N珈琲店
晴れた二月の十一時過ぎ、駅前の通りを往く。思っていたより気温は低くて掌を握っては開き、また握る。
持ち帰りのみのたこやき屋とガラス張りのダイニングバーに挟まれた小さな看板。細い入り口。
知らない店へと至る階段を上る時、いつも微かに不安になる。その階段が素っ気ないならなおのこと。
扉は確かな手応え。
使い込んだ革、住み慣れた家、そんな気配。古くて暗くて心地良い。
コーヒーとココアだけですけど、いいですか。
はい。
開けたばかりなもので、カウンターへどうぞ。まだテーブル席は点いてませんから。
常連客の並びに、一時、交じらせてもらう。
むさいオジさんしかいませんが、とマスターは続ける。雰囲気が笑うのを感じる。
地元では知らない者のないローカル紙、軽い読み物、雑誌、時刻表。カウンターに雑然と置かれたそれを、一人一人、気ままに取っては読む。
寒いっち思うたら、明日は七度やってよう。
七度ならまだ過ごせる。おれは三度まで経験したけんな。
豆を量る音にマスターの声が重なる。
今日はカウンターしばらく禁煙な。お嬢さんいらっしゃるけん。
いえ、そんな。どうぞ。
どうぞ、てよ、マスター。
若い人が来るのは珍らしいですよ。タケイさん、隣ええなあ。
いや、隣じゃかえって見えん、老眼で。声だけ。
薬罐の湯、使い込んだ片手鍋、コーヒーネル、バン・ホーテンの純ココア。
マスターの背後にはカップとソーサーの並ぶ棚。コーヒーを湛えた姿を順番に想像する。
ここんコーヒーはうまいですよ。なあ、マスター。
返ってきたのは含み笑い。
挽かれた豆の香りをふと感じた。二種類の粉は然るべきところへ。
細口のドリップポット。コンロの上の片手鍋。薬罐がしゅう、と湯気をあげる。
かしゃかしゃかしゃ。
丹念にココアを練り混ぜる。
イデさん、音楽かけてくれんね。何でもええけん。そこ、クラシックの、作曲家順に並んじょん。
ベートーヴェンやな。
迷う背中に、茶化すような声。
年寄りにはこんなハイテクなもん、動かしきらんわ。
首をひねる無音の時。
ならいい、いい、おれがやるけん。
いやいや、ああ、こうやな。
ごく細い糸のような弦楽が店の空気をたどって来る。
温度を整えたお湯が静かに流れ出る。
コーヒーはふくよかに、ココアは滑らかに。マスターは俄かに少し、忙しくなった。
慈しみがネルの豆に伝わる。まるく健やかな泡が膨らむ。
片手鍋に牛乳が注がれる。かしゃかしゃかしゃ。耳から、目から、その柔らかな口当たりがわかる。
きめ細かな空気を溶かしたココアが先にできた。カップはカウンターの端の席へ。離れたここまで、甘い香りが届く。
味わいをたっぷりと吸い込んだコーヒーの滴も次第次第に満ちていく。
マスター、最初の一杯はお嬢さんに。
頷きが見えたような気がした。
柔らかな色の月見草のカップ。
旨かったらいいんですが。
まずは掌で温かさを味わう。自然と、ゆったりと息をしていた。
ええと、ミルクポットはどこ置いちょったっけ。
そこや、そこ。ブロッコリーの隣。節くれだった指は多肉植物の植木鉢をさしていた。
いただきます。
時間をかけて淹れられたコーヒーは深くて広い。伸びやかな歌が頭蓋に響くように。
後には果実の味がした。
うまいでしょう。
はい。
煙草と一緒やと、もっと旨い。
紫煙が上る。時間の流れがまた緩やかになった。
一人一人の前に、馴染んだ風情のカップ。
クドウさん、ゆうべあんたに電話しようと思っちょったんよ。
どうしたん。
テレビ見よったらな、あんたが作ろうとしちょったあれ、テスラコイル、あれ作った人が出ちょって。もうできちょったぞーっち言おうとしたんや。
そうなんなあ。なんとか一万くらいで作りてえんやけどな。
いやあ、あれは十万くらいかかるわ、きっと。
それは作りきらんなあ。
なあ。
仄かな甘味に、ミルクも砂糖も入れないまま一口、もう一口と飲んでしまう。体に長年の焙煎の色が染みていく。
何十年を過ごした先にも、素朴で愉快な会話がある。
外の世界から持ち込んだ時計はいつの間にか長針を一回り半させていた。
ご馳走様でした。色々とお話しさせていただいて、ありがとうございました。
ああ、こっちこそ。街も楽しんで。
むさいオジさんばかりの店ですが、よかったらまた、いつでもどうぞ。




