第86話 葬られた真実(3)亡きマリアの慈愛
side:ルカ
「ちょっと待ってください。母さんは、俺を産むときに命を落としたんですよ」
やはり誰かと間違えているのだとルカは思った。彼女の言うマリアと自身の母とでは、生涯の幕の閉じ方が一八〇度違っている。
「そう言えと、光太郎に伝えたのは私だ」
だがクラナッハはこちらの訴えをぴしゃりとはね退けた。
「そして、そう伝えてほしいと頼んだのはお前の母だ」
「なに――どういうことですか?」
長いため息をひとつついた後、クラナッハは締め切られた窓辺のカーテンを開け、薄暗がりの部屋に光を通した。いくらか明るくなったものの、部屋の中は全体的に灰色がかっていて埃臭い。
クラナッハは使い古された木の丸椅子を勧め、自身も隣に並べた椅子に腰かけた。
「ここまで来てしまったからには私の知っていることは全て話そう。ただしひとつ約束してほしい」
ルカが椅子に腰掛けるのを待って、クラナッハは勿体ぶった口調でこう続けた。
「これから伝える内容についていっさいの詮索はするな。そして話を聞き終えたら速やかにパリを発ち、二度とこの地に足を踏み入れるな」
わかったな、と凄む視線に気圧されればもう何も言い返すことができない。その目が次第に遠いところを見て、ついに憂いを帯びるまでを、ルカはただ見つめるほかなかった。
*
ルーヴルはその当時から入所が難関で、ストレートで就職してくる人間はそう多くはなかった。エリーゼ・フォン・クラナッハとマリアが仲良くなったのは、そんな難関をくぐり抜けてきたという仲間意識が強くはたらいたからでもあっただろうし、同じ年齢で同性だったということもあるだろう。
とにかく、二人の間柄は馬の合う同僚というごくありふれたものだった。はじまりはそうだった。次第に二人は同僚という枠を超え、親しい友人になっていく。
だからクラナッハはマリアにコルシカ出身のボーイフレンドがいることも知っていた。
やがてマリアがその男の子どもを腹に宿した時も、クラナッハは真っ先に本人からそのことを打ち明けられた。
『私、この子のことを大切に育てたい。でも最後にひとつだけ、確かめておきたいことがあるの』
彼女はそう言い残して蒸発した。
まだ風の中に青くささの残る、初夏のことだった。
クラナッハはぼんやりと「コルシカの男の元へと逃げたのではないか」と考えていた。理由はどうあれ、いわゆる駆け落ちというものである。
本当は、そうであればいいと願っていた。愛する男と共にいるならば、少なくとも彼女は不幸ではないはずだった。
「明くる年の春を迎える頃には、彼女について考えることもほとんどなくなっていた。そんな時、マリアから突然連絡があったんだ。『会いたい』と――ちょうど十五年前のことだ」
「十五年前……俺が、生まれた年」
クラナッハは無表情のまま頷いた。
「待ち合わせたカフェに、彼女は約束通りやってきた。そこで私は生まれたばかりのお前の写真を見せてもらったんだ。すごく美しい青色の瞳をしていたのを、今でもよく覚えているよ」
懐かしそうに細められた目が、ルカの青い瞳をじっと見つめる。
ルカはなんともこそばゆい奇妙な心地に包まれていた。今の今まで、母の命と入れ替わるように生まれてきたとずっと信じてきたのだ。それが突然、母の手に抱かれていた過去があるだなんて。
「おおよそ親というものは自分よりも子の方が大切だという風なことを言う。マリアもそうだった。いや、彼女は顕著だった。文字通り、自分の命より息子の方が大事だった」
先ほどからやけに回りくどい言い回しばかりだ。まるでその先を口にしたくないとでも言う風に。訝しげな表情を向けると、クラナッハは観念したようにため息をついた。「話を続けよう」
マリアはやはり男の元で暮らしていた。
コルシカ島の最南端。海の見える家で、男の家業を手伝うなどしてのどかに暮らしているのだと、彼女は自身の身辺について掻い摘んで話してくれた。
そうして話をしている最中も、マリアの顔はどこか引きつったままだった。口だけ動かして心ここに在らずといった様子なのが気にかかる。こんな話題はカモフラージュなのではないかとすら思えてくる。
指摘すれば、彼女の顔は一層険しくなった。
『本当は誰にも言わずにおきたかったのだけど、時間がないの。ごめんなさい。私が頼れるのはあなただけなの、だから』
『落ち着いて、マリア。大丈夫だから。ねぇ教えて。一年前、一体何があった?』
クラナッハは十分に声を潜めたつもりだった。けれどマリアはそれ以上に敏感で、周囲を見渡すとサッと席を立った。ここでは口にできない話らしい。彼女の青ざめた顔がなによりそう物語っている。
空は、うららかな春の風とはおおよそ不釣り合いな曇天だった。コンクリートを塗りたくったような灰色は気分までをも重くする。二人は大通りを抜けると、人気のない路地裏に入り込んだ。いよいよあたりに人気がなくなったところで、マリアは掴みかかるようにして顔を近づけてきた。
『ルーヴルの地下階への扉を見つけたわ』
『ああ、マリア、まだそんなものを探していたの――』
呆れが先行して聞き逃しそうになったが、俯きかけた頭をぐっと戻し、クラナッハは思わず目を剥いた。
『見つけたって、本当に?』
ルーヴルの建造は歴史が古く、何百年も昔から用途を変え利用されてきた。だからだろうか、時折根も葉もない妙な噂話が流れることがある。
発電所になる前の美術館、それよりもっと古い時代――要塞時代に使用されていたという地下階が今も残っている……。
マリアはコルシカ島の男と知り合って間もなくしてから、そんなことを口にするようになった。
――曰く、その地下階はルーヴル美術館時代、数多の芸術品の貯蔵庫として活用されていたらしい。そして今もまだ、それらの芸術品は日の目を見ることなく眠りについているのだと。
『どの案内板を見ても地下階なんて存在しないし、階段だって見当たらない。私も半信半疑だった。でもあったのよ。シュリー翼棟の一階の、なんてことない廊下に。その扉はあったのよ』
『シュリー翼棟? あそこはサンジェルマン伯爵直轄の棟で、立ち入り禁止でしょう……まさか、侵入したの!』
『たまたまよ』
目を合わせようとしないマリアに、クラナッハは頭を抱えた。
たまたまなはずがない。あらかた他の二棟を探し終えて、手掛かりがなかったからシュリー翼棟に忍び込んだのだろう。
マリアは周囲からよく冷静沈着で執着心のない女性だと思われているようだが、実際そうでないことをクラナッハは知っている。彼女は興味を持てばどんどんそれにのめり込むし、納得がいくまで追うことをやめない。
今回だってそうに違いない。過ぎた好奇心が、彼女の足をシュリー翼棟へと向かわせたのだ。
『偶然、その扉の中に入っていくシュリー翼長を見たの。扉が開くとき、何か青い光が走ったのを見たわ。扉には見たこともない鍵が掛かっていた。鍵穴がなくて、でもコードを読み取るような部分もない。何度も物陰から盗み見て、分かったの。シュリー翼長は指にはめた何かを――おそらく指輪をかざして扉を開けていた』
マリアはクラナッハの肩越しに、壁の一点を見つめたまま口早に語る。
どんな仕組みで施錠されているのか傍目では分からなくとも、実物を見れば何か分かるかもしれない。好奇心に突き動かされて、彼女は何度も機会をうかがい、シュリー翼長に近付いた。
やがて、間近にその指輪を見るチャンスが巡ってくる。右手薬指にはめられた鈍色の指輪。ちらりと一瞬だけ見えた表面には、何かの模様が刻み込まれていた。左右対称の6を重ね合わせた、しずくのような形を模した模様だった。
『私はその指輪に心当たりがあった』
『手に入れたの?』
『ええ。うまい具合にね。扉は簡単に開いたわ。部屋の中の螺旋階段を下れば確かにそこには地下階が広がっていたけれど、絵画や芸術品の類はひとつも見当たらなかった。ただのがらんどうの空間だった』
噂はやはり噂に過ぎなかったということだ。心のどこかに期待する気持ちも残っていたのだろう。クラナッハは少しだけ落胆の意を込めてマリアを見た。が、彼女はもう地下階について興味がなくなってしまったのか、険しい目つきを更に細めてこう続けた。
『代わりに扉がひとつあったの。その先で私、ルーヴルの秘密を知ってしまった』
抑揚のない低い声はいつものことだ。けれど聞き慣れたその声が、普段よりも震えていることにクラナッハは気付いていた。
『見てしまったの、この世界の仕組みを。だから一年前、すべてを捨てて逃げたのに。見つかってはいけなかったのに。全て把握されていた。住んでいる場所から、息子のことまですべて……!』
『マリア、マリア落ち着いて』
白くなる唇を見ていられず、クラナッハは必死でマリアの肩を抱いてなだめすかした。マリアは呼吸を落ち着けると、レンガ壁に背中を預け、片手で額を覆った。
『人類は資源が底をつく恐怖に打ち勝ち、自然を犠牲にしているという罪悪感すら克服した。自分たちの手でエネルギーサイクルを回す、どの生態にも迷惑をかけずにね。しかも電気は湯水のように使えるの――大昔の人々から見ればきっと〈楽園〉でしょう』
ぽつ、と一滴の雨粒が頬にかかった。
見上げた先の空は細長く切り取られ、今にも落ちてきそうな鉛色をしている。
『でもそうじゃなかった。ルーヴルが築き上げたこの世界は、あるいは私には〈偽りの楽園〉に見える……』
『マリア――扉の向こうで、一体何を見た?』
ぽつぽつと落ちてくる雨粒の数が増え、あっという間にざあざあ振りになった。湿気たにおいがあたりを覆う。地面を跳ねて飛んだ水が、ズボンの裾から覗く足首をびしゃびしゃに濡らした。
結局、マリアは静かに首を振っただけだった。
『そろそろ行かなきゃ。呼ばれてるの』
相手がルーヴルであることは聞かなくても分かった。危険を承知でここまでやって来たマリアの気がしれないと、その時のクラナッハは思っていた。このままどこか遠い国へ逃げた方が良いのではないかと。
提案の全てを、彼女はやんわりと微笑んで一掃した。
『もし私の身に何かあったら、光太郎さんに伝えてくれる?』
『何かって――縁起でもない』
『私は何かに巻き込まれたわけじゃない。この子を産んだ時に天命を全うしたんだって。ねぇそうでしょう、エリーゼ。私はコルシカ島で生まれ育ち、その生涯をあの美しい島で閉じたの。しがない修復家として、コルシカで、幸せに暮らしたの』
弾ける雨粒で視界は白んでいた。その中でマリアは確かに微笑んでいた。まるで慈しみ深き聖母のように。それはきっと、何も知らずコルシカ島で母の帰りを待っている、我が子へと向けられたものだったに違いない。
お願いねとだけ言い残し、マリアは雨に濡れる街の中に消えていった。
それから間もなくして、マリアは帰らぬ人となる。
「……殺されたんですか。誰に。どうやって」
自分でもひどく苛立った声だと思いながらルカは問う。
「交通事故だそうだ」
クラナッハは苦虫を潰したような顔で答えた。
「翌日の朝刊の隅の方に載っていた。なにしろひどい雨だったんだ。ろくな目撃証言もないうえに、証拠もほとんど残らなかった。捜査は早々に打ち切られたよ。轢き逃げ犯は今も捕まっていない」
「嘘だ……事故なんかじゃない、母は口封じのために殺されたんだ……!」
未だかつてない怒りに身を任せて、ルカは部屋を飛び出そうとした。だがすぐに襟首を引っ掴まれ、体ごと引き戻される。
「あの時マリアが危険を顧みずパリに赴いたのは!」
だんっ、とルカは背中から壁に打ち付けられる。
「お前のためだぞ! 幼い息子に被害が及ばないように! その胸を怒りの炎が埋め尽くすならば、お前がするべきことはただひとつ!」
目の前に迫る女の顔は怒りでどうにかなりそうなほどに歪んでいる。
「二度と、この地に訪れないことだ……!」
彼女の瞳からは涙が流れていた。
十五年前のパリに降り注いだ雨が、そこから溢れ出ているように見えた。
ルカは抵抗するのをやめた。代わりにポケットからハンカチを取り出して、クラナッハに差し出した。
「ありがとうございます。母のこと、話してくれて。俺――何も知らなかった」
「知らなかったのではなく、知らされていなかっただけだ」
受け取ったハンカチで目元を抑えながら、クラナッハははっきりとした口調で言う。ルカは小さく首を振った。それから扉の方に目をやる。
「見つからないうちに、もう行きますね」
「私が出口まで案内してやろう」
「それは駄目です。途中で見つかったら迷惑がかかる。俺が勝手に逃走したことにしないと」
それでも渋るクラナッハに、ルカは首を振り続けた。やがて観念したのか、クラナッハは胸元から折りたたまれた紙を取り出し、ルカに手渡した。広げてみるとそれはルーヴルの館内地図だった。
「今私たちがいるのがここだ。リシュリュー翼棟二階の、この部屋だ」
クラナッハは「コ」の字の右下、角になっている部分を人差し指でくるくるとなぞった。
「このまま階段を下れば一階に辿り着く。廊下を左にまっすぐ進めばやがて大きな出入り口が見えてくるだろう。絵画の搬入口にもなっているから人の出入りも多いし、すぐにわかるはずだ」
「ありがとうございます」
一礼して顔を再び上げた時、クラナッハの顔には郷愁めいた色が浮かんでいた。
「もう会うこともないだろう。ルカ、最後にひと目でもお前に会えたことを嬉しく思う」
「はい、俺もです……お元気で」
灰色の部屋を後にして、ルカは速やかに階段を下りた。
深紅の重厚な絨毯が敷かれているおかげで足音は響かない。あるのは未だにうるさく胸を叩く、自身の心臓の音だけだ。それからグラグラと、これはきっと脳が煮え滾る音だろう。
下りきった先には大回廊への入り口が見えている。奥に見えるのは、忙しなく行き交う人の群れ。
――その胸を怒りの炎が埋め尽くすならば、お前がするべきことはただひとつ!
クラナッハの喚声がふいに蘇る。
頭の中でごめんなさい、と呟いて、ルカは地図をポケットにねじ込んだ。まだ冷静になれるほど大人じゃない。何が母を死に追いやったのか。その原因のすぐ側にいるというのに、やすやすと逃げるなんて。そんなこと、心が許さなかった。
そうしてルカはざわめきを背に、通路を右に折れ走り出した。