久遠の表情に恐怖心を覚えたから? あの冷たい微笑みと声音。あれは久遠じゃなかった。―――あんな久遠知らない。私が知っているのはいつも気さくに話してくれる久遠。
色々な感情が混ざり蛇のとぐろのように恐怖や不安が沙羅の心の中を渦巻く。
「……違うっ! 吸血鬼なんか居ない!! あれは幻よっ……居る訳っ!!」
沙羅は叫ぶが膝の痛みが疼き、現実に起こったことだと物語っている。私は痛む膝に視線を向け、気付いた。自分が握り締めている手の中に黒い布のようなものが少し顔を覗かせている。掌をゆっくり開いてみると、血がこびりついたハンカチがあった。強く握り締めていたからかハンカチは皺くちゃになっている。
これ、久遠がくれた…ハンカチ。くれたものじゃないけど。私の血が染み付いてる。洗わなきゃ駄目だよね……。沙羅はさっき自分の身に起きた事を思い出し、おもわず体を抱きしめる。沙羅にはなぜか確信があった。樹は吸血鬼だが、自分を襲った男達と違う事を……。 このハンカチを持っていても仕方が無い。久遠に返すべきか返さないべきか……。沙羅はハンカチをじっと見つめながら考える。悩みに悩んで私は決心した。よし、明日返そう。迷っててもしょうがない。
沙羅はふらふらと立ち上がり、靴を脱いで家に上がった。着替えもしないで沙羅は洗面所に向かう。蛇口を捻り水を出す。そこに血の付いたハンカチを手で揉み血を落とす。数分もしないうちにハンカチは元の色に戻っていた。そしてストーブの側に洗ったハンカチを置き乾かす。ほどよい温度とストーブの上に置いてあるヤカンの音が沙羅を眠りへと誘う。沙羅はソファーに身を預け瞼を閉じた。
食欲をそそる匂いが沙羅の鼻をくすぐった。暖かい光に目を細め、沙羅は起き上がった。いつのまにか自分の上に毛布がかけられていた。
「あら? 沙羅起きた?」
「……ん」
沙羅はぼんやりとした目で詩織を見る。
「もうすぐ、ご飯ができるわよ」
「お母さん…?」
「んー? 何?」
「毛布、ありがとう」
「なに言ってんの。いつもの事でしょう?」
そう言って母はまた、フライパンにのっている野菜を炒め始める。何も無かったように母は動いている。その事に安堵して私の涙は堰を切ったように流れ出した。沙羅は怖かったのだ。自分の身に起こった事が。薔薇姫などと訳の分からないことを言われ、自分では何もできない事を沙羅は知った。
母に気付かれないように顔を伏せていたのだが気付かれてしまった。私はなんでもない、大丈夫だよと言いながらその場をやり過ごした。何気ない、お母さんの優しさが嬉しかった。そして沙羅は涙を拭き顔を綻ばせた。
制服を鏡の前で正し、気合を入れる。自分に大丈夫と言うように。沙羅はハンカチが入っている鞄を何度も見つめながら歩き出した。
今は3限目の現国。窓の外を見ながらハンカチの事を考える。考えていると隣の明冬が紙を回してきた。紙を開くと、
『何悩んでんの?? すげー百面相 笑 by 明冬』
……百面相って。私そんな顔してるの? 紙を渡してきた張本人を見ると、面白そうに私を見て笑ってる。そんな明冬を見て沙羅は紙に書き込む。その書いた紙を明冬に渡す。
『あっそうですかー! 悪かったわね、百面相で!! ちょっと質問して良い? 沙羅』
明冬は綴られた文字を読み取る。読み終わり明冬は沙羅を見つめる。
『質問って?』
『……吸血鬼って信じる?』
沙羅は明冬の表情を伺う。顔が俯いているせいで読み取れない。少しの間、沙羅と明冬の間に妙な空気が流れた。しばらく待っていると、明冬がペンを動かし始めた。彼も何か知っているのだろうか?
『―――……はっ?? 沙羅、頭大丈夫か?? 吸血鬼? そんなもんいるわけねーだろ? 笑笑』
恐る恐る紙を開き、私は落胆する。何を期待してたんだろう。それでも、納得行かない私はまた、紙の上にシャーペンを走らせる。
『でも! 追いかけられて、噛まれそうになったんだよ!? ちゃんと牙も見たし、それにあの赤い―――全てを魅了するような瞳だって見た! これが嘘だって言うの?』
『……夢だよ、夢!! 疲れてたとか熱でも出して幻覚みたんじゃね?』
『そう…だよね。吸血鬼なんているわけないもんね……。ごめんっ! ヘンな事聞いて!! 嘘だよー(笑)』
頭を横切った淡い期待は泡となって消えていった。
そんな思いを無理やり消すように私はニヤリと笑いながら明冬を見た。一瞬、ポカンとした明冬の顔があまりにも可笑しくて私は笑った。笑うと明冬に頭を叩かれた。叩かれたところをさすりながら、私は音読している先生の声に耳を傾けた。
心の奥底で期待してたんだ。でもそれは違った。明冬が分かってくれる、信じてくれると勘違いをしていた。勝手に決め付けていた。一人で不安を抱えるという事はこんなにも苦痛で悲しいだけなんだと私はこのとき初めて感じた。
一滴、沙羅の瞳から涙が零れ落ちる。それは明冬にも気付かれずに、静かに煌きながら沙羅の制服のスカートに小さなシミを作った。
あの吸血事件はあの日を境に他の女の子が犠牲になる事はなかった。私という存在のせいで、たくさんの女の子が犠牲になった。なんで、私は何も出来ないんだろう。自分が無力と知り泣きたくなった。沙羅は手を握り締めた。痛みが手から体に伝わってくる。こんな耐えれるような痛みではなかったはず。18人の叫び声が今でも聞こえそうで、沙羅は瞳を閉じた。瞼を閉じれば聞えて来る、風の音や人の話し声。目を開けば、見えてくる。太陽や空。そんな風景や自然を感じる事が出来なくなるなんて、私には耐えられない。沙羅の目尻から大きな粒が流れ落ちた。
「…ごめんなさいっ…本当に…」
涙を拭き、泣き腫らした目で沙羅は空を見上げた。泣かないように、犠牲になった人たちの分まで生きようと、空を見上げた。