事件
父親の一言に母親が笑って、一緒に笑いながら父親はグラスに赤ワインを注ぐ。
ボトルから流れ落ちる液体がグラスの面を滑るように飛び跳ね、こぼれかけるぎりぎりのところでグラスの内にとどまって、注ぎきってみれば眼の錯覚かと思うくらい少量のワインがグラスに溜まる。
僕はテレビを見ながら、口の中ではおいしいのにその味が脳まで伝わってこない夜ご飯を食べ終え、流し台へ食器を下げる。
机をまわって親の席の後ろを通るときに、息を止めて早足になる。
母親と父親の遠い笑い声を背中に受けてリビングを出ていく。明かりのついていない暗い階段を静かに上り、自分の部屋へ戻る。
その日の夜、事件は起こった。
クラスの全体ラインにある動画が落とされた。
その動画はあるクラスメイトがツイッターに投稿したもので、他の生徒がそれを見つけてクラスラインに暴露した。
目立ちたがり屋の男子が、夕方皆が帰ったあとに面白半分でパネル絵に落書きし、その動画をツイッターに上げたのだ。
その動画を見たパネル絵制作の中心的存在だった女子は、怒りと悲しみを滲ませた長文を送り、また立華は意味が分からない、何がしたいのか全く理解できない、といった内容のコメントを何度も何度も送信していた。
暴露された男子は何か言われる前にそそくさとクラスラインから退出してしまい、パネル絵女子や立華たちの悲しみに暮れたコメントには誰も反応することなく、ただ表示される既読数ばかりがカウントされていった。
彼女らがコメントする前には非難するものや、それとは反対に、ここでみんながいたずら男子を罵るのはいじめみたいになってしまうから、もうやめようと主張するものなどがちらほらいたのだが、立華たちがコメントしてからは新たに意見を述べるものがいなくなってしまった。
結局大多数の生徒は何も言わず、流れてくるコメントをただ読んでいるだけであった。
僕は暴露動画を再生してみたものの、カメラのぶれがひどくて酔ってしまい、最後まで再生せずに閉じてしまった。
ベッドで仰向けになり、天井を眺める。
白い天井の隅に塗装が割れて、髪の毛みたいなひびが入っている。
ポポポポン!ポンポンポーン!
ライン通話の着信音が鳴りだして、飛び起きた。
誰だろうか。こんな夜に。
今日の件なのか——。
通話がかかってくることが少なくスマホでの会話に慣れていない僕は、なんだか緊張してスマホを取っていいのか躊躇ってしまう。
ベッドから降りて机の上に置いてあるスマホ画面を見る。
————佐々木
すぐに受信ボタンをタップして、スマホを耳に当てる。
「もしもし……、やあ佐々木……お疲れ」
僕はどうしてそうするのかわからないが、声を一段高くして元気があるように見せかける。
……佐々木の声は聞こえない。
「……佐々木?」
「…………」
目の前が霞んでゆく。
舌が熱くなる。
何か言わなきゃ——
「今日……、大変…………だったね」
まだ佐々木は黙っている。突然、僕の頭に言葉のミサイルが降ってきた。
「………てか静岡じゃなくて僕……なんだね」
「……んふっ」
「はははっ!」
僕は腹から乾いた空気をはき出し大袈裟に笑う。
「はぁー。どうしようかねほんとに……。寺木どうしたらいいと思う?」
良かった。落ち込んでるみたいだけど、少なくとも僕が知ってるあの佐々木の声だ。
「いやーびっくりしたよ僕も」
「まさかパネルをいじるとはねぇ。凄まじい承認欲求なんだろうな」
一応怒ってもいるみたいだ。口を滑らせて機嫌を悪くさせないよう気を付ける。まあ佐々木があからさまに怒ることはないと思うけど。
「明日学校来るかなぁ○○?」
「んー、来なかったら来なかったで許されなさそう」
許されない……、か。
僕はベッドに腰かけて、床に視線を落とす。
明るさを調整できない円形の蛍光灯は眩しすぎる光を発して、ベッド下の床に深い影を落とす。
影に覆われた床の木目は見えなくなって、うす気味悪くのっぺりと鉛筆で力任せに塗りつぶしたみたいになっている。
佐々木が言う。
「明日は気が重いなぁ」
「佐々木でもそう思うんだ」
「そりゃ誰だってストレスは溜まるよ」
こうやって通話をかけてくるぐらいなのだから、相当ストレスが溜まっているのだろう。それでも暴言を吐いたり、愚痴をこぼしたりすることのない佐々木はすごいと思うし、偉いと思う。