15輪
その日、いつものように同好会の活動をするため、第二音楽室の扉に手をかけた私は、聴いたことのない曲が聴き慣れた声で歌われているのを耳にしました。
『瞳閉じて 耳を澄ませば聞こえる まだ少し幼い声
他愛もないおしゃべりで何時間でも 笑っていられたね』
「――園内さん」
『光差す渡り廊下も チャイムの音色も
曖昧で確かな日々を繋ぐ 大切なピース』
「ええと……園内さん?」
窓辺から外を覗くうきうきした様子の背中に、私は呼びかけました。
「あ、橋留さん。すみません」
園内さんは私のほうへ振り向いて、いつもの調子に戻って応えます。
「先輩たちは……」
「まだ来てないみたいですね。中篠さんは?」
「若菜ちゃんは日直。じきに来るとは思うんだけど」
「なら良かったです」
「それで、あの……」
「何です?」
顔が段々と熱くなっていくのを感じた私とは反対に、園内さんは素知らぬ表情をしています。
「恥ずかしくないのかなって、園内さん」
「私、そんなことをしてたですか?」
「ああいや、そういうんじゃなくって……! 1人で歌ってるところを見られるのって、私はちょっと……」
「別にそこまで顔を赤くしなくても。それにこの曲、良い曲だと思わないですか?」
「あ、うん! それは思う! 園内さんってたくさん知ってるよね、素敵な曲」
「そうでしょう、皆さんに聴かせたい曲なんて星の数ほどありますから」
「どこで知るの? そういう曲」
「そ、そうですね……その話は追い追い」
誰にともなく歌を口遊んでるところを見られても動じなかった園内さんが、そこで顔色を変えて言葉を詰まらせました。何だか不思議だなあ……
それにさっき歌っていた曲のことも、そこでは結局聞けずじまいで。初めての発表を終えてすぐの同好会の活動を、私は密かに気になることを山積みにしたまま迎えることになってしまいました。
しばらくして5人が集まり、いざ練習を始めようとなった時。
「皆さん、ちょっといいですか」
園内さんは同好会メンバーの動きを制して注意を引きました。
「どうかしたの? 心春ちゃん」
「実はですね、次の発表の機会について提案をしようかと」
「そうか、もう次かあ」
「中篠さんはまだまだ大変かもしれませんが」
「それもそうだけど。感慨に浸ってる暇もないんだな、ってさ」
「同好会の活動が終わったら浸れますよ」
「それは余計に大変だよ……」
顔をしかめる若菜ちゃんににやりと笑顔を返して、一呼吸置いた園内さん。
「話を戻しますが、この5人でNコンに出場してみたいと思っているんです」
「……Nコン?」
「ほ、本当に?」
Nコン。一般の人々にもよく知られた大会の名前を聞いて、一ノ瀬先輩が真っ先に驚きの反応を示し、宝条先輩もそれに続きます。
「先輩方の言いたいことは分かります。メンバーが5人しかいない1年目の同好会、勝ち進めるなんてことはほぼないと言っていいです。ですが、何事も経験だとは思わないですか」
初めての発表だってまだちょっと前だって言うのに、あの時以上のお客さんの前で歌うなんて。私はその光景をぼんやりと想像してしまっただけで、気づくと手が震えていました。
「橋留さん、どうかしたんですか」
「いや、その、ちょっと……」
「怖いなら尚更やってみるべきかと」
「ううん……怖いとかじゃ、ないと思うんだけど」
「――じゃあ、それは武者震いですね」
「へ!?」
「きっとそうに違いないです、橋留さんも本当は参加したいってことです!」
「ま、まあ……参加したくないかって聞かれれば、それは嘘だけど……」
「では、これで同好会の会長と副会長が出てみたいと考えていることになりましたが――」
待っていましたとばかりに園内さんは話をまとめにかかります。そして言い包められた私に釣られるように、合唱を始めたばかりの若菜ちゃんも「いい経験になるってことなら」と右往左往していた目を再び据えました。
「――先輩方はいかがでしょう」
「分かった。せっかくだものね」
「……みんなが大丈夫なら、参加しない理由はないわ」
「決まりですね」
それでは、と園内さんを中心に意気込み、改めて練習を始めようとしました。すると、普段ならもう誰も来ないはずの第二音楽室の扉が再び開きました。しかも、一際大きな音と一緒に。
「みんな……!」
「葉月先輩!?」
宝条先輩が珍しく扉の音にも劣らない声を上げたのも束の間、会長は部屋に入ってきて一枚の紙を掲げました。
「合唱同好会――あなたたちに、歌ってほしいって話が……」
会長を通じて私たちの元に舞い込んできたのは、一度奮い立った私たちを更に驚かせる依頼だったのです。
「ぜひ!」
誰より先に、依頼の話を続けようとした葉月会長よりも先に、園内さんは私たちを顧みることなく即答しました。
「……ちょっと待って」
「本当の本当に……?」
先輩方は更に戸惑いの色を浮かべて、園内さんを止めようとしましたが、園内さんの意志は全く揺らぎません。
「発表の機会は多いほうがいいじゃないですか」
「……さっきも言ったでしょう、特に中篠さんは――」
一ノ瀬先輩が零した不安によって、全員の注目を浴びた若菜ちゃん。その顔は、まさしく空いた口が塞がらないとしか表しようのないものでした。流石の園内さんも、それを見やって少し我に返ったみたいで、第二音楽室はしばらく静まり返ってしまいました。
そののち、第二音楽室の沈黙を破ったのは宝条先輩。
「とりあえず葉月先輩、その依頼について詳しく教えてもらっても――」
「そうね」
先輩に促され、会長は一歩前に出ました。
会長によれば、私たちが初めて行ったあの発表を、とある親子連れが会場のバラ園で見ていたのだそうです。そのお子さんが、通っている保育園で私たちの発表について触れたところ、他の子供や保育園の先生も見ていたことが分かり、地域交流も兼ねて合唱を披露してもらえないかと話題が広まった――合唱同好会に声がかかったのは、そんな経緯からとのことでした。
「それで、日取りはいつ頃になるんですか?」
一通りの説明を受けたところで、うずうずしていた園内さんが姿勢を正します。
「今月の終わりから、明けて7月の頭くらいでどうかって話になってるわ」
「Nコンは地区予選が8月1日ですし、それなら何も問題ないですね」
園内さんは会長の答えを聞くと胸を撫で下ろし、言い切りました。
「……じゃなくて、だから中篠さんが」
ですが、一ノ瀬先輩も負けじと食い下がります。
「問題ないと思いますが。1ヶ月も間が空いてるんですよ」
「……間隔があっても、精神的に負担が――」
「――あ、あの、お願いだからストップ!!」
2人で揉めていたところに、横槍を入れたのは他ならぬ若菜ちゃん。困り果てた末に叫んだのでしょうか、その大声は隣にいた私がびっくりするほどでした。
「その、私も頑張るよ」
「……本当に、大丈夫?」
「はい」
先輩の気遣いに答える若菜ちゃんの声は、いつもより弱々しく感じました。
「……不安なことは、良かったら私たちに相談して」
「そうです。私だって何も考えず予定を詰め込もうとしているわけではないですし」
園内さんのその言葉に、一段と複雑そうな面持ちになる一ノ瀬先輩。堪らず、私は話を逸らします。
「――その、それで曲とかはどうするの?」
「私のほうでもう自由曲候補はいくつか用意してあります。依頼された発表に関しても、早めに曲を準備しておきますので」
「う、うん」
けれど、その疑問もあっさりと受け答えられてしまうのでした。話が淡々と進んでいきそうなことを感じ取った私は、その前に改めて若菜ちゃんを励ましました。
「わ、私も、若菜ちゃんのためにできる限りのことはするから」
「そうね。同好会メンバー、みんながついてるわ」
宝条先輩も一緒になって後押ししてくれましたが、若菜ちゃんは身体を震わせて、どことなく浮かない雰囲気のままでした。
「あの、そういえばNコンがどうとかって」
発表会の件が一段落してから、再び会長は話を切り出しました。
「ひょっとして、参加するの?」
「そのつもりです」
「頑張るわね。私も生徒会の身として、することはしなくちゃってところかしら」
「よろしくお願いするです」
会長に対しても改めて参加する意志をはっきりさせた園内さん。一方の会長は、そこでふと思い出したようにぼやきます。
「――ところで、規則とか手続きのほうは大丈夫かしらねえ」
「Nコンの応募要項はしっかり確認しているので、心配は無用だと思うです」
「ううん、そうじゃないの。こっちの話で……」
「どういうことですか?」
「参加申込書に、『学校長署名』ってあるでしょう。ああいうの、同好会には許可が下りにくくて」
その話を聞いた途端、それまでと打って変わって園内さんは不満を滲ませます。
「そんなことがあるんですか? 流石に納得がいかないですね……学則に書いてあるとかなら、話は別ですが」
「念のために後で確認してみるけど、学則としての記載はないと思う。でも、いわゆる不文律なのかしらね……同好会は大会とかには参加しないで、まず地道な活動を内外にアピールするところから始めてほしいみたい」
「それはまた、誰がそんなことを?」
「先生方はもちろん、私より前の代の生徒会の先輩方も言っていた話なの」
同好会活動の制限。そんなものがあるなんて考えの及ばなかった私は、立ち尽くして2人のやり取りを聞いていました。若菜ちゃんはもちろんのこと、宝条先輩や一ノ瀬先輩も初耳らしく、思わぬ形で見えた学校側の事情に驚きを隠せないようでした。
「活動をアピールするなら、尚更私たちはコンクールに参加するのが一番なのに」
どうしても我慢ならないと、急ぎ足で第二音楽室を出ていこうとする園内さん。けれど、若菜ちゃんがその手を引き止めます。
「おいちょっと、園内さん!? どこに行こうとして――」
「決まってるじゃないですか。校長室ですよ」
「いきなり行ったって何にもならないだろ……」
「行かないほうが何にもなりませんよ」
今度は、若菜ちゃんと園内さんで言い合いになりそうな空気。どうしようかと私が右往左往していると、更に宝条先輩までもが入っていきます。
「こはるちゃん、流石の行動力ねえ。ふふっ、すごいわあ……!」
「ぎゃっ!? だから抱き付くなって言ってるです! 先輩はそうやって何度何度も……!」
「せ、先輩……私まで……」
「わかなちゃんも、そうやって落ち着いて物事を考えられるんだもの」
始まってしまったと言わんばかりに一ノ瀬先輩は呆れ返り、もう収拾がつきそうにありません。一方、会長はそんな有様を目にしても笑顔のまま、また思い出したように呟きます。
「そうだ、部門参加はできなくてももしかするとフリーなら……」
「本当ですか!? 背に腹は代えられません、この際フリー参加でもいいです!」
宝条先輩に延々と抱き付かれ続け、やけになって園内さんは叫びました。
「分かったわ。申込書の準備ができたら、私も一緒にかけ合ってみるから」
今日も練習頑張って、と付け足して、もみくちゃになっている3人を意に介さないまま、会長は第二音楽室を後にしました。
「……葉月先輩も、全くああいうところは……」
「一ノ瀬先輩! ま、まずはこっちをどうにかしないと……!」
結局、その日は練習に入るまでに時間がかかってしまい、いつもの半分ほどしか活動ができなかったのでした。
翌日の放課後。メンバーが集まっていざ練習を始めようとした私たちを、園内さんは昨日のように呼び止めました。
「皆さん。ちょっとお話が」
「園内さん、どうしたの?」
今日は頑張ろうといつも以上に意気込んでいた私は、少しだけ水を差された気になりながらも尋ねます。
「発表会のことなんですが、早速曲を決めてきたのでぜひ聞いてもらおうと」
「……随分と早いのね」
昨日の今日で割り切れない様子だった一ノ瀬先輩も、これには流石にとやかく言わず、私たちは園内さんのほうに注目しました。
「橋留さんは、もう知っている曲かと思いますが」
スマートフォンで音楽を再生する園内さんの言葉を、何のことだろうと私は思っていました。すると聞こえてきたのは、確かに私が聞いたことのある曲。
「これって、昨日歌ってた――」
「そうです。『piece of youth』という曲です」
歌詞もメロディもあったかいな、と私はまたその曲に耳を傾けます。みんなに目を向けると、若菜ちゃんも宝条先輩も同じように、素敵な曲だと呟いていました。
そんな中で、どこか不思議そうな表情だったのが一ノ瀬先輩。おもむろに自分のスマートフォンを取り出して構い始めたかと思うと、何かを理解したような顔になって園内さんをじっと見据えました。
「……そういうことだったのね。こんな素敵な曲をどこで知るのかって、気になって調べてみたら」
一ノ瀬先輩はスマートフォンを差し出して、私たちに画面を見せました。
「カテゴリ『アニメ』……アニメの曲なの!?」
私が驚いて声を上げると、園内さんは一瞬血の気が引いたようでした。けれどすぐに居直り、強い口調で返します。
「何ですか。だからどうしたって言うんです?」
「いや、その……でもすっごく意外で……」
「前の発表の時だって――」
言いかけて、ハッとする園内さん。それを聞き逃さなかった一ノ瀬先輩は、もう一度スマートフォンで何かを調べ始めます。
「……なるほど、『風の声を聴きながら』もそうだったのね」
一ノ瀬先輩も語気を強めますが、それでも園内さんは引き下がりません。
「アニソンってことが、そんなに問題ですか? 皆さんだって、素敵な曲だと感じてくれたんじゃないですか?」
「……それとこれとは話が別。第一あの曲もこの曲も、どうして合唱曲版が……」
「私が編曲したんです、それで十分でしょう」
「……なら尚のこと、合唱曲として適切とは言えないわ」
「原曲がポピュラー音楽の合唱曲だって、今はたくさんあるじゃないですか――」
「――ストップ、ストップ!」
2人の言い合いを収めようと、若菜ちゃんがそこに割って入りました。
「何ですか、中篠さん」
「一ノ瀬先輩も和音も疑問に思ってるじゃんか」
「だから私は、その疑問自体がおかしいと……」
「それに、何もそこまでアニソンに拘らなくてもいいんじゃないか?」
若菜ちゃんが落ち着かせようとしたのを撥ね除けて、園内さんは目付きを変えました。
「――そうですか」
「そ、園内さん……?」
「みんな、そうやって私の好きなものを否定するっ……!」
園内さんは突然そう叫んで、第二音楽室を飛び出していきます。その光景を、私は呆然と目の当たりにしていることしかできませんでした。
ただ1人、その後ろを追いかけたのは若菜ちゃん。園内さんに続き、走って部屋を出ていきました。その若菜ちゃんもしばらくして戻ってきましたが、肝心の園内さんは一緒ではないようで……
「若菜ちゃん! 園内さんは――」
「――その、しばらく1人にしてくれって」
「きっと、きっと戻ってくるよね……?」
誰にともなく零した私の問い掛けは、誰の答えも得られないまま宙に消えました。そして園内さんも、その日は第二音楽室に帰ってくることはありませんでした。