バスのなか
二つ並んだバスの座席で、僕のとなりに女の子が座っている。
一昨日までは肩までかかっていた髪を四分の三ほどの長さにきれいに切り揃え、ぱっちりとした睫毛と涙袋に影がかかったようなアイメイクを施した女の子が、椅子の端っこにあえて僕から遠ざかるように座っている。
僕の左手と加藤の右手が触れそうで触れ合わない微妙な距離を保ち、椅子の境目越しに並ぶ。
僕はさっきから横目を使い加藤の表情を確認しているが、バスに乗ってからリラックスしているのか緊張しているのかわからない顔のまま変わらない。
本当はそんな相手のことを気にする余裕もなく誰よりも緊張しているのは僕のほうだ。口に溜まった唾液をごくりと飲み込み、視線の行き先に困って結局窓の外ばかり向いてしまう。
加藤がごそごそと小さな鞄をいじり出し、僕は鞄に視線を向ける。
ピンク色のリップクリームを取り出して唇に塗った。
レモンのようなすっぱい爽やかな香りが漂い、蒸し暑い窓際の席でも汗がすっと蒸発していく。
リップクリームいい匂いだね、とか言ったほうがいいのだろうか。加藤の顔を振り向く勇気がなくてもう一度鞄に視線をやる。
僕が口の中で音にならない言葉をもごもごしていたら加藤が喋り出した。
「こんな遠くまで嫌じゃない?私あんまり人混み好きじゃないから……」
「全然大丈夫だよ。僕もイオンとかより自然に囲まれたところのほうがいいし」
「よかった。小学生の頃行ったことあるんだけど、もう一回見てみたくて」
「楽しみだね」
今日の行き先は加藤からリクエストがあり決まった。昔小学校の遠足で行ったという湖に一緒に行きたいということだ。
なんとなく想像はしてたけど、デートでもやっぱり加藤はこういう静かなところのほうが性に合うらしい。ちなみに僕も同じだ。
すこし言葉を交わしたらリラックスしてきて、さっきまで変に力が入っていた肩を撫でおろし背もたれに身体をあずける。
おもに加藤が話題を挙げて、それを僕が聞くという時間がつづいた。
加藤は楽しそうに、僕の知らない女子グループの力関係や立華たちと行った洒落たカフェの話、その店にすごいイケメンがいて友達が興奮した話など、ところどころ僕の反応を確認しながら途切れることなく話してくれた。
ちょうど加藤が満足いくくらい話し終えたところでバスが到着した。
普段はるか遠くにあるミニチュアハウスほどの大きさにしか見えなかった山々に囲まれたバス停にとまる。
バスを降りると枝のない人口杉が密集した山の斜面が走れば届きそうなところにそびえ、頭の上に昇った太陽が鋭い日差しを差し込み、道路に大きな影を落とす。
僕と加藤がバス停の入り口で景色を眺めていたら、ボボボーと音を立ててバスが走り出した。
加藤が言う。
「お腹すいたね」
もうお昼が過ぎているのでどこかお店に入ってご飯を食べようという流れになった。
こんな山際のところにお店なんてないだろうと思っていたが、加藤が話しかけてくれる前バスの中で何とか気を紛らわしたくて、スマホでここら辺のことを調べていたら意外にもちらほら店はあるらしかった。ここ一帯は湖まわりの景観が観光地化しているみたいで、いくつかの飲食店とお土産屋、宿泊施設などがあるようだ。
僕たちは細い道路を歩く。加藤は道路の中央あたりを、僕はガードレールに沿って右端ぎりぎりを歩く。
十メートルほど右下に小川があり、透きとおった水がちらちらと流れ、底の小石や川草がよく見える。
水面に反射した光が眩しい。
大きく手を振って加藤は道路の真ん中をぶらぶらと歩いていく。肩に掛けた黒の小さな鞄が身体と接したまま前後に動く。
僕はガードレールに右手を乗せ、彼女とすこし距離を置いてついていく。
どこかからともなく鳥のさえずる声が聞こえる。
加藤がふっと振り向いて、思い出したように言う。
「あ、虫よけスプレーしとくの忘れちゃってた」
背中後ろへまわり込んだ鞄を取ろうと紐を引っ張り胸の前に持ってきて、何度見ても小さいなあと感じる鞄からスプレーを取り出す。
「寺木君もする?」
加藤は首を傾げて訊ねる。
「うん、ありがとう」
キャップを持った手を女の子らしく鉤型に折りまげ、近づく僕を待っている。
シューーー
僕が手を広げると加藤は腕、首、お腹、脚と全身にスプレーをかけてくれた。
代わって加藤の握るスプレーをもらう。
加藤は僕よりも狭めに、そして低めに手を広げる。僕は顔にかからないよう気を付けて、まず腕にたくさん、そして胸のあたりに少し、最後に下半身に向けてじっくり数秒間、ガスを噴射させた。