第79話 ルーヴル潜入(1)
side:ニノン&ジャック
裏門はちょうど日が陰り、人の出入りもまばらだった。セーヌ川に面する反対側の門の方が常用口なのだろう。
ニノンは平然を装って裏門の柱にカードをかざした。設置された機械からピッと小さな電子音が鳴り、右上のランプが緑色に光った。
先を行くジャックの背を追いながら、横目で守衛室に目をやる。中では五〇代くらいの男性が、伸び放題の顎髭に顔を埋めるようにして居眠りをしていた。
中は薄暗く、石造りの通路の奥にもう一つ大きなアーチ状の門があった。溢れてくる光に一瞬目が眩み、ニノンは思わず手で光を遮った。門は中庭に続いているようだが、金網が張り巡らされており先には進めないようになっている。
ニノンは足を止めて、金網の向こうに広がる景色を見つめる。
大きなガラス張りのピラミッド。
それは生命を宿した胎のように、内側からぼんやりとオレンジ色に輝いている。
「そっちじゃない、こっちだ」
手を引かれ、ニノンは薄暗い通路を右に折れた。石造りの階段を上りながら、壁に空いたいくつもの小さな穴から中庭を覗く。
「あれはなに?」
「知らないのか?」
言ってからすぐに、ジャックは「ああ、そうだったな」と頷いた。
「太陽のピラミッド――通称『オンファロス』。AEP発電装置と無線送電装置があのピラミッドの中に収められている」
「オレンジ色に光っているのはエネルギーを送っているから?」
そうだ、とジャックは頷く。
「世界中の全てのエネルギーがあそこから発信されているんだ」
小窓から漏れる光が階段を上るたび後ろに流れていく。
人は、どれほどのエネルギーを費やして一日を生きているのだろう。絵画は、毎日どれほど消費されているのだろう。世界中に送られ続けるエネルギーの量を想像しようとして、しかしそのあまりの大きさにニノンは考えるのをやめた。
「すごいんだね、あのピラミッド」
「そんなにすごいピラミッドを知らないって君、すごいね」
すぐそばの暗がりから、やけに明るい少年の声がした。
「だ、誰?」
ニノンは驚いてジャックのそばに身を寄せる。示し合わせたように、ジャックの手がニノンの手首を掴んだ。薄く緊張が膜を張る。
しかし、意に反してその声は明るいまま会話を続けた。
「僕はグァナファト。念願叶って今秋から新入職員なんだ。君たちもだろ?」
見りゃ分かるよ、と少年は楽しそうに笑った。ニノンは返答に困った。正直、こちらからだと人がいるのは分かるのだが、容姿までは暗くて見えないのだ。
「グァナファト」
少年を挟んで向こうから、少女がたしなめるように少年の名を呼んだ。
「もしかして僕、また突っ走ってた?」
「そうね」
「だってユリヤ、こんなに素晴らしい日もそうはないぞ。まだ夢の中にいるみたいだ」
階段を上りきった時、ふいに木製の大扉が軋んだ音を立てて開かれた。
溢れる光の先――ニノンは視界いっぱいに広がる荘厳な大回廊を目の当たりにした。ぴかぴかに磨かれた大理石の床。落ち着いた乳白色の壁。奥までまっすぐ続いている通路のその壁には、何も納められていない額縁だけが点々と掛かっている。
見上げれば、アーチ状に湾曲した天井にはびっしりと神話を模したフレスコ画が描かれている。
「感動した?」
ニノンが息を呑んで廊下に立ち尽くしていると、隣に並び立ったグァナファトが朗らかに言った。
「だって僕たち、あのルーヴルにいるんだものね。間違えて裏門から入っちゃったけど」
その横顔を見てニノンは納得した。彼の肌は日に焼け、見事な小麦色をしている。暗闇では見えにくいはずだ。
「この人ちょっと、異常なの」
いつの間にか少女も後ろにやって来て、こそっと小さな声で謝る。
「異常?」
物騒な言葉を使う。首だけ捻って振り返れば、少女の肌はグァナファトとは対照的に、日の光を避けて生きてきたような白さをしていた。
「ルーヴルに相当入れ込んでる。重度のアルコール中毒者みたいに」
でも危ない人じゃないわ、ちょっと変わってるだけで、と少女はフォローにもなっていない言葉を続けた。
「ふぅん、そうなんだ。二人は知り合いなの?」
なんとはなしに訊ねれば、少女は間髪入れず「まさか」と首をふって否定した。
「ついさっき会ったばっかり。パリの街角で」
「そう、道に迷ってたからここまで案内してあげたんだ。ピンときたんだよね。あ、この人も新入職員なんじゃないかって」
「迷ってたわけじゃない」
「そうなの? だってユリヤ、地図をこう、ぐるぐるしてたから」
グァナファトは至極真面目に両手を突き出して、地図を回転させる真似をした。だが「確認してただけ」とユリヤに睨みつけられ、慌ててこちらに向き直る。
「そういう君たちこそ知り合いなのか?」
グァナファトは意味深にちらりと下方を見た。二人して視線の先を辿れば、ジャックの右手がニノンの左手首を掴んだままだった。
「ああそうだ。ちょっとした知り合いだ。いや、ただの知り合いだ」
そうぶっきらぼうに言い放ち、ジャックは掴んでいた手首を乱暴に振りほどいた。ニノンはその手荒さに思わず非難の視線を向ける。
「それより、そろそろ時間、まずいんじゃない」
腕時計に目をやりながらユリヤが呟く。つられてグァナファトも時計に視線を落とす。そしてすぐに「こりゃ確かにまずいね」と、他人事のように肩を落とした。
「何が」と問うより早く、ニノンたちは肩を掴まれずるずると引きずられるように連れて行かれた。ほとんど人通りのない大理石の廊下に、四人の足音が場違いに慌ただしく響く。
「二〇分には集合だってのに、あと三分しかないぞ」
どうも焦りの感じさせない口調で、焦っているようなことをグァナファトは言う。
「あ、あの……私たち、ちょっと用事が」
「うん。分かってる。急がなきゃね」
任せろと言わんばかりの力強い同意。善意を無下にすることもできず、また怪しい行動も取れない。二人は顔を見合わせると諦めたようにため息をつき、彼らに同行することを決めたのだった。
通路を抜けた先はエントランスホールに繋がっていた。正方形の部屋で、逆さピラミッドのように四方から中央に向かって階段がくだっている。
四人は急ぎ足で階段を下りた。そこかしこに置かれたギリシャ人やライオンの石膏像の周りには、サンスベリアやオリヅルランなどの観葉植物が寄せ植えされている。
「そういえばまだ名前を聞いていなかったよね」
前を向いたままグァナファトが問う。
「私の名前はニ――じゃなかった、えーと、ココ。そう、ココ。こっちはクーザンだよ」
「まぁ。『ココ&クーザン』ね」
前を行く少女は目を輝かせてこちらに振り向いた。
「最近人気のある小説なの。知ってる? あなたたち、その主役の名前と同じ」
ジャックが何か察したのか、目をひんむいてニノンを睨んだ。
「そうそう。あのスリルがたまらないよね。名前が同じだったのは、私たちもびっくり」
まさにユリヤの言う通り、本のタイトルなのである。パリの街角にはカフェ、ベーカリーと並んで本屋も多い。ニノンは軒先に平積みされていた本をたまたま見かけ、ついでに帯にでかでかと「スリル」の三文字がおどっていたのを記憶していたのだ。咄嗟に口にしたタイトルの本がそんなに人気だったとは、失念だった。
「私はユリヤ」
ユリヤはにこりと笑った。
「僕はグァナファト。あ、さっき言ったかな」
ニノンは思わずくすりと笑った。それに気を良くしたのか、グァナファトは満面の笑みでこちらを振り返った。
「素晴らしい仲間に出会えて嬉しいよ。これからよろしく」
「あ、うん。よろしくね」
罪悪感に苛まれる心を無理やり抑えて、ニノンは無理に笑いかえした。
階段を下りきると、中央に円形のカウンターがあった。インフォメーションと書かれた看板の下で、受付嬢がマネキンのように整った顔で座っている。その前の広い空間に、たくさんの人間が集まっている。
「ねぇ、これから何があるの?」
ざわめく人混みの中で、声をひそめてニノンは訊ねる。
「オリエンテーションさ。昨日案内があった通りだけど……まさか」
そこで言葉が途切れる。向かいあった間の空気だけがしんと静まりかえる。ごくりと生唾を飲み込み、ニノンは次の言葉を待った。
「君たち、昨日の入所式――寝てたのかい?」
純粋に驚くグァナファトの頭をユリヤが軽くはたいた。彼女は「失礼でしょ」と咎めてくれている。
苦笑いを浮かべるニノンの隣で、ジャックは小さく唸る。ややあって「実は補欠合格なんだ」と言った。
「補欠?」
「夕べ連絡があったばかりで、詳しいことは何も知らない。もちろん入所式とやらにも出ていない」
「そりゃすごい。そんなことってあるんだね。ミラクルだ」
勿論そんなことがあるかどうかは分からない。
真顔で口からでまかせを言えるのは最早才能と呼ぶべきだろう。ニノンが悠長にその才能を持つもう一人の男を思い浮かべていると、後ろからジャックに強引に腕を引っ張られた。引きずられるようにして人混みから脱し、やがて二人はライオン像の陰に身を隠した。
『大丈夫?』
「ああ、問題ない」
イヤフォンからウィンの心配そうな声が流れてくる。
「それよりこれからどこへ行けばいい」
ジャックは像からちらっと顔を覗かせ、エントランス中央の様子を伺う。ニノンも倣って顔を覗かせる。ざわめく集団の中でグァナファトがきょろきょろと辺りを見渡しているのが見えた。
『今ジャックたちがいる場所は、三つの棟全てに繋がるエリアなの。だからどこから行ってもいいんだけど……とりあえずすぐ後ろに続いてる通路はどうかな』
二人は首を捻って背後を確認する。人の気配はなく、殺風景で飾り気もない幅の狭い通路が続いており、それはしばらく行った先で左に曲がっていた。
『真っ直ぐ行けばドゥノン翼の一階に繋がっているわ。そこの棟は全館を修復工房に充てているから、歩き回りやすいかも。運搬業者なんかが頻繁に出入りしているから』
「分かった。指示に従おう」
ジャックが小さく頷いた時、今度は外で待機しているもう一人の――ロロの声が聞こえてきた。
『ルカさんの居場所については僕が頑張ってナビゲートしますから』
改めての説明になりますが、とロロは口早に続ける。
『ジャックに渡してある探知機が〈ラピシウム〉に反応すれば、こちら側の画面で居場所をキャッチできるようにしてあります』
「ラピシウムって、ルカの指輪のことだよね」
『そうです』
ざわめきが止み、集団の顔が揃って同じ方を向いた。その先には女性の職員が一人、背筋を伸ばして立っている。
『ラピスラズリが形成される過程において副産物として得られる物質で、コルシカ島でしか産出されていないものです。ジャックの持っている指輪は一〇〇%ラピシウム製なんです。ルカさんの指輪も同じであれば、おそらく』
「オッケー。私たちはとにかく怪しまれずに歩き回ればいいんだよね」
エントランスでは女性職員が話を始めていた。グァナファトとユリヤは居なくなった二人を探すのを諦めたようで、前に顔を向けている。
彼らとは同じくらいの年齢だったのだろうか。どこから来て、何がしたくてこの発電所に入ったのか。ほとんど話は出来なかったけれど――
「行くぞ」
ジャックに促され、ニノンはライオン像の陰から離れた。少し進んだところでふと後ろを振り返る。集団に混じって話を聞く二人の横顔は真剣そのもので、どこか輝いてさえ見える。
もう会うこともないだろう。心の中に少しだけ芽生えはじめていた気持ちを振り切るようにして、ニノンはその場を後にした。
*
まぶたを薄く開いた時、真っ先に飛び込んできたのは、金飾りの散った白い靴先だった。
驚いて飛び起きれば、こめかみに鈍痛が走る。
痛みが過ぎ去るのを待ってルカはゆるく頭を上げた。部屋は薄暗く、光源といえばカーテンの隙間からわずかに漏れる外の光くらいのものだ。
体を少し動かした途端、尻の下でスプリングがキィと軋んだ。どういう訳かベッドの上で眠っていたらしい。それも驚くほどふかふかの、上質なベッドだ。大人が十人寝ても余るほどの大きさで、深紅の天蓋が付いている。シルクのカーテンを縛るタッセルや至るところに施されている装飾品も全て黄金に輝き、締め切られたカーテンも壁も全て深い紅色をしていた。
ルカは今一度ぐるりと辺りを見渡してみた。そして思わずぽつりと呟いた。
「ここはどこだ……」




