第82話 ルーヴル潜入(2)前任の名前
side:ニノン&ジャック
ニノンとジャックはあれからしばらくドゥノン翼棟を探索した。職員のフリをして端から順番に歩いてみたが、分かったのは個室の修復工房が少なく、何十人もの修復家が集まって作業を行う共同スペースがほとんどだということくらいで、目ぼしい反応は見つけられなかった。
「なかなか見つからないね」
「まだ館内の三分の一を歩いた程度だからな」
廊下の右手にまたもや共同スペースと思しき部屋の入り口が見えてきた。入り口といっても扉は付いておらず、壁をトンネル型にくりぬいただけの簡単な構造だ。
通り過ぎる時、中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
ここでの反応もゼロ。ロロからの応答はない。
「ルカ、大丈夫かなぁ」
ついそう口走ると、ジャックはしらけた顔をして「大丈夫だろ」と意味もなく決めつけた。
「あいつなら何されても生きてそうな気がするぞ」
「そ、そんな縁起でもないこと言わないでよ」
布に包まれた大きなキャンバスが二人がかりで部屋の中に運び込まれていく。ルーヴル内を歩いていると、こうした運送業者や画材屋なんかと頻繁にすれ違う。これほどの組織ともなれば、やはり外部からの出入りも激しくなる。
だから少しだけ気が緩んでいたのだ。
こちらに向かってくる団体を目にしても、二人は堂々と歩いてさえいればいいと容易に考えた。だから、団体の側を隠れることなくすれ違った――のだが。
あっと思った時にはすでに、二人は団体の末尾から伸びた手によって中に引っ張り込まれていた。
「ココ、クーザン、探したよ!」
聞き覚えのある声が耳元でそう囁く。腕を掴んでいたのはグァナファトだった。本当に心配だったのか、彼の眉はコミカルなほど八の字に下がっている。
「館内の案内、もう始まっちゃってるよ。何してたのさ」
早鐘を打つ心臓を押さえながら、ニノンは言い訳を探して考えを巡らした。
「あー。えっと、お腹が」
「お腹?」
「そう。お腹が痛くって、トイレを探してたんだ――クーザンが」
「俺が!?」
周りの目が一瞬にしてこちらに向けられ、四人は息をひそめた。その後ユリヤに本気でお腹の調子を心配され、ジャックはしぶしぶ腹をさする羽目になった。
「もうリシュリュー翼棟の見学は終わっちゃったわよ」
ユリヤが呆れたように言った。見学といっても、こうして館内を歩いて回り、どこにどんな部屋があるかという説明を受けるだけの簡単なものらしい。先導する女性職員が「ここは第二セクションの……」と説明を続けていたが、最後尾にいるためか、ほとんど聞き取れなかった。
「あの人はエリーゼ・フォン・クラナッハ。ドゥノン翼長補佐だよ」
首を伸ばして前方を覗いていたら、グァナファトがこっそり教えてくれた。
「偉い人?」
「そりゃそうさ。だってドゥノン翼長の補佐だからね。ナンバーツーだよ、ナンバーツー」
長身のその女性は立派な巻き髪を胸元まで垂らし、赤いカチューシャで前髪を上げている。ナンバーツーと言われれば確かに、バリバリのキャリアウーマンといったオーラが出ているようにも感じる。
伸ばしていた首を引っ込めたら、グァナファトが声を潜めるために口元にあてがった、手のひらサイズの小さなメモ帳が目に入った。
「それ、なに?」
ニノンは何とはなしに訊ねた。記者が愛用しているような、年季の入ったブルーのメモ帳だ。
ああ、これ――と、グァナファトは得意げな表情でメモ帳を掲げると、中身をパラパラとめくってみせた。
「人名、仕事の種類、ルール……見聞きした情報全部、ここにメモしてあるんだ。特に人の名前は覚えておくと役に立つからね。所長のサンジェルマン伯爵を筆頭に、シュリー翼長ダニエラ・ダリ、リシュリュー翼長シモン・レンブラント、ドゥノン翼長ジェルメーヌ・ドラクロワ――おっと、全部敬称略だよ」
「すごいね。どうやってこんなにたくさんの情報を集めたの?」
手渡されたメモ帳に目を落としながら、ニノンは感心したようにため息をついた。
「そりゃ足で稼いだのさ。特に昨日は懇親会があったから、そこに出席していた大先輩方に話を聞いて回ってたんだよ。面白い話がいっぱいでさ、武勇伝もたくさん聞けたよ。例えば……」
中毒者よ、とユリヤが呆れ顔で肩をすくめる。ニノンは苦笑いを浮かべつつ、ページをびっしりと埋め尽くす、お世辞にも綺麗とは言えない文字の羅列を眺めた。
役職についている者の名は全てと言っていいほど網羅されている。傍にちょこちょことメモされた文章は、グァナファトの言う武勇伝だろうか。ある人物の名の隣には「遅刻十回で大激怒」などと書かれている。そりゃそうだろうと突っ込みたくなる。武勇伝というより、取扱説明書と言った方が正しそうだ。
ページを遡ってみれば、前任者の名前までがきっちりメモされていた。目が滑りそうな情報量だ。実際目は滑り――そこであり得ない名前を目にした気がした。行き過ぎた視線をぐいっと元に戻した時、ニノンは思わず小さな悲鳴をあげた。
「どうかした?」
「あ……ううん」
不思議そうに首をかしげるグァナファトに、ニノンはなんでもない風を装ってブルーのメモ帳を返した。ページを閉じる時その名を再度確認してみたが、やはり同じ名前がそこには記されているのだった。
――前任〈シュリー翼長〉 ニコラス・ダリ
意味が分からず、ニノンはただ頭を抱えることしかできなかった。
前任?
ニコラスはルーヴルに所属していた過去がある?
その事実を彼は隠しているのか、もしくは単に忘れているだけなのか?
まぶたの裏に焼き付いて離れない単語と、次々と湧き出てくる疑問が、意味のない文字列となってくるくると頭の中を動き回る。
不思議に思ったジャックが訝しげな顔で覗き込んできた。水色の瞳の中には焦った顔つきの自分が映っていて、ニノンは思わず息をついた。
今考えても仕方のないことに囚われるのはやめよう。そうニノンが思った矢先のこと。
「あなたたち、何かおかしいわ」
唐突にユリヤが言った。どきりとして顔を上げると、ユリヤの目線は突き刺すような鋭さでこちらに向けられていた。
「な、何かって?」
「おかしいというか、怪しい。なんだかぎこちないわ。ねぇ、さっきいなくなったのって、本当にトイレ?」
棘があるわけではない。けれど確かな不信感が言葉の端々から滲み出ていた。彼女の視線は釘となり、体を縛りつけてくる。目を逸らせない。そのまま心の中を見透かされそうだった。
「……知り合いを探してたの」
だから、本当のことを混ぜた。
「すぐ見つかるだろうって思って、そうしたらこんなところまで来ちゃった」
余計に怪しく思われたかもしれない。だが、ニノンには嘘を突き通す自信はなかった。そろっとユリヤに目を向ける。意外にも、彼女は真剣な顔で「そうだったの」と呟いただけだった。
「その人には会えたの?」
「それは、まだ」
「どんな感じの人?」
見かけたら教えてあげる、と真面目な顔でユリヤは言う。グァナファトも賛同するようにこちらに顔を向けた。目の前の親切心を無下にできず、ニノンは仕方なく口を開いた。
「私と同じくらいの男の子で、髪は黒色、目はラピスラズリみたいに真っ青で――」
言葉の途中、視界が急に陰った。
口を薄く開いたまま、ニノンはゆっくりと顔を上げる。
「上官の話も聞かずに探しものですか」
いつの間にか目の前に巻き髪の女性――エリーゼ・フォン・クラナッハが仁王立ちで立っていた。厳しく引き結ばれた唇は鮮赤で、まるで出来たての切り傷のようだ。
「ラピスラズリの、なんですか? 私も手伝いましょう」
組まれた腕から赤い爪がちらちらと覗いている。爪は唇と同じ赤色だったが、先の方が剥げていた。修復する際に薬剤を使うからだろう。
「すみませんでした」
ニノンは逃げるように目を逸らした。こんなところで目立っていてはいけないのだ。どうか穏便に終わってほしい。名前を聞かれたら終わりだ――。
潰れそうなほど両目を強く瞑っていたら、頭の上から小さなため息の音が聞こえた。
「お喋りはランチの時にでもなさい」
エリーゼは最後にもう一度四人を蔑視してから、くるりと反対側を向いた。
「シュリー翼棟はサンジェルマン伯爵の管轄なので、普段我々が立ち入ることはありません。したがって館内の案内はここでおしまいです。十五分の休憩を挟んで、次はオリエンテーションの続きになります」
担当の者が迎えに来ますから、それまではここで待機するように。そう言い残し、エリーゼはきびきびとした動きで足早に去っていった。
「はあー、美人が凄むと迫力があるね」
大げさにため息をつきながら、グァナファトは手元のメモ帳に何かを書き込んだ。覗き込んでみると、先ほどの上司の名の横に『美人』とだけ書き加えられていた。ユリヤは汚いものでも見るような目線をグァナファトに向け、ついでに遠慮なく頭をばしんと叩いた。
*
担当者がやってくるまでの間、四人はラウンジに設けられた丸テーブルに座って時間を潰した。
机に肘をつきながら、グァナファトは夢うつつな目を天井に向ける。ルーヴルの建物はだいたいどこを見上げても、天井にフレスコ画が広がっている。
「段々実感が湧いてきたなあ。僕ら、本当にルーヴルで働くんだね」
幸せの吐息がひとつ、ほっと口から吐き出される。彼の目線を辿ってニノンも天井を見上げた。そこには楽園の縮図が広がっていた。右奥に生える知恵の樹にはまだ禁断の果実が実っている。樹に背を向けているのはアダムとイヴで、彼らはまだ楽園を追放されていない。
もしくは、とニノンは思う。この絵の中でなら、二人の先に失楽園は待っていないのかもしれない。楽園で永遠を過ごす。それは彼らにとって幸せなことなのかもしれない。
「グァナファトはどうしてルーヴルに入りたいと思ったの?」
天井から視線を戻して、ニノンは訊いてみた。
「そりゃあ世の為人の為に尽くしたいからさ。あ、これ僕のおばあちゃんが作ってくれたおやつなんだけど」
グァナファトは鞄からタッパーを取り出すと、蓋を開けて中身を勧めてきた。中に茶色い粉のまぶされた丸い揚げ菓子がたくさん入っている。
「変な形だけどチュロスだよ。おばあちゃん特製。ココナッツオイルで揚げるのがミソなんだって」
ユリヤが興味深そうに手を伸ばす。ニノンもそれに続きチュロスを摘んだ。ひと口かじってみると、シナモンの香りが口いっぱいに広がった。
「わぁ、おいしい」
グァナファトは嬉しそうに鼻を擦った。タッパーを押し付けられていたジャックも、おそるおそる一粒摘んで口に放る。爆弾を含んだような顔をしていたが、すぐに「うまい」と感心したように呟いた。本当に失礼な男だ。
「グァナファトはおばあちゃんっ子なんだね」
「うん。よく面倒見てくれたからね」
指先に付いたシナモンシュガーを舐めとる仕草はまだどこか幼く映る。
「おばあちゃん、若い頃にエネルギーショックを経験してるんだ。僕はその時代を生きてはいないけど、いつもおばあちゃんからその話を聞かされてた。地獄みたいな日々だったって」
エネルギーショックが勃発した頃、北半球は丁度冬に差し掛かる季節だったという。だから、はじめに人々を襲ったのは寒さだった。グァナファトの祖母は毎年冬になると、暖をとれることをとにかくありがたがった。
「あの悲劇を体験した人は確実に減っている。エネルギーショックは伝え話になりつつあるんだ。たった五十年でだよ」
たった五十年。されど五十年。
その間に人は世代を変え、記憶は少しずつだか薄らいでゆく。良いことも、悪いことも、全て。
「でも僕はルーヴル発電所がいかに人類の生活の基盤となっているかを、そこで尽力することがどれほど名誉なことかを、ちゃんと分かってるつもりだ。救世主は神話の中にいるんじゃない。今もこうして存在しているんだ。ここにね。僕は少しでもその助力になれたらって、そう思うんだよ」
熱弁を振るう彼の瞳は情熱に燃えていた。その視線の先に希望や夢といった明るいものが横たわっているのが分かる。
エリオの記憶を通して見たルーヴルの姿には憤りさえ感じたというのに。今はどうだろう。世のためにとまい進する姿に、困惑を隠せない。
「……ユリヤ?」
ニノンは辛抱たまらず声を出した。先ほどからずっと、ユリヤの視線が逸れることなくこちらに注がれていたのだ。ユリヤはかぶりを振る。
「ごめんなさい。私、一旦考え出すとひとつのことにずっと集中しちゃう癖があって。だからあんまり気にしないで」
気にしないでと言われても、こうも穴が開くほど見つめられては気になってしまう。ジャックも顔を覗き込んできて確認したが、何もなかったのか首を横に振った。
「あなたたちは? どうしてルーヴルに?」
と、ユリヤは訊ねる。興味本位で聞いているのか、他意があるのか分からないトーンだった。
「研究がしたいからだ。俺は社会貢献とか、そんなのはどうでもいい。第一に探究心を満たすため。以上」
考える間もなくジャックはスパッと回答した。
「私もクーザンと同じ、研究者志望なの。まぁあなたより社会貢献精神はあるけど」
「そんなものは後からついてくるからいいんだ」
「良いと思うわ」
「二人とも研究者志望なんだね。僕は運営する方に興味があるな」
きらきらと輝いたままのグァナファトの瞳がくるっと回ってこちらを見た。
「ココは?」
「私は――」
何がしたいのだろう。何を望んで生きていくのだろう。
ふと、まぶたの裏に大理石の回廊が浮かんだ。壁にずらりと額縁が並んでいる。はめるものを失くした、がらんどうの額縁だ。
「絵画が残っていく未来があればいいなって」
ぽつりと零した言葉に「へぇ」と反応したのは、意外にもユリヤだった。
「面白い発想ね。再利用ってこと?」
「あ、違うの。そういうのじゃなくてね……なんて説明したらいいか」
ニノン自身もはっきりとした思いがあるわけじゃない。うまく言葉が出てこなくてあくせくしていると、ユリヤはふっと優しく笑った。
「それをこれから実現していくんじゃない。ルーヴルで」
知恵の実を食べなければ、アダムとイヴの世界は楽園が全てだった。それは幸福なことであるようにも思えた。
だとすればやはり、ルーヴルは大多数にとっての楽園なのだ、とニノンは思う。知恵の実の存在を知らなければ、わざわざ楽園から出て行こうなんて物好きは現れない。
人々が幸福を求める限り、ルーヴルは楽園であり続ける。
そしてそれもきっと、ひとつの正しい姿に違いない。
グァナファトが夢について流暢に語るのを聞きながら、ニノンはぼんやりとそんなことを考えていた。
視界の上の方にうっすらと映る水色のフレスコ画は、やはり美しい――その時、遠くにある人影を見て、ニノンは反射的に首を縮こめた。
「どうした?」
と、ジャックがすぐに反応する。
「なんでもない」
言いながら、ニノンはさり気なくジャックの陰に隠れるように身を寄せた。
こんなコソ泥のような真似をしているのは、すぐそばの通路を歩いていた男の顔に見覚えがあったからだ。確か彼はヴェネチアで出会った男で、ルカの知り合いだったはずだ。あの時一緒だったおかっぱの袴少女の姿は見えなかったけれど。
ニノンが過去の記憶を必死に手繰り寄せていると――
「おい」
後ろからいきなり肩を掴まれた。
「きゃー!」
勢い付いてぐるんと振り返ると、予想通りの男が突っ立っていた。「だー、うるさいよ、お嬢ちゃん」と眉間にしわを寄せながら、耳に人差し指を突っ込んでいる。
「やっぱあの時のお嬢ちゃんだろ。たしかニ――」
「あの、あっちでお話ししませんか!」
返答を待たずに男の手首を引っ掴むと、ニノンは男を引きずるようにして廊下の角まで移動した。
「どうして私だって分かったんですか?」
「どうしてって。俺の目を舐められちゃ困るな。これでもプロの修復家だぞ?」
クロード・ゴーギャンは無精髭にまみれた顎を掻きながら「誰だこいつ」という目でジャックを見た。それはジャックも同じだったようで「説明しろ」と視線で命令してくる。
「どうしてここにいるか一応聞くが、面倒ごとはゴメンだぞ」
彼は至極面倒くさそうにあくびをした。上にも報告しない代わりに、きっと何を言ったって建物から放り出す気だ。
でも、この人がルカと親しいならきっと……。ニノンは一抹の望みをかけてみることにした。
「クロードさん、ルカを助けてほしいの」
「んあ?」
「ルカ、誘拐されたの。ルーヴルのダニエラさんに」
「……どういうことだ?」
その一部始終を、物陰に潜み盗み見る者がいた。
エリーゼ・フォン・クラナッハ。彼女は神妙な面持ちで聞き耳を立てていたが、やがて跡を残さないよう、静かにその場から立ち去った。