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コルシカの修復家  作者: さかな
side:Louvre Ⅲ
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氷眼のアシンドラ

「盗むのは絵画じゃなくてよかったのか?」


 フードを目深に被った少年は、窓の向こうを向いたまま突っ立っている男の背に声をかけた。


「ああ。もう盗まなくてよくなる。これからもずっと」


 その部屋の天井は抜けるように高い。縦長のガラス窓が端までずらりと並び、オンファロスの淡く光る景色を大パノラマで眺めることができる。窓のそばには背もたれのない細長いベンチがいくつか置かれている。きっと景色を眺めるために設置されているのだろう。

 だが、その椅子に座る者はいない。

 ルーヴルが美術館として栄えていた頃の名残に過ぎないのだ。


 少年は男の隣に並び立ち、ポケットから黒い便箋を一通取り出すと、それを静かに差し出した。

 手紙を受け取ると同時に、男は懐から取り出した紙袋を少年に手渡す。袋の封を開けてみると、中には結構な厚さの札束が詰め込まれていた。ざっと中身を確認してから、少年は黙ってローブのポケットに袋を突っ込んだ。


「本当は上を通して依頼してほしいところだ。勝手に依頼を受けただなんて、バレたら俺たちの首が飛ぶ」

「相応の報酬は用意したはずだが」

「足りないとは言ってない」


 拗ねたような言い方が幼いと思ったのか、男は少しだけ口角をあげた。


「そんな手紙、盗ってどうするんだ」

「気になるか?」

「……いや」


 無言の圧力を感じて、少年は静かにローブの襟を口元までたくし上げた。

 男は満足したように一度視線を寄越してから、黒い便箋を縦に引き裂いた。破れた紙の左端には黄金のインクで宛名が記されている――エリオ・グランヴィル様。便箋はビリビリと更に細かく破られ、宛名もパズルのようにバラバラに崩れてしまった。


「カナンの絵画を知っているか?」


 手紙屑の突っ込まれたポケットを見つめていると、唐突に男に訊ねられた。

 少年は問われた意味がよく分からずに、男の横顔をじっと眺めた。


「この界隈では有名な都市伝説だ。五十年前、エネルギーショックを救ったAEP……一番初めに還元された絵画がもたらしたエネルギーは、全世界を蝕んでいた暗闇を一瞬のうちに照らし出し、その光は百日百晩続いたという」


 男はオンファロスから目を逸らし、こちらに向き直った。


「その一番初めに還元された絵画を描いたのが『カナン』だ」


 淡いベージュの髪が揺れている。

 男の瞳は茶色いのに、世界の闇を全てそこに閉じ込めたように真っ暗に感じた。


「どうしてその話を、俺に?」

「これが最後の依頼だからだ」

「最後の……」


 少年は瞳を瞬いて男を見た。


「現在、継続して追ってもらっている絵画があるだろう」

「〈白金の乙女〉のことか?」


 言いながら、少年ははっと息を呑んだ。


「まさか、それがカナンの残した絵画だって言うのか?」


 男は答えずに、またオンファロスへと目をやった。青空は高く、透き通った白い雲がまばらに流れている。秋の予感を感じさせる壮大な空だった。

 だだっ広い部屋にぽつりと二人、肩を並べて窓の外を眺めていると、男がやにわに言った。


「全てのピースが揃ったら、上を通さずに私の元へ届けて欲しい」


 それはルール違反だ――と異議を申し立てる前に、「報酬は」と男の声が遮った。


「そちらの条件を一〇〇%のもう。いくら支払っても構わない。その金で自由に生きればいい」

「自由に……」

「そう。自由にだ」


 その言葉は少年の脳裏にいとも容易く甘い夢を描いてみせた。

 金さえあればどこへだって行ける。幼い妹たちを連れてあの島を出よう。そして名も知らぬ町で暮らすのだ。自分たちのことを誰も知らない町へと。


 先の未来に想いを馳せていると、目の前に数字の羅列がメモされた紙切れを差し出された。

「ダミー番号だ。出た者に『D・D』と伝えてもらえれば繋がる。絵画が揃った時点で一報してほしい」

「D・D?」

 男は少しだけ面倒臭そうにちらりとこちらを見やった。

「ダニエラ・ダリの頭文字だ」



 *



 男が立ち去った後、少年はベンチに一人腰掛けていた。ガラスの向こう、青空に浮かぶ雲は緩やかに流れていく。

 無音の空気に耳を傾けていると、背後から二つの足音が聞こえてきた。ひとつはバタバタと地面を踏みつけるような、もうひとつは人形が歩いてるようなとても小さな音だ。


「アシンドラ――」

「その名前で呼ぶなと言ってるだろ」

「ごめんなさい……ボルト」


 フードを目深に被った少女はびくっと肩を震わせた。言い直した名前はただのマスクの名称で、それは窃盗をはたらく際に偽名として使っているものだった。


 ボルト。それは『幽霊』を表す不気味な真っ白い仮面。

 素顔を隠せばなんだって出来た。

 後ろめたいことだって、ボルトという人間が全てやったことだからと、目を瞑ることができた。


 だがそれももうすぐおしまいだ。

 気がつけばアシンドラの喉元からは、堪えきれなかった笑い声が漏れていた。


「ボルト……どうしたの?」

「オペラ。次でこの仕事はおしまいだ」

「おしまい? そんなの、許されることじゃないよ……」

「許されなくていいんだよ」


 ガラス張りの窓を叩いてまわっていたペストもその手を止めて、アシンドラの元へと駆け寄ってきた。


「どういうこと? どういうこと?」


 許すから許されない、許されないから許される? などと、ペストはあべこべな言葉を口走っては勝手に笑い転げた。


「許されないなら、殺せばいい」

「ころ……」


 オペラの細い指先がアシンドラのローブの裾をぎゅっと引っ張る。


「だめ。それはだめだよ」

「殺す理由があればいいか?」


 その手をゆっくりと振りほどき、アシンドラはフードの中から氷のような眼差しをオペラに向けた。


「ヴェンデッタだよ」


 忌まわしい言葉が天井に木霊する。

 それはかつてコルシカ島に根付いていた忌まわしい風習。血で血を洗う復讐――ヴェンデッタ。


「マリーゴールドが死んだのはあいつのせいだ」

「で、でも、オーズ牧師は……」

「あいつが殺したも同然なんだよ。だから復讐したって構わない」


 辺りが一瞬にして静まり返る。

 もう何に怒っているのか分からなかった。それでもアシンドラは勢いに任せてそう決定付けた。反動でフードがばさりと外れる。現われた真っ白な髪の毛と、氷のような透き通る水色の瞳。


「俺はそうやって義父を殺したぞ」


 興奮が喉元までせり上がってきているのが分かる。目の前が赤く染まっていく。その先にアシンドラが見たものは、まだ幼かった頃の自分の姿だった。


 コルシカ島に辿り着くよりもずっと昔。中東の小さな町、路上の片隅で、アシンドラは母親と幼い妹と暮らしていた。

 空腹と常に戦い、通り過ぎる人々に「色ナシ」だと罵られ、不吉な子どもと言われ迫害された。何度も酷い目に遭わされた。夏は強い日差しを避け、雨水を飲んだ。冬の凍るような風は吹き荒ぶたび、生傷を刺した。

 それでもアシンドラが頑張れたのは、母と幼い妹がいたからだった。何よりも大切な家族が、いたから――。


 酷い頭痛がアシンドラを襲う。

 よろめいた体を咄嗟にオペラが支える。その肩越しにゼイゼイと息をしながら、アシンドラはうわ言のように呟いた。


「自由はすぐそこだ。もう少しで俺たちは生き返るんだ」


 オペラは耐えきれず、顔を伏せた。支える手には力がこもり、ぎゅっとローブを握りしめている。


「だめだよ。絶対、そんなの。だめ……」


 少女のか細い声は、しかし少年に届くことはなかった。

アシンドラの過去は、幕間「スターティング・オーヴァー」にて。(https://ncode.syosetu.com/n2183cf/138/)

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