第7話 ベニスの仮面と隠された絵画(1)
その日は珍しく小雨の降りしきる、どんよりとした空模様だった。ずいぶんと肌寒く感じるのは、止まない雨が気温を下げているせいでもあるし、その少女の頭をすっぽりと覆う真っ赤なフードがぐっしょりと雨に濡れてしまっているせいでもあった。
少女はその場にしゃがみ込んだまま重たい首をもたげた。石でできた様々な形をした十字架の群れが見渡す限り広がっている。その他に建造物や連なる山脈は見えない。あるのは広大な墓地を覆い尽くすようにして立ち込める灰色の雲だけである。
少女は目の前に佇む大きな石造りの十字架を見上げた。周りのシンプルなものとは違って中央に大きなラピスラズリが埋め込まれている。助けを求めるようにその宝石を見つめたが、返ってくるのは降り注ぐ小雨が地面を打ち付ける音だけだ。
ここではない何処かへ行ってしまいたい――フードから染みてきた雨水がまるで涙のように頬を伝う。心の中が寒くて凍え死んでしまいそうだった。
『ニノン。やっぱりここにいた』
いつの間にやって来たのか、ふと幼い少年の声が少女にかけられた。
『風邪ひいちゃうよ。それに、ダニエラさんに怒られる』
少年は少女の冷えきった手を掴むと墓地を出口へと歩き出した。
『手、つめたいし』たまらずに少年は呟いた。
少女は指の先のじんわりとした温もりを感じて、思い出した。悲しい時はいつだって、自分を励ましてくれる人がいたということを。
『ありがとう、――の手はいつもあったかいね』
『家へ帰ろう、皆が心配してる』
気がつけばすっかり寒さも薄らいで、雨が降っていることも全く気にならなくなっていた。この温もりは自分にとってとても大切なものだった気がする、と少女は思った。
それなのに。手を引く少年の顔は黒く塗りつぶされている。つい先ほど聞いたはずなのに、彼の声がどんなものだったのか思い出すことができない。
『ねぇ、君の名前って――』
*
「…………!」
びくりと体を揺らして起き上がったニノンに気がついて、ルカはちらりと後部座席を見た。辺りを見渡すニノンは夢見が悪かったのかびっしょりと汗をかいている様だった。
「で、ルカは見ず知らずの記憶喪失少女をかくまってやってるワケか。そんな物語みたいな話あるか? お前、騙されてるんじゃねえの?」
途中から聞きかじった話だが、どうやら自分の悪口を言われている事に気がついたニノンは、目の前のヘッドシートを激しく揺すった。
「おい、バカやめろ! いつの間に起きた!」
「たった今!」
日もすっかり暮れた頃、一行はアダムの所有する紅色のビートルという車に揺られながら山道を走っていた。
紅色と言ってもかなり乗り古されたボディは所々剥げており、砂や埃にまみれてぼやけた色合いになってしまっていた。内装もずいぶん古くシートの皮が擦り切れそうになっていたが、ルカは行きのバスの乗り心地を思い出し、なんて快適な旅だろうと思った。そして、隣でハンドルを握るアダムに初めて感謝の念を抱いた。
「将来バスの運転手になれば良いのに」
「同じ道を行ったり来たりの人生なんてごめんだね」
アダムはルカより二つ年上で、身長もルカより頭一つ分以上は高い、顔立ちの整った少年だった。コルシカ島の北西に位置する〈カルヴィ〉という港町で育った事や、弟妹が七人もいるという事、そして今は愛車のビートルと共に村々を回って旅をしている事などを、アダムはニノンが寝息を立てはじめてからもルカに聞かせていた。
そんな彼の身の上話を聞いている内に、ルカはアダムが意外とまともな人間なのかもしれないなと感じ始めていた。
「それに、どうせ見るならでかい夢のほうがいい」
「アダムの夢ってなに?」
ニノンが二つのヘッドシートの間から頭を突き出して尋ねた。
「あ、俺の夢? まぁ強いて言うなら――」
「!」
その時、ヘッドライトが暗がりの道の先で人影を捉えた。
アダムはとっさにブレーキペダルを踏み込む。タイヤがもの凄い勢いで地面と摩擦を起こし、キキィ、と耳をつんざくような鋭い摩擦音を山道に響かせた。急停車の反動で前につんのめった三人は、しかし、それ以上に残酷な衝撃を受けずにすんだ。
「あっ、ぶね……」
突然の事態に固くつむった目を薄っすらと開けば、その人影は健在で、両手を大の字に広げた格好でヘッドライトに照らし出されていた。
少年が歯を食いしばってこちらをぎっと睨んでいる。
ルカが目を見張ったのは、その少年があまりにも恐ろしい形相をしていたからだけではない。上にひん曲がった山形の鼻を、幾度となく目にしたことがあったからだ。
「ダミアン……?」
ルカはドアを開けて外に飛び出した。
「どうしてこんな――何かあったのか?」
ところがダミアンは握りこぶしをぶるぶると震わせて、質問に答える代わりにルカの左頬を思いきり殴った。地面に倒れ込んだルカに、ダミアンは容赦なく覆い被さった。
「おい、何やってんだよ、やめろって!」
運転席から飛び出したアダムは、もう一発殴ろうと振りかぶったダミアンの右手を掴んでルカから引っぺがした。
「やっぱりお前とかかわるとろくなことがない! さっさとレヴィから出てっちまえ!」
「暴れるなって、おい」
殴られた左頬は既に腫れていて、触るとじんじんと痛みが広がった。アダムに両腕を拘束されながらも必死に足をバタつかせ、罵倒を繰り返すダミアン。彼の様子がおかしいのは明白だった。
「ダミアン、一体何が……」
言いかけたルカの言葉を呑み込むように「だから、」とダミアンは声を張り上げた。
「マリーが誘拐されたんだよ!」
「何だって?」
「お前を探してる連中が、マリーを人質として誘拐したんだよ!」
――誰が?
――何のために?
――どうしてマリーを?
様々な疑問と共に、昨日交わしたマリーとの会話や、丘の上で見た彼女の笑顔が脳裏をよぎる。ルカは全身の血の気が引いていくのを感じた。
*
ビートルはその車体を荒々しく揺らしながら猛スピードで山道を駆け抜けていた。フロントガラスにバチバチと雨粒がぶつかり始めた。山の天気は変わりやすいのだ。
ルカの後ろに位置する後部座席で、むすりとした顔のままダミアンは話しはじめた。
「今日の夕方、マリーが俺の家にお使いに来た時のことだよ。帰りがけにあいつがお前ん家に寄るって言ってたから、後ろをついてったんだ。そうしたらさ」
ダミアンはまたも拳を握りしめた。行き場のない怒りがぶるぶるとその手を震えさせる。
「そうしたら?」
ニノンが優しく聞き返す。促されたダミアンは、言葉を詰まらせながらも話を続けた。
「黒いマントの男が突然やってきて、マリーをさらったんだ。不気味な白い仮面を付けてたから顔までは分からなかったけど、マリーより背は高かった――ちょうど運転してるアンタくらいさ。そいつは『ミチノルカを探している』って言ったんだ。それと、マリーとルカが一緒にいるところも見たって。だからマリーはさらわれたんだ……お前をおびき寄せる人質として! 」
「不気味な白い仮面だって?」
声を上げたのはアダムだった。驚きにハンドルが滑ったのか、車体がいっそう激しく揺れた。
「何か心当たりが?」
ルカが尋ねる。
「そいつはきっとベニスの仮面さ」
「ベニスの仮面?」
今度はダミアンが聞き返す。アダムは頷き、「絵画を狙う怪盗集団だよ」と続けた。
「各地を旅してるとさ、たまに絵画が盗難にあったって話を耳にすることがある。そんな時はいつも目撃証言に黒いマントと不気味な仮面があがるってわけ。だから、巷ではそいつらのことを『ベニスの仮面』って呼んでる」
地球に埋蔵されるエネルギーが枯渇するなど、遠い未来の様に感じられていた昔のこと。イタリア、水の都〈ヴェネチア〉では町中が仮面を付けた人々で溢れかえる日があった。謝肉祭だ。時は過ぎヴェネチアで祭りが開かれなくなった今でも、そのお祭りに使われていた仮面は『ベニスの仮面』としてコルシカのとある町で売られているのである。
「ルカん家は修復家だったよな。ってことは修復途中の絵画が狙われたのか?」
そんなはずはない。光太郎が修復した絵画はコルマンから依頼を受けたものが最後のはずだ、とルカは首をかしげた。
「それにしたって変だな」
「何が変なの?」
スピードを落とさないままハンドルが切られた。四人の体が遠心力に持って行かれそうになる。レヴィに差し掛かる最後の急カーブが、雨の打ち付けるフロントガラスの先に現れた。
「俺が聞いた話だと、ベニスの仮面は絵画をエネルギーに還元する気のない、物好きな所有者のところから盗みをはたらくらしい。修復に出すってことは発電所に送る気があるってことだろ? そんな家が盗みに入られたなんて、聞いたことねぇけどな」
「ねぇアダム、そのエネルギーとか発電所って何なの? 絵画とどう関係あるの?」
ニノンが質問をぶつけ終わったところでビートルは急停車した。ヘッドライトが『レヴィ』と書かれた木製の看板を照らし出している。
「悪ィが、質問の解答は後回しだぜ」
車が停車したのとほぼ同時に、ルカとダミアンは飛び出した。強くなる雨足が不吉な予感をあおり立てている様だった。
ぬかるんだ地面を気にもとめずに全速力で駆けてゆく二人の後を、アダムとニノンも追う。
「きっとあの不気味な仮面野郎は、お前の家にいる!」
全身びしょ濡れになりながらダミアンが叫んだ。雨でへばりつく前髪をどかしながら、ルカは降りしきる雨をものともせず走る。丸太小屋が村の外れに建っていることを、こんなにも煩わしく思ったのは初めてだった。
やがて見えてきた丘の上の丸太小屋にはこうこうとあかりか灯っていた。ルカはその灯りを目にして、同時に、父の存在を思い出した。
――父さんは無事だろうか。
――なぜ相手はミチノルカを探していたのか。
溢れ出す疑問を胸に、ルカはバタンとけたたましい音を立ててドアを開けた。
「マリー!」叫びながらダミアンもその後に続いた。
その瞬間、ルカの足は思わずすくんだ。
わずかに漂う鉄のにおい。床に転がる一人の男。得体の知れない恐怖が喉元をせり上がってくる。
「――父さん!」
ルカは床に疼くまる光太郎に駆け寄った。四肢を折り曲げ、苦しそうに表情を歪めている。そのこめかみには脂汗が玉のようにいくつも吹き出している。見ると、光太郎が右手で抑えている腹部から鮮やかな赤色の液体が滲み出ていた。
「父さん、父さん、しっかり!」
必死に声を掛けると、光太郎は腹が痛むのかわずかに呻き声を上げた。
「こう……う……」
「え? 父さん?」
僅かに空いた口から吐かれる言葉を必死に聞き取ろうと、ルカは口元に耳を寄せた。
「工房に、行くんだ……マリーが……」
やがて息を切らせたアダムとニノンも、ずぶ濡れになりながら小屋へやって来た。
「おっさん、大丈夫か!」
床に転がる光太郎に気が付いたアダムはとっさに側に駆け寄った。
「アダム、ニノン。父さんの手当てを頼む」
「ルカはどうするの?」
その言葉に、ルカとダミアンは示し合わせた様に頷いた。
「工房に――マリーを救出しに行く」
二人は再び小屋を飛び出した。もはや一刻の猶予も許されない。ルカは雨にさらされながら、マリーの無事を祈るほかなかった。