第81話 オルセー潜入(1)ウィンの後悔
side:アダム&ニコラス
ゴーン、と古い金属のぶつかる音が鳴り響いた。天井にほど近い所に掛けられたアンティーク調の時計が、午後一時を知らせている。
そのたもと、まっすぐ伸びる大回廊の真ん中を、二人の男は堂々と並んで歩いていた。
違和感のない程度に変装しようと身につけた黒縁眼鏡のフレーム越しに、アダムはあたりの様子を伺った。
研究所と聞けばどこか薄暗い、閉鎖的な空間を想像していたのだが、どうやらそうでもないらしい。むしろその逆で室内は明るかった。アーチ状の天井がガラス張りで、そこから自然光が降りそそいでいるからだ。吹き抜けの大回廊は開放感すらある。
「こんなに簡単に通れるなんて、びっくりね」
「おいおいおい、出ちゃってるぞ、口調が!」
顔を前に向けたまま、アダムが小さな声で咎める。言われて男は咳払いをひとつ。「気をつけよう」と頷き返した声は確かにニコラスのものだったが、今の容姿では誰も、彼がサーカス団の元団長などとは思わないはずだ。
切り揃えられたベージュのボブヘア、落ち着いた黒のスーツ――知っている者からすれば、彼は『シュリー翼長、ダニエラ・ダリ』そのものに見えるだろう。
大回廊の両サイドには自動ドアが規則的に並んでいる。ドアは忙しなく開閉を繰り返し、両手いっぱいに資料を抱えた白衣の研究員たちが足早に扉をくぐっては、あちらこちらを行き来している。普段からこうなのだろうか。誰も彼も、とてつもなく忙しそうに見える。
弓を射る男のブロンズ像を通り過ぎたところで、二人はさっと右に折れた。装飾もなく薄暗い通路が続いている。
すぐに、イヤフォンからウィンの声が聞こえてきた。
『その通路をまっすぐ進めば、右手にリネン室が見えてくるわ。アダム君はとりあえずそこで白衣に着替えて』
「了解。新人っぽく前髪もぴっちり分けとくか」
『ニコラスさんはシュリー翼長のフリだから、白衣は羽織らないでね』
「分かったわ」
アダムが自身の前髪を撫で梳かし終わらないうちに、二人はリネン室の前まで辿り着いた。
中は倉庫のように薄暗く、洗剤と埃の混じったような独特のにおいがした。ニコラスが壁伝いにスイッチを探して部屋の明かりをつける。部屋の幅いっぱいまで伸びたポールに、白衣がずらりと掛かっていた。
「俺たちはこれから一番偉い奴の部屋を目指せばいいんだよな」
手頃なサイズの白衣を引っ張り出すと、アダムはさっと腕を通した。
「そこが一番怪しいからね。彼がルーヴルにいることを知ってるのは、自分と研究所のトップだけだって、ダニエラは確かに言ったんだ」
研究所のトップ――リシュリュー翼長。その研究室に彼がいる可能性は極めて高い。ニコラスはそう踏んでいた。
『リシュリュー翼長の研究室の場所なら分かるわ。一番最上階にある、大時計の裏側の部屋よ』
自信を持ってウィンは言った。
『東のエレベーターに乗ればすぐのはずですよ』
と、イヤフォン越しにロロも会話に加わる。
『今のニコラスさんの装いなら、その部屋に辿り着くのも難しくないでしょうし』
「行くのはね」
問題はどうやって部屋の中を探るかだ。
真正面から訪ねていき、適当な会話を交わしている隙に、アダムがこっそりと部屋の中を探る。単純な算段は一応立ててはいるが、果たしてリシュリュー翼長とスムーズに会話を続けることなどできるのだろうか。
違和感を拭い去る自身を持てず、ニコラスはダニエラの顔で肩をすくめた。
『もしかしたら、すごくタイミングが良いかも』
思いついたような声でウィンが言った。
「タイミングって?」
と、ニコラスが訊き返す。
『さっきの、所内の様子を見ていて思ったんだけど。ちょうど研究発表会の時期なんじゃないかしら。年に二回、研究の成果を発表する期間が三日間ずつあるの。その間はみんなホールに集まって発表をしあうから――』
「リシュリュー翼長も部屋を空けてるかも、ってことだね」
『ええ。所内のセキュリティは共通なの。一枚のカードで全ての扉が開くから、無人の部屋に辿り着けたらこっちの勝ちってことよ』
ニコラスは胸ポケットから一枚のカードを取り出して、表面を軽く撫でた。
守衛室の中で暇そうにしていた男に「カードを忘れてしまった」とそれらしい顔で言ってみれば、男は愛想よく仮のカードを二枚手渡してくれた。シュリー翼長だと名乗ったことも大きかったのだろう。「返却はいつでも構いませんから」と男は目尻を垂らしながら笑ったのだった。
「それにしても、ウィンちゃんがいてくれて助かったぜ」
ボタンを掛け終えたアダムは、半身を捻って身だしなみをチェックしながらそう言った。
『そんなたいしたことはしてないわ』
イヤフォンの向こう側で、ウィンがたじろぐ気配がした。
「いや、本当。すっげー心強い。な、ニコラス」
「ああ。あんたがいなけりゃここまですんなり侵入できなかったさ」
「そういうこと。ありがとな。ロロも」
『そりゃあ、あなたたちは僕の大切な友人ですから』
「友人、か」
パリに向かう途中、ヘリの中で聞きかじった彼女の話がまだどこか胸の中でくすぶっていた。だからいきなりこんなことを言い出したのは、アダムなりの気遣いもあったのだ。
*
「――え? 昔ルーヴルにいた人間って、ウィンのことだったの?」
ルーヴル潜入の数時間前。機体はパリへ向けてリグリア海上空を飛行していた。
身を乗り出しかけたニノンの肩を、アダムは「す、わ、れ」と叱責しながら押さえ込む。
フロントガラスの向こう側には青い空が広がっている。目線と同じ高さに浮かぶ綿あめのような雲が、次々と近付いてきてはガラスにぶつかることなく解けるように消えていった。
「昔ってほど昔じゃない。だからこいつの情報は古くないはずだし、信用してもらっていいぞ」
助手席に座っているジャックが本人の代わりに答える。
「それって……スパイとして働いてたってこと?」
おとなしくニコラスにシートベルトを締め直されながら、ニノンは訊ねた。
「俺は部下にそんなことさせない。第一ルーヴルの情報が欲しいわけでもないしな」
「そっか」
頷いてしまうと、その後に言葉は続かなかった。沈黙の中で、機体の揺れる音だけが響く。
「はじめはね」
しばらくして操縦席から小さな声がした。
「志願して入ったの。研究がしたくって」
彼女は念願叶ってリシュリュー翼に配属され、一年ほど研究に従事していたらしい。
「でもなんだか違うなって。心のどこかでずっと思ってたんだろうな。そんな時ジャックに出会ったの。そこからはもうあっという間で」
「ヘッドハンティングしたんだ、俺が」
自信たっぷりに言ってのけるジャック。
今はヘリコプターの操縦までやらされてますけど、とウィンは明るく笑った。
今の彼女を見る限り、現状に不満はないのだろう。それでもアダムには聞いてみたいことがあった。
大きな選択肢を前に、約束された地位を放棄して違う道を選んだ人間に。
それでも人は後ろを一度も振り返らずに前へ進めるのかということを。
「辞めて、後悔はないのか?」
遠慮がちだった為、その声はひどく小さかった。けれどウィンの耳にはしっかり届いたようで、ヘッドシートの向こうで小さな頭が横に振れるのが見えた。
「人って、自分の視界に映るものが世界の全てだと思いがちでしょ。でもそうじゃない。見えないところにも世界は延々と続いているって、自分がそこから動いてみてはじめて気がついたのね。私ははめ込まれた小さな窓から空を見上げていただけだったんだって……だから、後悔なんてしてないわ」
前方を覆っていた霧のような雲がふいに晴れた。太陽の光をはね返す青い海の遥か向こうに、薄く伸びる大陸が見える。
「あ、ニノンちゃんには全てお見通しなんだっけ」
「え?」
「後悔、するとしたらひとつだけあるかな」
どうやらニノンの力が人の心を透かし見るところまで及んでいると、勘違いしているらしい。
「大切な友だちを置いてきたの」
「友だち?」
その話の続きを聞きたくて、ニノンは自身の力について訂正するのをやめた。ウィンは操縦席に散らばる様々なメーターに目配りしながらも、うん、とひとつ頷いてみせる。
「ルーヴルで出会った同期。楽しい時も辛い時もいつも一緒で、将来のこと語り合って切磋琢磨して。いい子だったなぁ。頑張り屋さんで、すごくいい子」
そこで言い淀む。だが、すぐにウィンは吹っ切るように続けた。
「その子に私、何も言わずに出てきちゃったの」
ウィンの両手がハンドルを少し左に切る。風に乗るように、機体は緩やかに旋回した。
「それだけなんだけどね」
努めて明るく言い放ったウィンの言葉には、どこか寂しさも混じっているように思えた。
もう会えない友の顔を思い出したからなのかもしれない。そしてその思い出が、過去に成りきれていないからなのかもしれなかった。




