昇華するエデン
ドゥノン翼の正面入り口から入ってくると、二階へ行くにはまず白亜の大通路を通らねばならない。
床も柱も全てが白いこの通路は、天井がアーチ状のガラス造りになっている。通路の両脇に並ぶ等間隔の円柱も、その間に佇む腕のない女神や狩りに勤しむ男などの石膏像ももちろん、ここにあるものは例外なく皆白い。
太陽光は白を余計に輝かせ、時に攻撃的な色を向けてくる。
だから今日みたいに天気の良い日にここを通るのが、クロード・ゴーギャンはあまり好きではない。
クロードが目頭を指で揉んでいると、おかっぱ頭の少女――善哉佳那子はくるりとこちらを振り向いた。
「ね、いいでしょう、この袴の色。『茄子紺』って言いますのよ」
この日のために新調しましたの、と袴のすそをドレスに見立てて摘まんでみせた。
「茄子?」
「ええ。艶やかな紫色、綺麗でしょう。茄子は東洋のお野菜よ。こちらだとなにかしら……ズッキーニ?」
「ズッキーニは緑か黄色だぞ」
「生物学的な話ですわ。ああ、ドゥノン翼長様。お気に召してくださるかしら」
ズッキーニはウリ科だから、どちらかというとペッパーやトマトの方が近いのではないか。
さっさと歩き始めてしまった佳那子の後を急いで追うこともせず、クロードは「なるほどねぇ」などと適当な相槌を打った。前を行く佳那子の後ろ姿がどうにも剥きかけの茄子に見えて仕方ない。茄子、ズッキーニ、パプリカ……セーヌ川を渡った先の通りを少し中に入ると、安くて旨いイタリアンの店がある。今日の夕食はそこのペスカトーレに決まりだ、云々。
クロードが晩餐に想いを馳せていると、大通路を抜けた先に続くダリュの階段から、こまごまと下りてくる人影があった。
クロードは会釈で済ませようと軽く頭を下げる。だが、頭上から「おやァ?」と、まるで獲物を見つけた肉食動物のような声が降ってきた。
「クロード・ゴーギャン君にナントカカナコじゃないか。ドゥノンに取り入ってルーヴルに介入した、あのエデンとかいう元協会の?」
「シュリー翼長補佐」
見上げた先で男が自身の金髪をなでつけた。
「ゼンザイですわ!」と、隣で佳那子が金切り声をあげる。
セルゲイ・アンドレエヴィチ・ヴルーベリ。
直接言葉を交わしたことはほとんどないが、名前ぐらいはクロードでも知っている。親がたいそうな資産家で、今の地位にまで昇り詰めたのも何かしらの手引きがあったから――彼についての噂話は様々なバリエーションがある。それは周囲の妬みからかもしれないし、あるいは単に疎まれているだけかもしれない。しかし火のない所に煙は立たない、ということもあるかもしれない。
なんにせよ、クロードにとってはどうでもいい事だ。それよりもこちらの名前を覚えている事の方が遥かに興味深かった。
「随分早いお帰りで。どうでした、サロンの方は。大盛況?」
クロードは語尾に挑発の色を滲ませた。
真っ向から皮肉をぶつけてくる男が、何かに苛ついているのは明白だった。
案の定、ヴルーベリの頬はわずかに上気した。
「ああ、それはもう大盛況だったよ。君たちにも見せてやりたいくらいね。私が仕切ったのだから当然だろう。それとも何か、私は力不足だとでも言いたいのかね、え?」
カツカツカツ、と音を立ててヴルーベリは階段を下る。
「おいおい、ちょっと待った、そんなこと一言も言ってない」と、大げさに両手を前に突き出す。「そっちこそそんなに早口になっちゃって、まるで私は嘘をついてますって自供してるように見える」
ニヤリ、とクロードは口の端を吊り上げた。途端にヴルーベリの足が止まる。彼は熱い塊を飲み下したように咽頭を上下させ、無理やり笑顔を浮かべた。
「そういえば……エデンはドゥノン翼からシュリー翼に移るそうだね」
気味の悪い笑顔を貼り付けたまま、ヴルーベリはまた静かに階段を下りはじめる。
話題変更が唐突すぎて、クロードは思わず笑いそうになった。それ以上詮索するなということか。サロンで何か問題でも起こったのだろうか。
「正確に言えば『エデン』という名は消滅ですけれど」
腑に落ちないといった風に、不機嫌な声で佳那子は答える。
エデンの協会員だった者たちはシュリー翼に異動し、そこで新設された〈絵画収集チーム〉となることが決まったのだ。
今までも収集と修復を交互に行ってきたクロードにとっては、ただ在籍部門が変わるだけなのだが、そうでない者もいるだろう。ましてや修復を生業として生きてきた者、とりわけ佳那子のように名家の出だと思うところもあるに違いない。
ちらっとクロードが視線を移すと、佳那子は分かりやすく頬を膨らませていた。
「それで君たちは、正式にルーヴルの一員になったというわけだ。良かったじゃないか。君たちの功績はかねがね耳にしているからね。ヴェネチアンマスクが新たにエネルギー資源として使用できることが分かったとか……」
「シュリー翼長補佐官ともあろうお方の耳に届いてるとは。驚き――」
おどけたように肩をすくめたクロードの胸ぐらを、ヴルーベリは乱暴に引き寄せた。
「何が狙いだ? 部外者の分際で」
腹の底から湧き出るような、低く押し殺した声だった。背後の天窓から射し込む光が、目の前の男の顔に影を落とす。それでもなお彼の表情が欲に歪んでいるのが分かる。
いつだって人を醜くさせるのは、嫉妬心と浅はかなへつらいである。
ふ、と口の端から笑いを漏らすと、クロードは冷めた目で相手の顔を見た。
「ご心配なく。俺はシュリー翼長の座とか、これっぽっちも興味ないんで」
クロードは胸ぐらを掴む手を引き剥がすと、ぐっと押し返した。権力や地位にまるで魅力を感じないのは本当のことだ。
言い当てられた驚きと、疑いの気持ちでヴルーベリの目玉はますますぎょろりと丸まった。
「その通りですわ。この男、変なところで欲がありませんのよ」
カツカツと音を立てて側まで上ってきた佳那子が、なぜか両腕を組んで威張った。
「修復家の出なのに、いつの間にか収集に精を出しちゃって。夢は幻のカナンの絵画を探し出すことだなんて、お子様にもほどがありますでしょう? シュリー翼長補佐からもなんとか言ってくださらない? できればわたくし、修復の仕事をメインにしたいのですけれど」
「かなちゃん……俺の悪口と自分の欲求がごちゃまぜになってるぞ」
小言を挟んでみるが、そんなものには気にも留めず、少女は水を得た魚のように活き活きと喋りだした。こうなればもう佳那子の口はなかなか止まらない。
諦めるようにクロードがぼんやりと天を仰いだ時、ヴルーベリの甲高い笑い声がわっと辺りに響いた。びっくりして佳那子は思わず口を噤む。
「君、カナンの絵画を探しているのかね? この島のどこかに眠るという、あの都市伝説を信じて?」
ヴルーベリは喉を引きつらせてもう一度笑った。どうやら彼はクロードが椅子取りゲームの競争相手ではないと判断したらしい。ひとしきり笑い終えると、涙を拭って、今度は優しくクロードの両肩をぽんぽんと叩いた。
「いやぁ、その純粋な心、大切にしたまえよ。分かる、分かるよ。トレジャーハントは男のロマンだからね」
疑って悪かったよ、とヴルーベリは嘘のように満面の笑みを浮かべた。かと思えば今度は強引に首に手を回し、耳元に口を寄せてきた。
「シュリー翼同士、仲良くしようじゃないか。なんならセリョージャと呼んでくれても構わない」
誰が呼ぶものか。クロードは憐れみを込めて目を弓なりに曲げたつもりだったのだが、ヴルーベリはそれを好意的に受け取ったらしい。「君はもう私の友人だからね」と勝手に何度も頷いた。クロードの頭の中で『友人』という言葉が『手駒』に自動変換される。
「そうだ。今度の日曜日、カルヴィの聖フローラ孤児院に行くのだが、君も来るかね? あそこの少女たちはどれも皆美しいよ。それに賛美歌も素晴らしくてね」
「ああ……いや、遠慮しとくよ」
クロードが首を振ると、ヴルーベリは不満げに首を縮めた。ついでに隣に立つ佳那子をちらりと一瞥する。視線に気付いた佳那子は不思議そうに眉をひそめた。
「ふぅん。てっきりそういう嗜好なのかと」
「あいにくだが興味はないな。俺はこう見えて、仕事と私生活の区別はきっちりつけるタイプなんでね」
吐き捨てるように言いきって、クロードは縋り付いてくる骨ばった白い手をやんわりとほどいた――つもりだったのだが、変に力が入ってしまい、結果的に少し乱暴に振り払う形になった。
「なんだ、やっぱり図星か?」
ヘラヘラと笑う出目の男の顔をこれ以上見ていても時間の無駄だ。やり取りについて来れていない佳那子を手招きし、クロードは足早に階段を上る。半笑いの声が背中から追いかけてくる。
「冗談じゃないか、クロード君――」
その時、頭上からカンカンと足音が聞こえてきた。踊り場を挟み、両サイドに一八〇度折れ曲がるようにして続いている階段の左側から現れたのは、ドゥノン翼長、ジェルメーヌ・ドラクロワその人だった。
円形の天窓から光が射す。後光を受けてドラクロワの輪郭が金色に縁取られる。その後方に、光を浴びて燦然と輝く有翼の女神像が見えた。
彼女は颯爽とペプロスを翻し、勝利の女神像を背にダリュの階段に散らばる面々をゆったりと見下ろした。
「楽しそうなお話ね」
「ドゥノン翼長――ご機嫌麗しゅう」
「ドゥノン翼長様! ご無沙汰しておりましたわ」
猫撫で声で挨拶するヴルーベリを押し退けて、佳那子はドラクロワの元へ駆け寄った。
「カナコ。あなたはいつも元気ね」
「元気が取り柄ですから」
はきはきと、面接官を相手にしているように佳那子は答える。尻尾があれば千切れんばかりに振っていることだろう。
ドラクロワは優しく微笑み、次いでゆっくりとヴルーベリの方へ顔を向けた。
「シュリー翼長補佐、サロンの開催ご苦労様」
「とんでもございません。労いのお言葉、ありがたく頂戴致します」
べこっと音が立ちそうなほど、ヴルーベリは頭を下げた。
「さっきシュリー翼長に聞いたのだけど、エリオ・グランヴィルの未発表作品が見つかったんですって?」
ヴルーベリは頭を持ち上げ、不思議そうにドラクロワの顔をうかがった。
「さすが情報がお早い。そのご様子だと、グランヴィル氏が蒸発したこともご存知のようですな。安定したエネルギー資源だったのに惜しいことをしました」
「残念なことだわ」
アンバーの瞳が憂えるようにそっと伏せられる。それも一瞬のこと。
「ところで、その絵画、見つかったということなら修復が必要かしら。到着したら私の工房まで運んでもらえないかしら」
「はぁ、それが、ザッと鑑定してみましたら、修復は既にされておりまして」
「なんですって?」
辺りに声が反響した。
ドラクロワは自身の口を手で抑え、小さく咳払いした。
「ヴィヴァリオに出向いているドゥノンの者が終わらせてしまったの?」
彼女の声色は、どこか意識した丁寧さを感じさせた。
対してヴルーベリは、揉み手をしてぶんぶんと首を横に振った。
「ルーヴルの者ではございません。提供者から聞いた話だと、コルシカ島で活動しているフリーランスの修復家によるものと」
「…………そうなの」
ありがとう、と吐息のように小さな言葉が放たれる。一文字もこぼすまいとしっかり耳に受け取ったヴルーベリは、馬鹿丁寧に一礼すると、上機嫌のまま階段を下りていった。
「コルシカの修復家、か」
ボソッとクロードは呟いた。
「心当たりがあるの?」
すぐさまドラクロワが訊ねてくる。驚くほどの食いつきのよさだ。だが、その瞳に揺蕩うものは純粋な興味というわけでもなさそうだった。
「昔、共に活動してましたね」
「エデンの者?」
「いや」
「誰なの」
――嫉妬?
――なにに対しての?
クロードが、その表情のわずかな強張りから彼女の心の内を透かし見ようと試みていると、傍からさっと佳那子が躍り出た。
「きっと、道野ルカという者ですわ、ドゥノン翼長様」
「ミチノ、ルカ?」
「ええ。道野家は善哉家と因縁のある修復家系ですの。何十年も昔にコルシカの地に移り住み、それからは一家でのうのうと修復家を営んでおりますのよ」
ふぅんと相槌を打ち、ドラクロワはこちらに顔を向けた。
「クロード・ゴーギャン、それはあなたの言う修復家と同じ者?」
「あー、まぁ」
歯切れの悪い言葉を返し、クロードは頭を掻いた。
剥きかけの茄子がドラクロワの腰あたりをぴょんぴょん跳ねるように纏わりついている。
「カナコ」
「はい、なんでございましょう」
「久しぶりに色々とお話がしたいわね。私の工房に遊びに来ない?」
「えっ、よろしいのですか?」
もちろん、とドラクロワは造り物の石像のように整った笑顔を浮かべた。佳那子の大きな瞳が、感極まってぼろっと落ちそうなほど丸まる。
「わたくし、わたくしドゥノン翼長様の修復作業を是非一度見学したいと思っておりましたの……お話ももちろん……あの、」
「いいわよ。見せてあげる」
ドラクロワはさっと佳那子の肩に手を回し、今しがた下りてきた階段を再び上り始めた。数歩行って思い出したように振り返り「あなたも来る?」と声を掛けられる。
「いや、俺は」
と言って、クロードは人差し指と中指で細い筒を持つフリをし、それを口に含んで吸ってみせた。
「放っておけばよろしいですわ、ドゥノン翼長様」
佳那子は威嚇する犬よろしく眉間にしわを寄せ、しっしっと手を払った。顔に「邪魔をするな」と書いてある。摘みこそしないが、ドラクロワは少しだけ鼻にしわを寄せた。
今ここで吸ってる訳じゃないだろうに。喫煙者には世知辛い世の中だと、クロードは顎を掻いた。
見上げた先には重鎮する有翼の女神。かつては船の穂先だった、崩れた岩場のような土台に立ち、ニケは顔のない首を――眼前に広がる見えない海へと向けている。
「それにしても、そこかしこに無所属の修復家がいるのはあまり良くないと思うのよ」
「仰る通りですわ。だって秩序が乱れますもの」
「シュリー翼長に報告しようかしら。政府に取り合ってもらうのよ。今回みたいに、また法律に組み込んでもらって――」
二人の会話は徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
クロードはしばらくニケの足元に立ち、三メートルはあるだろうその姿を見上げていた。
「勝利の女神ね……」
クロードがまだレヴィの工房で働いていた頃のこと。部屋の奥にある壁の一角には、はめこんだような大きな書棚があった。そこでクロードは埃をかぶったままの分厚い本を一冊見つけた。
それはエネルギーショックが起きるよりももっと昔の、芸術の変遷を辿る書籍だった。
具体的に言えば、芸術の価値を決める方法について、だ。
絵画の値段とは、必ずしも美的価値と比例する訳ではないらしい。姑息な戦略や、見え透いたごますりや、あるいは運なんかもあるかもしれない。そういった「純粋な美の価値」以外のものが積み重なってパッケージングされる。
そうしてその積み上げた高さが価値になるらしかった。とんだ茶番劇だ。
勝利と敗北。
機械による判定のほうが、人間に任せるよりも遥かに誠実で潔いとクロードは思う。
だから、かつての同僚が現代のシステムに疑問を感じる意味が分からない。
「結局はないものねだりなんだよ。だったらフェアな方が良いと思わないか、光太郎?」
天窓から一際強い光が射して、クロードは目を瞑った。
瞼の向こうに大海原が見えた気がした。
理想と現実。目に見えるものと見えざるもの。芸術の価値という名の汚れた欲望。様々なものがない交ぜになった紺碧の海だ。
船首には女神が、悠然と進む船の先にある勝利を約束するように立っている。
 




