女子の応援
あのあと加藤から好きな人を訊かれて、その場の勢いで打ち明けてしまった。
そしてその日の夜、失恋したこと侘実ちゃんに言ってもいい?というラインメッセージが送られてきて、少し迷ってからいいよと返信した。
僕には、というより男子からすれば誰と付き合って誰と別れたかなんて自分から友達に言おうと思わないが、女子というのは恋愛事情を人と共有したがるものなのだと改めて勉強になった。
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いつもどおり朝早くのまだ人の少ない教室で予習をして、ぱらぱらと不規則なタイミングでやって来る生徒たちが脱力ぎみに黒板の前を通り過ぎていくとき——僕が気にしすぎているのか——なんだか視線を感じるような気がしてなかなか予習は進まず、やっとかっと一限の古文だけ終わらせる。
さすがにまずいなさっさとやってしまわないと、と思い途中から集中して英語の長文を辞書を片手に訳していたら机の前に誰かやってきた。
見上げると加藤がいて、軽く口角を上げて笑いをこらえるように僕の顔を見ている。
「おはよう寺木君。いい朝だね」
僕は苦笑して返す。
「おはよう。どしたの」
加藤は我慢していた顔をゆるめ、くしゃりと笑って自分の席に歩いていった。
それを見て僕も思わず口もとがゆるんでしまって、ほかの人に怪しまれないようさっとノートに視線を戻し、ふたたび知らない単語だらけの込み入った英文へ意識を向けなおした。
ほかの授業の合間は十分しかないのだが、三限と四限の間だけは十五分休憩時間がとられていてその間にとなりのクラスに遊びに行ったり、図書室で本を読んだりなかには食堂へ早めの昼ご飯を食べに行く者もいる。
僕は四限の英語の予習が終わっていないので三限終わりの挨拶と同時に英語の教科書とノートを取り出し急いでつづきに励む。
英語の先生はやさしいから予習が終わってなかったからといって怒られるわけではないが、当てられたとき答えられないと教室に沈黙が訪れて気まずくなるので、僕は几帳面にやるようにしている。
野球部などのお調子者のなかには当てられて予習してなくても、なんか気の利いた冗談でその場をしのいでしまうものもいる。羨ましく思う一方、僕にはそんな世渡りを極めたような技はないから愚直にやるべきことをやっているのだ。
背中を曲げノートに顔を近づけシャーペンでがりがり書いていたら声が聞こえた。
「寺木君、忙しい?」
机の左側に侘実と、その斜め後ろに控えた加藤が立っていた。
おぉと思ってシャーペンを机に置く。
センスのいい黄緑のセルフレームの奥にひそむ侘実のまっすぐな視線に気圧されて、僕はすこし遠ざかるように身体を右にかたむける。
「ど、どしたの?」
侘実はなんだか妙に嬉しそうな表情をしながらも、いつもの冷静さを失うことなくまわりを一瞥して聞かれないように小さな声でささやく。
「どうなの?進展してるの?」
それだけ訊かれて僕は予習のことだと思って答える。
「今日のぶん難しいね」
侘実と加藤は笑ってお互いの顔を見合い、さっきよりトーンの上がった声で言いなおしてきた。
「ちがうよ!あの人のことだよ!」
一瞬何を言っているのかわからず口を開けてぽかんとしてしまったところに、不意に天井から雷が落ちてきたのかと頭に突き落ちたある考えで僕の感情は支配される。
思考ができなくなりいっぱいいっぱいになった僕は、頭が割れてしまうのではないかと危機を感じて両手で抱え、床を向いてうああぁー!!と奇声をあげる。
それを侘実と加藤は——とくに侘実のほうが——柄にもなく腰を曲げてふふふと面白がり、そして良くないと思ったのか申し訳ないといった真面目な顔に戻った。
「私たちは応援するつもりだよ」
うるおった綺麗な眼をきりっと開いて言う。
僕は周囲の視線を気にしてまわりを確認するも、何事もなさそうに各自の休憩を満喫する生徒たちがほのぼのと過ごしているだけだった。
そんな僕を気に留めず侘実は続ける。
「自分の気持ちはちゃんと言うべきだよ」
後ろの加藤がうんうんと頷いて重ねる。
「相手もそのほうが嬉しいと思う」
そこからさらに勢いづいた二人は、どういう考えなのか無責任に僕の背中を押そうと眼をキラキラさせてありもしない未来予想を語りだす。
他人の恋愛を野次馬根性で楽しむのは男女問わず誰にだってある。僕だってそのうきうきした気持ちはわかる。
でも男子はそれを現実問題として捉えて無鉄砲な期待はせず、仲のいい友達にもある程度のところからは干渉しないよう身を引く。それに対して女子というものはどうしてこう色恋沙汰になるとまるで私が第一人者ですと自負しているかのような自信たっぷりに、他人のストーリーを進めたがるのか。
まあ、そう思いつつも本音では嬉しいのだが…………
やっぱりいままで相談相手がいなかったところに、こうやって興味を持ってくれる人がいるというのは僕にとって大転換なのだ。
僕はにやけて言う。
「なんにもないよ。やっぱ難しいと思うし」
それを聞いて二人はそんなことないと僕に自信を与えようとしてくれた。
ありがたいなと思いながら、女子と違って男子はそう簡単にいかないんだよなあと心の中で呟いた。
キーンコーン、カーンコーン
授業のチャイムが鳴り外で騒いでいた生徒たちが帰ってきて、曇りガラス越しの廊下をすたすたと歩く先生のシルエットが見える。
ガラガラと力なく扉が閉められ、生徒たちが椅子を引いて座る音がばたばたと教室に鳴りだす。
中庭ではここ数日でさらに鋭さを増した日差しが深緑の木々に濃い影を垂らし、じりじりと肌をまとう暑さが半端な冷房の効いたこの教室から授業の活気を奪う。
先生が教壇に立って僕の前の席と後ろのどこかの席二つが空いていることに気づく。まだ生徒二人が来ていないようだ。
全員揃わないのを物足りなさそうに先生は眼を閉じ眉を八の字に下げて、おおげさに渋がきで口をすぼめたような表情をして残念がる。
こうして僕の平凡でいつまでも前進しない日常は戻ってきた。