〈第1話〉僕よ、清水の舞台へ飛び上がれ
▽僕よ、清水の舞台へ飛び上がれ
ハイビスカスが咲きにおう路地を抜け、ぶつくさ言いながら僕は、学校への道を歩いていた。
と、突然、肛門に激痛が走った。
「ふおおおお」
思わず倒れ込みながら、後ろを振り返る。
「また油断したでござるねえ、ケンヂ先輩」
忍者のように両手を組んで指を突き出し、小峰清花が不敵に笑っている。
「ふ、ふざけるなよ、おまえ・・・」
「私の指、第二関節まで達しました!」
僕が怒っているのもどこ吹く風で、清花は銃を撃ち終えたガンマンのように、人さし指に「ふうっ」と息を吹きかけ、満足そうにうなずいた。
「忍者なのか、ガンマンなのか、世界観をはっきりさせろ・・・じゃなくて、先輩にカンチョウをするのはやめろ…」
このつらさは味わったものにしか分からないだろう。
実のところ、僕は「ぢ」なんだ。今では「痔」って漢字で書けるぐらいの付き合いの長さなんだ。
でも清花はもちろんそんなことは知らない。清花に限らず誰にも言っていないんだから、知らなくて当たり前だ。今後も誰にも言うつもりはない。
「ケンヂ先輩、二年の寸劇委員、決まりました?私、一年の委員になりましたから」
僕はおしりをさすりながら、なにげないふうをよそおって「あ、そう」とだけ答えた。
いつも、こちらの言うことをろくに聞かず、こいつはずけずけずけずけと話しかけてくる。メガネの大きさが顔に合っていないから、よく人さし指でレンズをずり上げるんだけど、そのときの表情が小憎たらしいといったらない。
「おれさあ、前から言おうと思ってたんだけど、おまえが発音するケンジのジ、チにテンテンだろ。おれシにテンテンだからな」
僕は強引に話題を変えようとした。
「ケンヂ先輩、絶対、寸劇委員になってくださいよ。二人で面白いものつくりましょ。わたしたちなら絶対いいものができますよ」
清花は話題を全く変えようとしない。
こいつはどうして僕の言うことを聞かずに自分がしゃべりたいことだけをしゃべってくるんだろう。こいつの頭の中では、僕の名前は長瀬健二ではなく、長瀬ケンヂと表記されているんだろう。いや、長瀬という名字を覚えているかどうかも怪しい。
だんだんむかつきながら歩いていると、いつも横切る空き地にさしかかった。そして、これまたいつも見かける三毛猫が「にゃあ」と鳴いた。
「わたし、ミケオの『にゃあ』好きなんですよねえ」
僕の言うことは聞かないのに、猫の言うことは聞くのかよ。ていうか、あの猫「ミケオ」って名前なのか、と心の中でツッコミを入れつつ、ようやく話題が変わったと安心していたら「で先輩、寸劇委員やりますよね」とブーメランのようにまたそれは返ってきた。
清花がさっきからしつこく言っているのは『陽月祭』の出し物のことだ。
ここ年希島では毎年、十五夜の時期に太陽と月をモチーフにしたお祭りがあちらこちらで開かれる。特に年希中学校で行われる陽月祭は、運動会や文化祭も兼ねたような大がかりなもので、生徒の親だけでなく、それ以外の村の人たちから観光客まで、大勢の見物人がやってくる。
清花のじとーっとした視線を感じ、僕は言った。
「おまえが寸劇に命をかけるのは勝手だけどな、別におれはそんなもん、やってもやらなくてもいいんだ。あんなもの別に誰も注目してないぞ」
無言のまま、僕をにらみつけたこの後輩は、再び手を顔の前で組み、忍者のポーズのように両人さし指を突き出した。もういっかいカンチョウをしようというつもりらしい。
「ちょっ、待てっちゃ。やらんとは言うとらんやろうが」
僕は、あわてたり興奮したりすると時々出てしまう九州弁で清花をなだめた。これ以上、おしりを攻撃されるのはたまらない。
ここ年希島は、超ど田舎で、夏には九州よりも暑くなるような南にあるのに、住所上は東京都で、村の人たちも標準語に近い言葉をしゃべる。父ちゃんの仕事の関係で、小学生のときに福岡から転校してきて以来、笑われるから九州弁は使わないようにしている。
笑わせるのはかっこいいが、笑われるのはダメだ。
だから僕は学校じゃウンコはしない。本当にくだらないんだけど、男子トイレの個室のドアが閉まっていると、それだけでバカみたいに笑ってくるやつがいるんだよ。
なんでこんな話をするかというと、清花にカンチョウをされると決まって、しばらくするとお腹が痛くなるからなんだ。「病は気から」って言葉もあるし、気にしすぎなだけかもしれないけれど。
ようやく校門が見えてきたことに、とりあえずほっとした僕は「じゃあな」とだけ言って、小走りで教室に向かった。清花がどんな顔をしているかは見なかった。
「高橋のおばちゃん、どうぞー」
年希島でただひとつの診療所を開いている長瀬には、中学二年になるひとり息子がいる。
家ではぶすっとして、親とろくに口もきかないが、学校では一応「面白いやつ」で通っているそうだ。ほんとかどうかは知らないが。
高橋のおばちゃんは、年希中学校の購買部で長く働いている女性で、よく息子のおしゃべりの相手になってくれているらしい。
「ケンちゃん、陽月祭で寸劇やることにしたそうよ」
「へー、そうですか」
「懐かしいわねえ。長瀬先生のときの寸劇を思い出すわあ」
「『先生』はやめてくださいって」
長瀬は苦笑しながら、高橋のおばちゃんの胸に聴診器を当てていく。
島生まれの長瀬は、九州の大学に進学し、そのまま福岡の総合病院で勤務していたが数年前に年希に戻り、父親が営んできた診療所を継いだ。
おばちゃんは、長瀬が中学生だったときから「おばちゃん」で、今は「おばあちゃん」と言ったほうがふさわしい年になっているが、呼び名は変わらない。
体のどこにも悪いところはないのだけれど、こうしてちょこちょこ診療所にやってくるのは、おしゃべりが目的なんだろう。
息子のおしゃべりの相手になってくれているおばちゃんの、そのまたおしゃべり相手を親父がしているというわけだから、なんとも奇妙な関係だ。
「最近は学校であった出来事なんて、なんにも話さないから、こうやっておばちゃんに教えてもらう話は貴重ですよ」
大きく息を吸って、はいてを繰り返しながら、おばちゃんがほほえむ。
「ケンちゃん、自分で立候補したらしいわよ。『まあ、おれがやんないとしょうがないよね』って照れくさそうに笑ってたわよ」
「何がしょうがないんだ、あの野郎。あいつが人前に出て、芝居なんてできるんですかね」
「あら、ケンちゃんならできるわよ」
「それにしても、あいつはなんで、おばちゃんにはそんなに心を開いているんですかねえ」
高橋のおばちゃんはまだほほえんでいる。
「陽月祭の委員、今日全部決めてまうぞ」
担任のシバオの、がなり立てるような宣言を聞いて、僕の心臓は早鐘のように鳴りだした。
早鐘のように鳴りだした、というのは最近読んだ小説に書いてあった表現で、あんまりよく意味が分からなかったのだけど、要するにドキドキし始めたってことだろう。
言い直そう。シバオのがなり立てるような宣言を聞いて、僕はドキドキし始めた。
こんなどうでもいいことを僕はいつも頭の中で考えている。そうするとドキドキも少しは収まってくる。緊張すると、僕はお腹が痛くなるので、こうやって考え事をして気をまぎらわすのは大事なことなんだ。そう。何も清花にカンチョウされたときだけではないのだ、僕のお腹がピンチになるのは。
「ほしたら、オレが書記やるわ」
熊谷がシバオの返事も聞かないまま、黒板の前まで出てきてチョークを手に取った。
シバオも熊谷も同じ関西出身だからか、しゃべっているのを聞くと先生と生徒という感じがしない。ずいぶんなれなれしい気がするのだけど、関西では普通のことなんだろうか。
クラスメートの中には「シバオと熊谷の会話って漫才みたいだよな」と言うやつもいるが、特段面白いことをしゃべっているとは僕は思わない。
当の熊谷も「どこがやねん。よう大阪人が二人おったら自然と漫才になる、いう大阪人がおるけど、そういうやつに限ってひとっつもおもんないねん。ただの大阪弁同士の会話やん。漫才なめんなっちゅうねん」と言っていた。
これを聞いてからというもの実は僕は、熊谷に一目置いている。この冷静な分析は、もしかすると人前で漫才をやったことがあるからこそのものなのかもしれない。
結構、こちらがドキっとするような鋭いことを言ったりもするし、なんだかんだ言っても関西弁は「笑いの本場」って感じがしてしまう。確か、フルネームは熊谷洋。あんまり直接しゃべったことはないんだけど。
「クラスの書記はいまだに決めてへんのに、祭りの委員はこんなにはように決めんねんな。まだ五月やで」
デカいひとり言をつぶやきながら、熊谷は黒板に「実行委員」「出店委員」「運動委員」「絵画委員」と書いていく。
「寸劇委員」と白い字で書かれたのを見て、僕の心臓はまたドッドッドッと鳴り始めた。
今朝は清花に「あんなもん誰も興味ないぞ」と言ってしまったけれど、ほんとはそんなことない。
寸劇は、学校の陽月祭の最初に行われる目玉の出し物だし、楽しみにしている人も多い。
少なくとも僕が小学生のときに祭りに行っていたのは寸劇を観たかったからだと言っても過言ではない。
僕もいつか、あんな舞台に立って、みんなを思い切り笑わせてみたい、って小学生のときは思ったような気もする。
でも、今はちょっと違う。実はあまり人前で話をするのが好きじゃないんだよね。苦手というわけではないんだけど。特に大勢の前に出て目立つなんてのは好きじゃない。
正直言うと、クラスの中で何か発言するなんてこともできるだけしたくない。
二人や三人でおしゃべりして、相手を笑わすのは大好きなんだけどな。
教室の窓の外からは鳥のチッチッチッチという鳴き声が聞こえている。
僕の体の内側からはドッドッドッドという心臓の音が聞こえている。
熊谷は「じゃあ、出店委員は吉谷ぐらいでええな」と言いながらチョークをリズムよく動かしていく。
小さな教室には、カッカッカッカッという小気味よい音が響いた。
「吉谷ぐらいで、ってなんだよ」
吉谷が文句を言うと、熊谷はすかさず「ほんなら何委員がええねん」と返す。
「いや、別に出店委員でいいけど」「ええんかい」というやり取りで、出店委員は吉谷に決まった。
こんな調子で、熊谷が勝手に委員を決めていくのを、シバオは鼻をふがふがさせながら満足そうに見ている。太っているから、たぶん体のどっかから空気がもれているんだろう。
それにしても、なんと責任感のない教師だ。だから本名は柴田なのに、生徒からシバオなんて呼ばれるようになるのだ。
だいたい、こんな決め方をしていたんじゃ、僕が寸劇委員に立候補しにくいじゃないか。
ああ、そうなんだ。実のところ、本当は、僕は寸劇委員がやりたいんだよ。
だけど舞台に出たいってわけじゃないよ。寸劇委員になったからって、みんなが何かの役を演じなければならないってわけじゃないからね。台本を書いたり、音響を担当したり、照明なんていうのもあるのかな。よく分からないけれど。とにかく、いろんな裏方の人もいて、寸劇ってのは成り立ってると思うからさ。「縁の下の力持ち」って言葉もあるだろう?
そんなことを考えていたら、特にもめることもなく、ほとんどの委員が決まっていった。祭りの前の日に校庭に組まれるやぐらと、ステージに飾るための大きな絵を描く「絵画委員」を決めるときだけ、ちょっとした言い合いが起きた。
クラスで絵がうまいといえば美術部に入っている三好貴文と木崎典子の二人なのだが、熊谷が「絵画委員は木崎と三好な」と言ったのがいけなかった。
三好が「『木崎と三好』じゃなくて、『三好と木崎』だろ。おれのほうが絵うまいんだからさ」と言い出したのだ。
最初は「だから男子はガキだって言うのよ」と取り合わなかった木崎も、無関係&無神経の吉谷が「え?木崎って絵下手なの?」なんて聞くものだから「わたしのほうがセンスあるんだし、『木崎と三好』にしなさいよね」とムキになりだした。
「んなもん、どっちでもええわ。コンビ名考えてんとちゃうんやから」と熊谷がおさめようとするのだが、二人とも引かない。
シバオは興味なさそうに鼻をほじっている。
僕もはっきり言って、絵画委員がどうなろうがどうでもいいと考えていた。寸劇委員に今年なれなかったらどうしよう、ってことで頭がいっぱいだったからだ。
絵画委員が決まったら、黒板に書かれている順番からして、次は寸劇委員を決めることになるはずだ。
熊谷が勝手に誰かの名前を呼んでしまえば、後から「いや、おれが寸劇委員やる」とはなかなか言いにくいだろう。普通に立候補するのにも勇気がいるのに、いったいどうすればいいんだ。
確か二年の寸劇委員は定員二人だったはず。熊谷は自ら寸劇委員になろうとしているかもしれないから、問題はあとの一人を誰にするかだ。
おとぼけキャラの吉谷はすでに出店委員になったし、あとは寸劇やりそうなやつと言ったら誰だろう。
くそう、去年はせっかくそれぞれ立候補できるやり方で委員を決めたのに。一年のときに寸劇に手をあげられなかったことが今さらながら悔やまれる。どうして、あのとき思い切ることができなかったんだろう。
考えてもしょうがないことをぐるぐる考えてる間にも、三好と木崎、熊谷がわあわあ何か言っている。シバオもふがふが興奮している様子だ。
まだ絵画委員は決まってないのかな。
「じゃあ長瀬決めてくれや。木崎と三好か、三好と木崎か」
僕の名前が突然呼ばれ、熊谷の声がはっきりと耳に響いた。え、なんのことだ。長瀬が決めてくれ?僕の頭でぐるぐる回っていた思考は突然止まり、心臓は訳が分からないまま最大限にどぎまぎしだした。
「そやから絵画委員をどうするか。どうするか、っちゅうか、三好と木崎か、木崎と三好か、順番だけさっさと決めてくれや、長瀬」
何が何だか分からないまま、頭が真っ白になる。熊谷が言っていることは聞こえているけど、理解ができない。
僕はとにかく何かを言わなければと気が焦る。でも思うように声が出てこない。三好、木崎、シバオの三人がこちらをにらむようにじっと見ている。いや教室中のみんなが僕に注目しているんじゃないだろうか。
よし、木崎と三好か、三好と木崎かを言うだけだ。
別に僕は人前でしゃべるのが苦手なわけじゃない。ちょっと好きじゃないというだけで、話そうと思えば話せるんだ。
「長瀬が決めへんのやったら、もう、じゃいけんにでもするか」
シバオが強引に事態をおさめようとした瞬間、僕はもうどうにでもなれ、と半ばやけくそになって立ち上がり、思わず力一杯腹に力を込めて叫んでいた。
「じゃあ、寸劇委員はオレがやる!寸劇委員は熊谷と長瀬!ちがった。長瀬と熊谷!!」