第85話 オルセー潜入(2) 交わる告解
side:アダム&ニコラス
アダムが身だしなみを整え終わると、二人はひとまず大回廊に戻ることにした。
長方形の建物は構造が単純なだけに、細々とした連絡通路はほとんど存在しないのだという。このまままっすぐ建物の端まで進み、発表会が開催されているというホールを突っ切れば、東のエレベーターはすぐそこだ。それに乗り込んでしまえば目的の研究室まで迷うことなく辿り着けるのだとウィンは言う。
「ホールにはほとんどの研究員が集まってんだろ。大丈夫か?」
こういう時、肝の小さいアダムは一変して逃げ腰になる。人は、後ろめたい行いをしている時ほど必要以上に疑心暗鬼になるものだ。
「堂々としていれば案外誰も気付かない。そうやってマジシャンなんかは人を騙し、パフォーマンスをしているんだから」
「そういうもんか?」
「そういうものだ」
先ほどの失態から口調をきっちりと合わせつつ、ニコラスは余裕の笑みを見せた。
代わり映えのない回廊を進んでいけば、やがて前方に人だかりが見えた。円形の広大なホールを賑わすほどの人数だ。しかも皆、白衣を羽織っている。おそらくウィンの読みは当たっているのだろう。つまり、今こそがちょうど研究の成果を発表する期間だということだ。
二人は目を細め、ホールの向こう側を見据えた。壁際に黒いエレベーターのドアが見える。
「背筋を伸ばして」
ニコラスは声を潜めて呟いた。同時に彼の顔から笑顔が消える。反射的にアダムは背筋を正した。
「いくぞ」
それが合図となり、二人は颯爽とホールに足を踏み入れた。
何列も並べられたパーティション。貼り付けられたポスター。傍に立つ研究員と、彼らが何か説明するのを傍聴する複数の研究員の姿。
後ろへと忙しなく流れてゆく左右の様子を、じっくり見聞きしている時間はない。一刻も早く、しかし怪しまれることなくこの敵陣の中を抜けなければならないのだ。
二人の企みは概ね順調だった。時々ちらりと振り返る者はいても、誰も怪しんだり声を掛けてくる者はいない。もうすぐホールを抜ける。あと数メートル――。
突如、どん、とアダムの左腰あたりに衝撃が走った。二人の足が思わず止まる。驚いて鋭い視線を左脇に向けると、バサバサと足元に紙の束が散らばった。
「うわ! ごめんなさい!」
謝りながらしゃがみ込んだ女性の、お団子ヘアが大きく揺れる。彼女は本当に申し訳なさそうに何度も謝罪を繰り返し、必死になって両手で紙を掻き集めている。
まさに逃走する直前のポーズをとっていたアダムは拍子抜けした。自分たちを疑って接触してきたわけではなさそうだ。ただの前方不注意だろう――やがてハッと我に返ると、自身もしゃがみ込み、一緒になって散らばった資料を拾い集めた。
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫? 怪我してない?」
集め終わった資料を手渡すついでに、アダムは首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です、あの……」
資料を受け取る時、彼女はちらっとアダムの顔を見て、またすぐに視線を逸らしてしまった。その頬はこころなしか赤くなっているように見える。
「よければ覗いていきます? あたしのポスター、すぐそこなんですけど」
どうやらポスターは一人一枚ずつ用意されていて、成果発表というのはそれを自らが説明するスタイルのようだ。肩に力の入っている彼女を見れば、精一杯勇気を出して声を掛けてくれたのだと分かる。
だが、ここで油を売っている時間はない。断ろうとアダムが口を開きかけた時、イヤフォンから戸惑ったようなロロの声が聞こえてきた。
『ウィンさん? どうかしましたか?』
ウィンの返答はない。黙り込んだままの彼女を気にしてオロオロとうろたえるロロの様子をイヤフォン越しに感じ取る。
そこでアダムはふとある可能性に思い至った。改めてお団子頭の女性の顔を見つめ直す。随分と小柄なうえに顔も童顔で、まだ幼い少女のようにも見えるけれど、アダムは自分と同年代くらいだと――つまりウィンと同じぐらいなのではないだろうかと思案する。ウィンも幼顔であるから、余計にそう思えてならない。
年齢が近く、研究所に所属している女性。そして思いつめたように口を開かないウィン……。
立ち止まったままの二人を不思議そうに見つめていた少女は、やがて何かに気がついたように目を瞬いた。
「あのぅ、間違ってたらごめんなさい」
そう前置いた彼女の視線はニコラスに釘付けになっている。
「あなたはもしかして、シュリ――」
「ぜひ見てみたいな、ポスター」
彼女の言葉を遮って、アダムは爽やかに笑ってみせた。
『なに言ってるんですか、アダムさん!』と耳元で騒ぐロロの声はとりあえず無視する。それからぎょっとするニコラスを振り返り、
「ちょっとぐらい良いですよね」
と白い歯を覗かせた。言葉尻に強引さを感じたのだろう。ニコラスは瞳にさっと不安を忍ばせた。が、アダムはますます笑顔を強くして、半ば無理やり彼を頷かせたのだった。
彼女に連れられてやってきたパーティションにも、大きなポスターがぴったりと貼られていた。ポスターには研究の背景や手順、結果、考察などがあまねく記されているようで、余白部分はほとんどない。
「これを一人で?」
「んー、大きなテーマとしてのチームはいくつかあって、その中の細分化された研究のひとつを担っているだけですよ。……あれ、あなたもしかしてここの研究員じゃない?」
「ああ、そう、これから入るっていうか。新人で、今日は見学って感じで」
ふぅん、と不思議そうに相槌を打つ彼女から慌てて顔を背け、アダムはポスターに向き直った。一番上には大きなフォントでタイトルが綴られている。
〈思考パターンとフレキシブルブラシのシンクロナイゼーション向上について〉
読み上げようとしたが、並んでいる単語の意味が一つも分からなかったので、アダムはそっと口を閉じた。横目で隣を見れば、ニコラスは無表情のままポスターを見つめている。澄ましているがこれは、全く理解できない、という顔だ。
アダムは次にポスターの左上に視線を移した。控えめな大きさで、この研究を手掛けた人物の名が記されている。
「ルーシー・スース」
アダムはぽつりと呟いた。声に出して言葉にしたのは、その名をイヤフォンの向こう側に届けるためだった。
「これ、今回の要旨集です。まだお持ちじゃないですよね?」
要旨集と言えど、一〇〇ページはありそうな冊子が手渡される。小脇に挟むには少々重すぎるサイズだ。ルーシーはそれぞれに冊子を手渡しながら、もう一度遠慮がちにニコラスを見上げた。
「あのォ、やっぱり、シュリー翼長様ですよね? わざわざ発表会に顔を出していただけるなんて、光栄です」
ルーシーは周りを気にしながら、声を潜めて言った。彼女の口ぶりからすると、ダニエラはほとんどオルセーには現れないようだ。それは今日みたいな成果を報告する場であっても同様らしい。
「ああ、今日はたまたまリシュリュー翼長に用事があって訪れたのだが」
と、ニコラスはぐるりとあたりを見渡す素振りをした。
「皆よくやっている」
「ありがとうございます。あの……リシュリュー翼長はまだまだここには来ないと思いますよ」
なぜ? とニコラスが顔を傾げると、ルーシーは気まずそうにへらっと笑った。
「資料まとめたり論文書いたり、苦手みたいで。研究はすごいんですけど。あの人いつも発表会の終わりギリギリにやって来ますから」
今は研究室にこもって最終チェックを頑張っているんじゃないかな、とルーシーは天井を仰いだ。
『彼が部屋から出てくるまで待った方が良さそうですね』
ロロの言葉に、ニコラスとアダムはふむ、と顎を引いた。確かに一度出てきてしまえば、発表会があるからすぐには研究室に戻ることもないだろう。下手に接触を図って怪しまれるよりよっぽど安全策に思える。
ニコラスは浮かせていた足を落ち着けて、ルーシーの方に向き直った。
「せっかくの機会だ。ルーシー・スース、君の研究成果を聞かせてもらおう」
「はい、是非!」
彼女からしてみれば身に余る光栄だったのだろう。緊張に泳ぐ瞳を見ながら、ニコラスとアダムの心は申し訳なさでいっぱいになった。
ルーシーが説明を始めようと口を開きかけた時のこと。ふいに、今度は背後から女性に声を掛けられた。
「シュリー翼長?」
振り返ると彼女は「やっぱり」と微笑んだ。漆黒の艶やかな長い髪を弛ませた、鼻筋の通った美しい女性である。額で赤い石が光っている。
「珍しいですわね、この場においでくださるなんて。いいえ、喜ばしいことですわ」
「ああ――」
ニコラスが曖昧に唸る。ダニエラと顔見知りなのだろうが、なにしろ名前が分からない。どう返すのかと、アダムがハラハラしながら見守っていると、女性はくすりと上品に笑ってニコラスの腕をとった。
「ダーナです、リシュリュー翼長補佐の。もう、いつまでも覚えてくださらないんですから」
ダーナはたわわな胸を押しつけるようにして、引き寄せたニコラスの腕に絡みついた。
「わたくしもあちらで成果の発表をしてますから、ぜひ」
「いや、私は――」
半ば強引に連れて行かれそうになったニコラスは、ちらりと振り返り、困惑した表情を向けた。
まずいことになった。と、頭では分かっていても、新人という体裁のアダムにはどうすることもできない。美女に引きずられてゆく仲間に哀れみの眼差しを送りつつ、アダムは「健闘を祈る」と心の中で手をあわせた。
呆然と立ち尽くしていたルーシーは、遠慮がちにこちらを向いて「ついて行かなくて良かったの?」と目で尋ねてきた。「大丈夫でしょ」と言う代わりにアダムは肩を竦めてみせる。
「それにしてもすごいですねェ」
「あ、俺?」
「俺ですよ! シュリー翼長様が直々に案内なんて。以前どこかで何かすごいことされてたんです?」
「ああ、まぁ……。いろいろね」
言葉尻を濁し、笑顔でごまかす。ルーシーはそれ以上深く詮索するのをやめて「すごいですねぇ」ともう一度感嘆の声を漏らした。
「すごいのは俺じゃなくてルーシーちゃんだって」
「え?」
そんな風に返されるとは思ってもみなかった、というように、彼女はぽかんと口を開けた。
「しっかり自分の道見つけて進んで、こうやって形にしてんじゃん。俺はいろいろやってきたけど、胸張って他人に自慢できるようなものなんて何ひとつ持ってねェもん」
「何ひとつって、あはは、そんな大げさな」
ルーシーの笑い声に倣って、アダムも口をあけて笑う。笑い終えてから、アダムはふっと言いこぼした。
「ルーシーちゃんは、後悔のない人生を送ってんだなって思う。伝わってくる」
見上げたポスターにどのようなことが書かれているのか、アダムには分からない。けれどきっと、薄ぺら一枚のポスターの向こうには血の滲むような努力が数え切れないくらい潜んでいるのだろう。
純粋な羨望が相手にも伝わったからだろうか、
「誰にだって後悔はあると思いますよ」
と、控えめな声でルーシーは言った。
「そうなの? 俺にゃ充実してるように見えるけど」
「仕事はねー。でも人生って仕事だけじゃないですよ」
彼女の視線は自身のつま先に注がれている。そこから外れるのを恐れるみたいに、じっと注がれている。
『どういうつもりなの、アダム君』
今まで沈黙を続けていたウィンが唐突に訴えた。そこでアダムの疑念がようやく確信に変わる。踏み入りすぎだろうか、という思いが一瞬頭を過ぎったが、そっと目を瞑った。
「ふぅん。たとえば?」
「たとえば…………」
彼女は喉まで出掛かっている言葉を必死に呑み込もうとしているようだった。だからアダムはそれ以上声をかけるのをやめて、静かに待った。
『もう、終わったことなんだから』
そんなに悲しそうな声で、まるで正反対のことを言う。心の患部がいつまでもじくじくしている感覚をリアルに呼び起こすことができるから、同じように息が苦しくなる。治ったと思っても、ふとしたことがきっかけで炎症がぶり返すことをアダムはちゃんと知っている。
だから他人事だと割りきれない。
お節介で結構だ――とアダムは心の中で呟いた。
「友だちとか、ですかね」
「友だち?」
白々しくもアダムは訊き返す。
「友だちのこと、ないがしろにしちゃったことがあるんですよね」
やがて彼女の口から、堪えきれなくなったものが言葉となって溢れ出した。
「ルーヴルで?」
こくっと彼女は小さく頷く。
「私が仕事を頑張れたのも、今を楽しいって思えるのも、彼女がいてくれたからなんです。とっても良い子で弱音なんか吐かなくて……だから、その子が何かに悩んでたなんて思いもしなかった。気付いた時にはもうその子はいなくって」
イヤフォンの向こう側は音を消したように静かだった。
「今思えば甘えだったのかも」
「甘え?」
ルーシーは頷きながら、抱えていた冊子をパーティションの裏の机に戻した。
「気付こうと思えば気付けたのかもしれないなって。あたしはそういうの、アンテナを常に敏感にさせておかなきゃ気付けないんですよね。でもそれにはずっと心に力を入れておく必要があるから。この子は悩むような子じゃないんだって表面だけ見て、楽してたんです」
『……違うわ…………』
外からの声と耳元からの声がアダムの中で交錯する。
「あの時甘えてなければ、もしかしたら何か変わってたのかも。あたしがもっと頼り甲斐のある人間だったら、その子の力に少しでもなれたのかもって」
『違う……ただ私が、まっすぐ前に進みはじめていたあなたに水を差したくなかっただけよ。あなたは何も悪くない……本当に優しくて、いまでも大好きな私の、友だちよ……』
二人はお互いに胸の内を吐露しあった。まるで小さな窓越しに見知らぬ神父へと告解でもするように。
届かないと分かっているから素直な言葉が溢れるのか。それとも隔てられた距離や経ちすぎた時間の長さが、人の心の防波堤を取り去ったのか。そんなものはもう、どちらでも良かった。
「あたし、なんで初対面の人にこんな話してんだか……あはは、ごめんなさい。それより研究の話、続き聞いていきます?」
ぱっとチャンネルが切り替わったみたいに、ルーシーは人の良さそうな笑顔を見せた。
だがアダムはやんわりと微笑み返すと、「その子はさあ」と続けた。
「今は本当にやりたいこと見つけて、変わらず頑張ってるよ」
「だったらいいなあって思いますけど」
「大変そうだったけど、でも楽しそうだった」
「あはは、大変そうって――え?」
ルーシーはぴたりと笑うのをやめて、丸くした目をこちらに向けた。
「色んな町を点々としてた時に、似たような子に会った。その子はルーヴルに大事な友だちを残してきたんだってさ。別れも告げないまま出てきたことを時折悔やんでる――でも、それでも今の道を選んだことに後悔はないんだとさ」
「それ、その子って……」
両手で己の口元を覆ってから、それ以上ルーシーの言葉は続かなかった。
「大切な人だからこそ言えない、ってこともあるもんだぜ」
言いながら、アダムは目を細めた。
眼裏で赤や白の小さな花が揺れている。小花の咲き乱れる中庭を、幼い少女たちが駆けていく。その先で、修道服姿の少女は両手を広げながら幼い子どもらを迎え入れる。
ふと、こちらに気付いたように少女は顔を上げる。途端に優しい微笑みを浮かべ、少女の口元が『おかえり』と動く。アダムはその一瞬で、孤児院の外の記憶のいっさいを忘れることにしていた。心は清いままだと言い聞かせて。そうして、何もない顔をして『ただいま』と笑い返すのだ――。
「こんな偶然、ああどうしよう、こんなことって……」
浮き足立った声に、意識が引き戻される。両頬を手で包み込み、ルーシーは今しがた起こった偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎた巡り合わせに、目を丸くしているところだった。
「偶然じゃねーよ。その友だちも、ルーシーちゃんも、相手のことをずっと忘れずにいたから願いが通じたんだよ」
「でも、でもあなたがいなければこんな奇跡は……ああ本当に、ありがとう」
顔の前で祈るように組んでいた手をほどき、ルーシーはアダムの手をきゅっと握った。何度も感謝を述べながら顔を伏せる。
泣いているのかもしれない、とアダムは思った。けれどその後すぐに上を向いた彼女の瞳は、涙で濡れてはいなかった。
「あなたの名前、まだ聞いてなかった」
「俺? たいした名前じゃねェよ」
「ううん、いつかお礼をさせてほしいんです」
「あー……」
アダムは握られた手をやんわりと振りほどき、一歩、二歩と後退した。
「いいんだ、礼なんて。俺はもともと修道士だからさ」
「しゅ――嘘?」
じろじろと確かめるように容姿を見られることには慣れている。ほんとほんと、とアダムはなおも軽い口調で言いながら、ニヤッと笑ってみせた。
「言ったろ。俺、いろいろやってんだって。今日のはお試し。次からは二〇ユーロで懺悔でもなんでも聞いてやるよ」
「うっそ、お金とるの?」
「うそうそ。ルーシーちゃんみたいに可愛い子ならいつでも無料で聞いてやるよ」
「か、可愛いって……!」
ルーシーが狼狽えているうちに、アダムは後退しながら人混みの中に身を滑り込ませた。本当はもう少し話していたかったけれど、そういうわけにもいかない。あまり関わりすぎて記憶に残るのもまずいと思ったのだ。
白衣のおかげで適当に歩いていれば身を隠すことができる。
「それにしても遅ェな、ニコラスの奴」
バレたりしてねぇだろうな、とぶつぶつ独り言を零していると、ウィンの声が遠慮がちにアダムの名を呼んだ。
『本当にありがとう』
申し訳なさそうに頭を垂れるウィンの姿を想像したらなんだかおかしくて、アダムはつい笑ってしまった。
「困ってる女の子を助けるのは当然だろ。いい男はみんなそうする」
大げさに鼻を擦り、もうこの話は終わりと言わんばかりにふぅっとひとつ、息を吐いた。白衣の裾を翻してアダムはあてどなく人の群れの中へと繰り出していく。
『そういうこと言わなきゃいいんですよ、アダムさんは』
一節空けて、ロロはため息と共にやれやれといった口調でぼやいたのだった。