第84話 葬られた真実(2)決着
side:ルカ
「今これ以上の修復は、俺にはできません」
ルカは差し出された筆を手でそっと退けた。
動向を見守るように細められていた目が、ぱっと見開かれる。
「ふざけないで。素人の意見を聞いてるんじゃないのよ」
「ふざけてなんかない」
今度こそドラクロワは絶句した。明らかに不機嫌になった彼女の顔を、それでもルカは真っ向から迎え撃つように睨んだ。
「女の人の表情ひとつでこの絵の印象はガラリと変わってしまう。修復家が画家のテリトリーを侵すのはやっちゃいけないことだ。俺は父や祖父から、そう教えられてきました」
「でも、じゃあどうするの? 綺麗事を並べるだけじゃ修復は未完のまま。修復家としては失格なのよ」
「――画家のことを知ろうと努めます」
ドラクロワが静かに息を止めたのが分かった。修復を終えるタイミングは、今ではない――ルカは彼女の様子を一目見てから、荒野の絵画に視線を寄せた。
「画家の家族に話を聞いてみたり、この画家の残した他の絵画を見てみたり、そうして彼が何を描きたかったのかを探るんです」
この画家が当時どのような思いで筆を走らせたのか、時代背景や周囲の意見、その人の製作の特徴から考えを巡らすことはきっとできる。だが、そのどれもは空想の域を出ない。いつも傍にいた少女のように、画家の心を見透かすことはできないけれど。
それでも、絵画に対して誠実であることに誇りを持ちたいと、ルカは強く思う。
「今の状態で修復してしまうのは、画家の心を殺すのと同じだ。俺は、絵や画家や、彼らの想いに誠実でありたいんです」
ドラクロワは何かを言おうとして口を薄く開いた。しかしそれは言葉になることなく呑み下され、代わりにため息がひとつこぼれ落ちた。
「それがあなたの答えだっていうのね」
言葉の代わりに、ルカは静かに頷いてみせた。
絵の具層が剥がれ落ちてしまった女の顔はのっぺりと白く、下塗りの色が剥き出しになったままだ。細部に至るまで、どこも綺麗に洗浄されているのが見てとれる。それはドラクロワの仕事ぶりがいかに丁寧であるかを物語っていた。背景の部分も、どこを見ても抜かりなく修復が施されていて――ん、とルカは目を留めた。
「この絵、随分前に修復が終わってる」
綺麗に修復された表面はどことなくまろやかで、手を施されてから表面が空気に触れている時間が長いことを示している。
「今の今まで未完成の状態で置いておかなくても、この女性の顔に笑んだ口元を描き込めばそれで修復は終わっていたはずなのに。どうしてずっとこのままの状態で……?」
そこに思い至った時、ルカはなにか点と点が繋がるような感覚を覚えた。はっと息を呑み、堪らず顔をあげる。
「ドラクロワさんも、迷ってたんですか?」
どう修復すべきか。せめぎあう義務と信念の狭間で、彼女も悩んでいたというのだろうか。
ルーヴル発電所修復部門のトップである人間が。
ドラクロワは一瞬、信じられないものでも見たように目を見開いた。だがそれも一瞬のことで、すぐにまた元の冷静な表情にすり替わる。
「絵画はエネルギー資源。それ以上でもそれ以下でもないわ」
固い声でドラクロワは一蹴する。
「修復は、原石を少しでも削って価値ある宝石に変える作業と同じ。私たちはそういう仕事をしているのよ。かつて人間がエネルギー源として使用していた化石燃料だってそう。あれらは何億年も昔から積み重ねられた生物の死骸でできていた。死骸を燃やして火を焚くことに、昔の人間が悲しみを抱いたと思う?」
「それは、」
「抱いてなんかない。そうでしょう。資源が出来上がる過程にはなんの価値もないの」
「もし、絵画の価値が資源以外にあるとしたら」
「もしもの話は存在しないわ」
「だけど昔はそうでした。まだたくさんのエネルギー源が残っていた頃は――」
ばん、と音を立てて机に手をつき、ドラクロワは立ち上がった。あたりが水を打ったように静まり返る。やがて、高く結わえ上げた長い髪をしな垂れさせながら、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「途方もない夢は現実と混同させない。大人ってそういうものよ」
押し潰されそうな空気の中で、彼女の声だけが妙にはっきりと聞こえた。
言い返す言葉が見つからない。動くのすら躊躇われて、ルカは目の前の女性が落ちた筆を拾い上げるのをただ呆然と見ていた。机の上の籠を掴み、修復途中の絵画を抱え上げると、ドラクロワは静かに背中を向けた。
見えなくなってしまった表情を思い返しても、彼女の心中を推し量ることはできない。
ただひとつだけ分かるのは、絵画を抱える手がとても優しかったということだけだ。
途方もない夢は現実と混同させない。
はたしてそれは、誰に向けての言葉だったのか。
「あなたは絵画が出来上がる過程に価値はないって……本当に思ってるんですか?」
問いかけに、遠ざかっていた背中がぴくりと動きを止めた。否定も肯定もないまましばらく沈黙が続く。やがて口を開いたかと思うと、ドラクロワは逆に問い返してきた。
「あなたはどうしてルーヴルを拒むの?」
「え? それは――」
組織に入る必要がなかったからだ。祖父や父がそうしていたように、小さな工房で細々と生計を立てていく。それで良かった。絵画の修復ができるならばそれで。
「私が今ここにいるのは、絵画が好きだからよ」
答えあぐねていたルカの代わりに、ドラクロワはどこか他人事のように言った。
「その存在意義を全うする瞬間、絵画の本当の美しさは表れる。きっと最期が近いとわかっているからね……。いわば修復家は絵画の最期を送り出す為の『納棺師』よ」
エネルギーの抽出と引き換えに、絵画は微塵もなく消し飛ばされる。実際に見たわけではないが、伝え聞く限りその様は最期と呼ぶに相応しいのかもしれない。
「仕方ないじゃないの」
と、ドラクロワはカーテンの向こうにちらつく遠い景色を見ながら呟いた。
「この世は絵画のエネルギーなくしては回らないんだから。だったらせめて、絵画の最期にできるだけたくさん携わっていたい。だから私はここにいるのよ」
「仕方ないなんかで……」
終わらせたくない。
最後まで言葉が続かなかったのは、口の中に悔しさが滲んで邪魔をしたからだ。人は失われゆくものに情や美を見出しやすいものだけれど。丹精込めて修復する身としてはあまりにも寂しいではないかと、ルカは思う。
荒野の絵画をイーゼルに戻したドラクロワは、言葉になりきらなかった悔しさを背中で聞いていた。
「ひとつ教えてあげる。じきに修復家はルーヴル直属の人間以外は活動できなくなるわ」
「な、」
「法律が変わるの。だからこのままだとあなたは絵画に触れることすらできなくなる」
「そんなの、めちゃくちゃだ」
ルカは思わず立ち上がる。
「あなたたちから見ればそうでしょうね。でも、歴史や神話を振り返ってみなさい。人の世は時として乱暴で横暴なの。逸れていく道は誰かが正さないといけない。たとえ犠牲を伴ったとしてもね」
「そんな……犠牲になれって、いうんですか」
神により滅ぼされた都市、ソドムとゴモラのように。あるいは世界の終わりに訪れる最後の審判のように?
「伯爵の意図はわからない。あなたのような思想の人間を手元に置いて、その考えをやり直させようとしているのかもしれない。だけど私は反対よ。あなたをルーヴルには入れたくない」
「俺だって入りたいわけじゃない!」
思わず声に熱がこもる。キャンバスの縁をなぞっていた細い指がつぅっと離れ、ドラクロワは振り返った。
「最後に教えて。絵画にとって修復家ってなに? あなたはどう思う?」
まっすぐに見つめられて言葉に詰まる。
だけど目を伏せて心の中を探ってみれば、その答えは既に自分の中にあったのだ。ルカは迷いを振り切るように顔をあげた。
「修復家は納棺師じゃない……俺は、絵画の医者でありたいんです」
工房には窓から柔らかく陽が射しはじめていた。まだ暗がりになっているイーゼルの群れの中で、ドラクロワがそっと笑った気がした。
「あなた、昔の私に似てる」
「え?」
ぽつりと呟かれた言葉がうまく聞き取れなくて、ルカは思わず聞き返した。しかしドラクロワは首をゆるく振るだけで、二度と同じ言葉を繰り返すことはなかった。
「ボウヤ……じゃないわね。ルカ君。やっぱり私、あなたをここには入れたくない」
「だから、俺だってそう言ってるじゃないですか」
「ドゥノン翼長の意見だって伝えてくるわ。あなたの意見よりも聞く耳を持ってくれると思いたいけれど」
どういう風の吹き回しか、彼女を包んでいたオーラはいっとう柔らかいものに変わっていた。意見だけ聞けばやはり「あなたのことは認めない」と言っていることに変わりはないのだが、かえってルカにはありがたいことだった。
「時代は移ろうものだものね」
部屋を出て行く時、ドラクロワはこちらに背を向けたままそんなことを呟いた。投げかけられた言葉だったのか、単なる独り言だったのか、はたしてどちらなのかはもう分からない。
受け止めた言葉を頭の中で反芻しながら、ルカは主のいなくなった工房をぼんやりと眺めた。棚に大事に仕舞われた道具。綺麗に磨かれた机。イーゼルに乗った絵画。残された言葉。すべてのものから、彼女が無意識に吐き出した心の一片が垣間見えたような気がした。
*
ドラクロワが部屋を出てからしばらく待って、ルカは飛びつくように扉に近付いた。
どうやらこの建物はルーヴル発電所の内部であるらしい。幹部の一人に出会ったことが何よりの証拠だ。彼女は上と話をつけた後、おそらくこの部屋に戻ってくるだろう。その後に問題なく返されるのかもしれないが、保証があるわけでもない。エリオの一件から、ルカはルーヴルをいまいち信用できかねている。
とにかく、一刻も早くこの部屋を出て出口を探すべきだとルカは判断した。そしてルーヴルを脱せたら、いの一番に仲間たちに連絡しよう。サロン・ド・コルシカからどれくらい時間が経っているのか分からないが、迷子という域はとうに超えているだろう。パリならば道端に公衆電話のひとつくらい設置されているはずだ。こんな時連絡手段を携帯していたら……悔やむのはこの際後回しにしようとルカは頭を切り替えた。
ぴったりと扉に耳を押しつけて外の様子を窺ってみるが、足音の類は聞こえてこない。ドラクロワはとっくにどこかへ行ってしまったらしい。
ルカはそっとドアノブを引いた。油断はできないので慎重に廊下を覗こう――そう思っていた矢先のこと、己の引いた力よりも随分力強く扉が手前に開いたので、ルカは顔面を思いきり扉に打ちつけた。
突然の衝撃に痛む額を押さえる間もなく、部屋に入ってきた誰かにがっしりと両肩を掴まれ、そのまま廊下に引きずり出されてしまった。
「えっ……、……だ、誰ですか?」
思わず声をあげると、それ以上喋れないよう後ろから回された手に口を塞がれる。顔を確かめようともがいてみるが、体をきつく抱き込まれていてそれも叶わない。そのままなだれるようにして絨毯の敷き詰められた階段を下り、瞬く間に見知らぬ部屋へと連れ込まれてしまった。
「げほっ、う――ッ」
物静かで薄暗いその部屋に入った途端、ルカは謎の人物に胸倉を掴まれ、壁へと打ちつけられた。衝撃に耐え切れず咳き込む。一体誰だ――そう問うより先に、先方の怒号が耳をつんざいた。
「貴様、なぜここにいる!」
「あ、あなたこそ誰なんですか……っ」
ルカは息も絶え絶えに言い返す。鼻と鼻がつきそうなほど近いところに、眉を吊り上げた女性の顔があった。目の前の女性は問われたことが耳に入っていないのか、答える気がないだけなのか、どこか遠いところを睨みつけるようにしてぶつぶつと何事かを呟いている。
「コルシカ島にいるのではなかったの? あの男は一体なにをしている!?」
「だから……一体っ……誰と勘違いしてるんですか……!」
チッと舌打ちが聞こえる。薄暗がりの中でも彼女の眉間に更にしわが寄ったのが分かった。
「色は違えどお前の瞳は母親と同じ。決して見間違うものか……!」
「母親!?」
強く握られていた胸ぐらが急に解放される。ルカは盛大に咳き込み、よろめく体を壁に預けた。
「俺の、母さんを、知ってるのか?」
上下する肩越しに見上げれば、薄暗がりだが立派な金色の巻き髪が見えた。
返事が返ってこないのは肯定の印だろうか。ルカの脳内ではさらなる疑問が湧き上がる。どうして母の知り合いがルーヴルにいるのか。そもそもなぜこのように手酷く咎められなければならないのか。この人は自分のいったい何を知っているのか。
「あなたは一体誰なんですか?」
その女性は意志の強そうな目をますます吊り上げ、苛立ちを露わにしたように見えた。
「私の名はエリーゼ・フォン・クラナッハ。マリアは大切な友人だった」
ふと、怒りだと思っていた表情がいびつに歪んだ。そこでルカは、この人が本当に母の友人であったのだと理解した。露呈したのが苛立ちではなく、悔しさと悲しさだったからだ。
「お前の母は、殺された」
「――――え?」
耳を疑うような言葉が聞こえた気がした。
エリーゼの表情が、今度こそ痛みを耐えるような苦しいものに変わる。
「ルーヴルの秘密を知ってしまったから、殺されたんだ」