9輪
合宿最終日、練習部屋に全員が集まると、宝条先輩が本のような物を取り出した。
「じゃーん!」
表紙を見てみると、女声合唱用の楽譜であることがわかった。
「実は、この合宿で使えたらなって思って、楽譜を注文していたの。
それで昨日の午後に届いたの」
嬉しそうに宝条先輩が説明すると、
「…すみれ、そういうのはみんなに相談してからにするべきだと思う。
でも、ありがとう」
と一ノ瀬先輩が言った。
確かに驚いたが、女声合唱用の楽譜という未知の物に対して、私は少しワクワクした。
「それで、今日歌う曲を決めたいのだけど…これとかどうかしら?」
そう言って、宝条先輩は適当にページを開いた。
「『ひこうき雲』…知らない曲ですね…」
「確か、アニメ映画の主題歌になった曲ね」
「私も知ってます!あのシリーズのアニメ好きなんです!」
そう言った和音は少し興奮していて、よっぽど好きなんだろうなと思った。
「私も聴いたことはあります」
「…私は知らないけど、それでも構わないわ」
「じゃあ、改めて聞くわ。『ひこうき雲』でいいかしら?」
宝条先輩の言葉に全員が賛成し、歌う曲が決まった。
「それでは練習を始めるです」
園内さんの掛け声で、昨日と同じ基礎練習を始めた。
和音はやはり筋トレに苦戦していたが、少しは慣れたのか、昨日よりは辛くなさそうだった。
基礎練習が終わると、
「次は『ひこうき雲』を歌う為のパート決めですが、その前に一応パートの確認をするです」
園内さんはそう言って紙とペンを取り出すと、楽譜のような線を描き始めた。
「一般的に、上からソプラノ、メゾソプラノ、アルトの音域です。
今からこのように皆さんの音域を調べるです」
園内さんの説明によると、発声練習でよくやる、"ドレミファソファミレド"を半音ずつ上げ下げしていき、限界が来たら挙手。
上も下も全員が歌えなくなったら終了という方法で調べるらしい。
「ピアノ担当と声域をチェックする人が必要なので、2組に分かれて交代してやるです。
最初は橋留さんと宝条先輩で、ピアノは一ノ瀬先輩、次は中篠さんと一ノ瀬先輩で、ピアノは宝条先輩お願いするです。
何か質問あるですか?」
園内さんのその問いに、私はふと思ったことを訊ねた。
「園内さんはやらないのか?」
「ええ、自分の音域は把握しているので」
「そっか、ありがとう」
少し驚いたが、経験者なら当然なのかなと思いながら礼を言った。
そして園内さんによるチェックが終わり、講評が始まった。
「お疲れ様でした。まずは最初のお二人です。
宝条先輩があそこまで高い声を出せるとは驚きました。橋留さんも練習次第ではもう少し高い声を出せると思うです。
次のお二人ですが、一ノ瀬先輩は申し分ない結果ですね。中篠さんもまずまずといったところです」
園内さんの講評に、宝条先輩と和音は少し嬉しそうで、一ノ瀬先輩は少し照れているように見えた。
私は、どうやら悪くはないようでほっとした。
「それで、肝心のパートですが、宝条先輩と橋留さんがソプラノ、私がメゾソプラノ、中篠さんと一ノ瀬先輩がアルトでどうでしょうか?
人数の都合上、ソプラノかメゾを1人にしないといけないのですが、パートごとの実力差をほぼ均等にする為にはこうするべきかと」
「うん、私じゃ2人分にならないから園内さんお願い」
「そうね、良いんじゃないかしら」
「私はよく分からないから任せるよ」
「…良いと思うわ」
「では、決定ですね」
パートが決まり、パートごとに練習をする為、私と一ノ瀬先輩は別の部屋へ移動した。
園内さんは1人で練習しようとしたが、宝条先輩に誘われ、和音と3人で練習することにしたようだ。
「一ノ瀬先輩、よろしくお願いします」
「…こちらこそよろしく」
簡単に挨拶をして、練習を始めた。
「…まず、簡単に弾いてみるから聴いてもらえるかしら?」
そう言って電子ピアノの前に座る一ノ瀬先輩に、私は驚きを隠せなかった。
「えっ、一ノ瀬先輩この曲知らないんじゃ…」
「…ええ。でも、そんなに難しくなさそうだから弾けると思う」
「凄い…」
「…ピアノをやっていると、知らない曲でも楽譜を見れば弾けるようになるの。すみれもそうね」
「そうなんですね…」
私が感心している間に一ノ瀬先輩は準備を終え、ピアノを弾き始めた。
演奏を聴いていると、ぼんやりとどんな曲だったかを思い出すことは出来たが、口ずさむことすら出来なさそうで、不安に駆られた。
「…この曲、アルトが主旋律みたいね。頑張りましょう」
演奏を終えた一ノ瀬先輩がそう言った。
「はい…」
私にとっては追い討ちでしかなかったが、どうにか返事をすることは出来た。
「…次は、フレーズごとに区切って音取りをしましょう」
「わかりました」
音痴を改善する練習と同じ要領だった為、戸惑うことはなかった。
しかし、聞き慣れない曲の為、同じフレーズを何度も繰り返し歌うが、中々思ったように声が出せず、少しずつ焦りと不安が募ってきた。
そんな私を見て、
「…一旦休憩にしましょう」
と一ノ瀬先輩が言った。
「すみません、ありがとうございます」
そういえば、一ノ瀬先輩と二人きりって初めてだな…
何か話した方がいいのかな…
「一ノ瀬先輩って、どうして合唱始めたんですか?」
「…大した理由じゃないわ。音楽をやりたかったけど目立つのは嫌だったからってだけ」
一ノ瀬先輩らしいなと思ったと同時に、やっぱり音楽が好きなんだなと思った。
「そうなんですか。でも、音楽をやりたいっていう気持ちは素敵だと思います」
「…ありがとう」
口数が少なくて、何を考えてるんだろうって思ってたけど、思ってたより熱い人なのかな…
もっと仲良くなって、たくさん話してみたいな…
休憩の後、先ほど苦戦していたサビのフレーズをもう一度歌うも、やはり上手くはいかなかった。
すると、
「…サビはハモりのパートだから余計に難しいのかもしれない。私がソプラノを歌ってみるから、それに合わせて歌ってみてもらえるかしら?」
一ノ瀬先輩がそう提案してくれた。
「分かりました。お願いします」
言われた通り、一ノ瀬先輩の声に被せることを意識してみるも、ソプラノにつられてしまい、期待通りにはならなかった。
「…じゃあ、アルトパートを弾きながら歌ってみるわ」
ピアノの音を頼りに歌ってみると、先ほどよりは上手く歌えた気がした。
それを繰り返し、4回目でようやく綺麗にハモることが出来た。
「…良さそうね」
「はい!」
その後も少しずつ先に進み、なんとか最後まで歌ったところで午前の練習は終わりになった。
みんなでお昼ごはんを食べながら、お互いのグループの練習の進捗を報告した。
「こっちは順調よ。やっぱりこはるちゃんは上手ね」
「…そう。こっちは少し苦戦してるわ。もう少しペースを上げないと、合わせるのは難しいかもしれない」
「すみません…私のせいで…」
「そこまで気にすることないです。経験の差が出るのは当然ですし、予想もしてるです」
「そうだよ若菜ちゃん!みんな若菜ちゃんが頑張ってるの分かってるから」
「園内さん…和音…」
2人の力強い言葉に、折れかけてた心が活気を取り戻した。
お昼の休憩が終わり、午後の練習に入った。
まずは全員で発声練習をするとのことで、練習室に集合した。
「一口に発声練習と言っても、種類がたくさんあるです。
昨日やった練習も含め、いくつか大まかに説明するです」
園内さんはそう言ってから少し考える素振りを見せた後、もう一度話し始めた。
「まずは、パート決めの時にもやった、"ドレミファソファミレド"を半音ずつ上げ下げしていく練習です。これは半音、全音の間隔に慣れ、色々な調の"ドレミファソ"を歌えるようにする練習です。
次は、8分音符で"ソソソソソファミレド"を"はははははへひほふ"とスタッカートで歌う練習です。スタッカートとハ行の発音の練習ですね。
あとは、4分音符で同じ音で"あーえーいーおーうー"と伸ばし、これを半音ずつあげていく練習です。これは母音の発音の練習です。
他にもいくつかありますが、今日やるのはこれくらいでいいでしょう」
説明の半分も理解出来なかったが、とにかくやってみるしかないのだろうと思い、聞き直さなかった。
発声練習の後は、もう一度パート練習をやることになったが、その前に宝条先輩が確認したいことがあると言い、全員の注目を集めた。
「『ひこうき雲』のラスト、楽譜では各パート2音ずつあるんだけど、メゾはこはるちゃんしかいないから、どうしたらいいのかなって」
「そうですね…今まで人数不足で音を削ったことはないので…」
「…ピアノで鳴らしてみたらどうかしら?」
宝条先輩が そうね と言い、ピアノを鳴らした。
「まずは楽譜通りね…
次は片方の音を削って…
もう片方の音を削って…」
3つのパターンを聴き比べてみると、音楽に詳しくない私にも分かる程、印象に違いが出た。
「この音を削るのが一番マシですかね…」
園内さんが渋々そう言い、先輩方が同意し、一応問題は解決したらしい。
そして、私たちは別の部屋に移り、パート練習を始めた。
午前の練習で苦しんだ部分を重点的に練習し、アルトパートの伴奏がなくても、サビでソプラノにつられることが無くなった。
「よし…!」
手応えを感じ、思わず呟いていた。
「…ここまで出来ればみんなと合わせても大丈夫そうね。お疲れ様」
「ありがとうございます!一ノ瀬先輩のお陰です!」
私たちはパート練習を切り上げ、練習部屋に移動し、全員で合わせて歌うことになった。
やや緊張しながらも、最後まで歌いきることが出来た。
その後、反省会となり、録音したものをみんなで聴いた。
「それでは、気になった部分を一箇所ずつ確認するです」
そう言って、園内さんは順番に指摘していった。
その中の半分程は私に原因があることだった為、少しヘコんだ。
「あと、最後の部分ですが、和音がおかしい気がするですが…」
園内さんがそう言いながら、もう一度録音したものを再生した。
改めて聴くと、確かに曲の最後には相応しくない、不安になるような感じがした。
「正しい和音はこんな感じなんだけど…もしかして、若菜ちゃんの音が半音高くなっているんじゃないかしら?」
そう言って、宝条先輩が録音した音を再現してみせた。
「凄い…!」
「中々やるですね…」
和音や園内さんも驚いていた為、そう簡単に出来ることではないのだろう。
その後、最後の和音を丁寧に確認し、もう一度合わせて歌ってみることになった。
「それでは」
という園内さんの声で全員が歌う姿勢を取った。
歌い終えると、先程まではなかった一体感や、高揚感があった。
興奮しながらみんなを見てみると、同じ様に興奮していて、私の勘違いではないと分かり、嬉しくなった。
「若菜ちゃん!やったね!」
「ああ!」
ふと、バスケをやっていた時を思い出し、ハイタッチをしようと手を出してみた。
和音は一瞬何のことか分からない様子を見せたが、すぐに笑顔で頷き、力強く手を叩いてくれた。
「このハーモニー、たくさんの人に聞いてほしいなあ…」
和音が誰に言うでもなく、そう呟くと、
「あ、それ!」
と、宝条先輩が食い気味に反応した。
「同好会の目標、これでどうかしら?」
「…そういえば、まだ決めてなかったわね」
「悪くないですね」
「良いと思います!」
こうして、合唱同好会の目標が決まった。
そして、
「みなさん、この目標を忘れずに、これから頑張っていきましょう」
という園内さんの言葉で合宿での練習が締めくくられた。