煙草と『主治医』と『盗み聴き』と
夜、懲りずに俺は消灯時間を過ぎてから月を見に行っていた。いつものように周りの気配に注意しながら屋上に続く階段まで一人で―いつもなら志村さんがついてきてくれるのだが今日に限って「眠いからパス」と言ったので―歩く。
目的のドアについていつも通りピッキングをしようとするが
「…開いてる?」
手応えが全く無いことを疑問に思いながらドアノブを捻ると油の挿してないドア特有の音を発てながら開いた。
「おや、キミは確か…『名無し』君じゃないか」
不意に上から渋い男の声が降ってきた。見てみれば無精髭にボサボサの髪、くわえ煙草にヨレヨレの白衣をはおった男性―主治医の柿谷嵐が貯水タンクの上から俺を見下ろしていた。
「こんな時間にどうしたんだい?確か消灯時間はとっくに過ぎていたと思うが…」
暗くて表情まで見えないが声の調子から多分いぶかしげな表情をしてるだろう。
「日課の月見ですよ。そういう先生こそ何してるんですか?」
「ボクかい?ボクは煙草を味わいにね」
肩をすくめながら「最近院内で吸ってたのがバレてね」と言う。
「『名無し』くん。今日は見逃すけど今度こういう事してるの見たら躊躇わず金森さんに報告しちゃうからね」
中腰になって笑いながら言う先生に思わず溜め息が出る。
出来れば言いたくなかったけど報告されるのだけは避けたいのだ。
「その場合先生がここで煙草吸ってたことを金森さんにばらします」
「勘弁してください」
瞬間、先生が土下座をして懇願してきた。
「…そこまでイヤなんですか」
「鰐よりはマシだよ」
対比物がありえないことになってますよ。
そんなことを考えてる間に梯子を使って先生が降りてきた。
「いやホントの話、ここに毎夜来るのはいいけど無許可はいただけないね」
へらへらと締まりのない顔で真面目なことを言う先生の顔は月明かりに照らされている。
「じゃあどうすればいいですか?」
「ボクが付き添いをしてあげるよ。治療という名目でね」
なるほど。そうすればこうやってわざわざコソコソと屋上まで来なくていいな。しかしこうやって患者に少しでも歩みより、患者のことを考えてるなんて…少し意外だった。いつもへらへらしていつも医師に見えなかったが今の先生は違う。初めてこの人の医師の顔を見た気がした。
「さらにボクは煙草を吸えるから一石二鳥」
…前言撤回。やっぱりただのオッサンだ。
「明日からだから、今日はコソコソ帰りなさい」と言って『名無し』を帰した後、柿谷は新しい煙草に火を付けゆっくりと紫煙を吸い込むと
「彼はもう行ったよ、欅くん」
柵の向こうに話かけた。
「…何時からバレてた?」
数秒後に返事と共に自らの体を何十本もの包帯で柵の向こうで支えていた欅が這い上がってきた。
「彼がここに来るのと同時に上がってきた…いや、キミが彼の後ろを堂々とつけていて彼がボクを見上げた瞬間にそこに移動した」
飄々とした感じに言う柿谷だが顔に表情は全く無かった。欅の方は苦々しい表情で柿谷を見据えながら包帯を束ねている。
「しかし包帯って意外と丈夫なんだね」
「数があればな…そんなことより」
「本当のことを思い出して欲しくないと?」
「…俺としてはそっちの方がいい」
「彼は『昔の自分』を思い出したいんだから、ボクはその手助けをしなくちゃいけないんだ。なんたってボクは主治医だからね」
二人ともそこで黙ってしまい夜風の音だけが虚しく聞こえる。
それから十分ほど経ち煙草を吸いきり携帯灰皿に押し込む柿谷が言葉を発した。「とりあえず今日は遅いから帰りなさい、どうせ葵ちゃんに黙って出てきたんでしょ」
そこには元の締まりのない顔をした柿谷がいた。
「あぁ、お休み」
欅は短くそれだけ言うと屋上からいなくなった。




