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コルシカの修復家  作者: さかな
8章 孤独に咲くひまわり

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第76話 選んだ道

 仲間の元に戻ると、アダムは賞賛と喜びの声に出迎えられた。ざわめきや眺望にも似た視線がチクチクと体を刺激するのを感じながら、入れ違うように出番の来たカヴィロを見送る。彼は背を向ける直前、こちらに吹っ切れたような笑顔を見せた。


「驚いたよ」

 ニコラスの手が優しく肩を叩く。

「いつもと雰囲気の違う絵だったからさ。それなのにアダムちゃん、あんな高評価って。本当にすごいじゃない」

「ああ……」

 気の抜けた返事をすれば、ニコラスとニノンは不思議そうに首を傾げた。我に返り、アダムは慌てて笑顔を引っ張り出す。


「いやぁビビっちまったよ俺も。これで億万長者も夢じゃねェっつーかよ。そうだ、景気付けにうまいモンでも食いにいくか。もちろん俺の奢りで――」

 そこまで言って、調子よく捲し立ていた口を噤んだ。ルカの真剣な眼差しがこちらに注がれていたからだった。向けられた感情が哀れみなのか失望なのか、アダムには分からない。


「あの絵は、」

 と、ルカが何かを言いかけた時だった。

 ざわざわと前の方でどよめきが起こった。それは静かに、けれど確実に伝染し、会場一体を揺らした。

 渦中にあったのは布を取り払われた一枚の絵画だ。


「カヴィロさん……どうして」


 誰よりも早く反応を示したのはルカだった。

 一同は導かれるようにして絵画を見た。どうしてルカが驚いたのか、すぐに分かった。額縁の中に納まっていたのが、数日前に修復を終えたばかりの〈リル=ルッスのとある町角〉だったからだ。


「ルカ、あれからまた修復したの?」

「いや。納得出来ないって言われたきり、何も」

 ニノンの問いにルカはまさか、といった口調で答える。

「じゃあ点数が低くなることを分かってて出展したってことかい? もしくはあの後自分で手直ししたか」

 ニコラスは目を細めて遠くの絵画を見つめた。ルカは「さぁ」と肩をすくめる。

「でも手直ししたようには見えないな。ここからじゃはっきりとは分からないけど」

「そもそもあんな古い絵を出すはずじゃなかったんだ。カヴィロのやつ、このサロンの為に用意してあった絵画はどうした」

 シャルルが苦々しく呟いた。その眉間にはしわが寄っている。


 カヴィロはシャルルに相談しなかったのだ。あえて昔の絵を出すことを。きっと反対されるに決まっているから、誰にも言わずに出展する絵を差し替えたのだろう。

 そこまで分かりきっていたのにこの道を彼は選んだということ。なんとなくだが、アダムにはカヴィロの気持ちが分かるような気がした。


 スピーカーからは曇りきった男たちの声がしきりに流れてくる。ためらいもなく放たれる辛辣(しんらつ)な言葉。批判。皮肉。

「そこまで言うかよ」

 ぼそっと呟いたアダムの言葉を、シャルルは「仕方ない」の一言で一掃する。

「だけどさ」

「残念だが事実だ」


 腑に落ちない。アダムは睨むように前方を見据える。現実を仕方ないと片付けることはできても、納得することなんてできなかった。

 こちらに背を向けているからカヴィロが今どんな表情をしているのかは分からない。だが、雨のように冷たい言葉を直接浴びている彼の心情を思うと、今すぐにでも走り出して会場をめちゃくちゃに叩き壊してやりたくなった。


『まさかこれで『一生懸命描いた』などとは言いますまいな』

 耳元でねっとりした男の声が響く。ヴルーベリだ。自身の金髪をしきりになでつけながら冷えた瞳で笑っている。

『仮にもパリで有名なアトリエの創設者が、今さら素人気取りとはシャレになりませんな。どういうおつもりか弁解していただこう』

「あいつ、どういうつもりだ」と、シャルルは珍しく焦った様子を見せた。周囲も違和感に気付き始めたのか、そこかしこでヒソヒソと囁きあう声が聞こえる。


『我々は君たちのアトリエを評価しているんだよ。そちらの門下生たちの創り出す絵画は総じてエネルギー還元率が高い。すなわち高度な標準化が進んでいるとも言える。その師たるカヴィロ・アングル氏が、今さらこんなことをしてなんの意味があると?』


 雄弁に語る声には棘がある。苛立ちを押し込めたような笑みを浮かべていたヴルーベリだったが、カヴィロが何か答えたのだろう、その顔からはみるみる笑顔が消えていく。

 やがて、ヴルーベリは鼻に皺を寄せて声を荒げた。


『そういうことはアマチュアの時代に終わらせておきたまえよ。AEP産業界隈を牽引(けんいん)していく者がフラフラしてちゃあ面子が立たない。ああ、言っておくがこれは君への忠告だぞ。どれだけ凄い絵を描いたって、ルーブル(われわれ)がエネルギーに換えなければただの塵だ。分かるね? 君たちは我々無しでは存在すら成り立たないということを、肝に銘じておきなさい』

 悦に浸ったままの男は、悩ましげに目を伏せるとため息をついた。

『困るんだよねぇ、()()()こんなことをされると』


――遊びで?

 その時、わずかな火種が飛んできて、頭の中に積もり積もった不満の屑に燃え移った。それはごうごうと燃え盛り、何者にも消せないほどに大きくうねると、体を芯から突き動かした。


「あっ、こら、アダムちゃん!」

 ニコラスの制止を振りほどき、気付けばアダムは人だかりを越えてヴルーベリの前に立っていた。

「なにしてるんだアダム、お前、戻れ」

 バカ野郎、とカヴィロは手で払いのけるような仕草をした。だがヴルーベリは好奇な目を向けると、むしろ歓迎するように両腕を広げた。

「おや、アダム・ルソー君じゃないか。君もそう思うだろう。ああ、そうだね。若い世代からも言ってあげなさい。ふざけてないでちゃんと仕事をしてくれって――」

「謝れ」

「は?」

「カヴィロに謝れって、言ってんだよおっさん!」


 アダムの声が辺りにうわんと反響して消えた。

 会場はすっかり静まり返ってしまっている。中心に、驚き目を丸くしたままの男を据えて。


「確かに点数の低い絵だよ。ンなの分かってる。それでも描きたかったんだよ。自分の思うような価値がもしかしたらあるかもって、衝動を信じてさ。エネルギーの低い絵は全部クズなのかよ。じゃあ大昔の画家はなんなんだよ。どうしてAEPが発明されるよりもずっと昔から存在してんだよ」


 忌まわしい記憶がアダムの頭の中を掠める。思い出したくもないのに――心ない罵声、大きな汚い手、ぐちゃくちゃに捻り潰される絵の具のチューブ、破り捨てられたスケッチブック……。

「大切にしてくれる誰かの為に絵を描いちゃいけないのかよ」

 大人はいつでもそうやって、ダメなことばかりを饒舌に語る。まるで、進むべき道はひとつしかないとでも言いたげに。

「自分の心に溜まっていく感情を、言葉の代わりに形にしたいって思うのもダメかよ!」


「ちょっと、なにやってんだいアンタ」

 今にも飛び出しそうだった身体を後ろから羽交い締めにされる。

「離せよニコラス!」

「離したらアンタ、犬みたいに飛び出てっちまうだろう」

「たりめーだろ!」

 自由にならない体で、それでもアダムは首を伸ばして吠えた。


「なんなんだね君は。他人の論評に口出しして。そもそも君は、先程良い評価をもらっていたじゃないか。――あ、おい、君」

 ヴルーベリは近くにいた審査員の一人を手招いた。

「さっきの評価、あれ全部取り消して。ひとつ前の、そう。ポイントを0に」

「な……」

 審査員の男は言われた通りにバインダーの上で紙に何かを書き付けた。

「とんだ思い違いだったよ。こんな危険因子の潜んだ画家の絵なんぞ、トラブルの元だ」

 事実上、アダムのこのサロンにおいての結果は白紙になったということだ。

 紙面を満足げに眺めた後、ヴルーベリはこちらをちろりと覗き見て「気でも触れたか? 頭のおかしい奴らめ」と吐き捨てた。


 アダムは目の周りが発火したように熱くなるのを感じた。

 お前らの評価なんて、こっちから願い下げだ!――そう吠えてやろうと思いきり息を吸い込んだ時、大きな腕が目の前を遮った。

「……カヴィロ」

 喉まで膨らんでいた熱はすっと萎んで、どこかへ消えた。カヴィロはこちらに背を向けたまま淡々と語りだす。


「確かに俺は今までずっと、どうやったら高いエネルギーが得られるかを考えながら絵を描いてきたよ。良かれと思って、疑いもせずにまい進してきた。そこに嘘はなかったし、作り上げたガイドラインに沿って生徒たちにはしっかり指導したつもりだ。そうやってこれからも活動していくつもりだったんだ」

 でも、とカヴィロは言葉を区切った。

「この町に戻ってきて、いろんな出会いがあって……昔の自分と向き合った時、まるで長い眠りから覚めたような気分になった」


 修復した絵を見た時のことを言っているのだと、アダムは思った。あの時彼はきっと、本当に還元率を上げるためだけに修復依頼を出したのだろう。

 だが、ルカはありのままの修復をした。町角に漂う錆びた空気や、港からやってくる人たちのちぐはぐな雰囲気、男の影に宿る褪せたブルーも、そっくりそのまま元通りにした。とうの昔に捨てたはずだったカヴィロ自身の気持ちは、変わらぬ形で掘り起こされたのだ。


「エリオの天才的なセンスに嫉妬していたし、シャルルの合理的な制作術を羨ましいとも思っていた。俺は焦っていたんだろう。評価される何かがないと駄目だと、そればかり思って活動してきたけれど、本当は……」


 ためらうように言葉が途切れた。

 その背中に、長年へばりついてきた孤独の影のようなものが見えた気がした。仲間に置いていかれる焦燥感。劣等感。孤独。それがついに今、日に焼けた皮膚のようにめくれようとしている。


「自分が抱えている思いを絵という形にしたかった。まだ出会ったことのない自分と同じような人間に向けて、ここにもこういう人間がいるって、ひとりじゃないぞって。励ましたいなんて大それたものじゃなくて、誰かを救いたいなんて正義感でもなくて、ただ純粋な共感を求めて表現しようとしたんだ。邪道で異端だろうと思う」

 やがてしっかりと前を見据え、カヴィロは続けた。

「だけど、ふざけてなんかいない。遊びなんかじゃない」

 カヴィロは一歩踏み込み、ヴルーベリに近づいた。


「返してくれないか、エリオ・グランヴィルを」


 即座に「カヴィロ!」とシャルルが声を荒げる。振り向けば、群衆の先頭から「言わない約束だっただろう」と言いたげにこちらを睨んでいた。カヴィロはだんまりを決め込んでいる。アダムは間に突っ立ったまま、しばし二人を交互に見合わせた。

 シャルルには申し訳ないが、アダムは胸のすく思いを抑えきれなかった。あと少しで自分も同じことを口にしていたに違いなかったからだ。


「それは、どういう意味かね? 彼の絵を返して欲しいと? 百歩譲って返すとして、なぜ君たちに?」

 ヴルーベリはというと、不思議そうに首をかしげるだけで特段焦った様子はない。

「とぼけんじゃねーよ。テメェらの姑息な手口はこっちに筒抜けなんだからな」

「姑息な手口……?」

 今度はすぐ後ろでニコラスのたしなめる声がした。今さら知ったことか。アダムが反抗してもがいていると、ヴルーベリはやれやれといった具合にため息をついた。


「まるで意味不明ですな。やはり君たちはトラブルの火種になりそうなにおいがぷんぷんする。グランヴィル氏の新作情報をどこで入手したかは敢えて追求しないでおこうじゃないか。帰ったらまずは病院にでも行きなさい」

「なんだって?」


 アダムは耳を疑った。

 エリオ・グランヴィルの新作?


「優しさだよ。どうせもう君たちはこの世界には戻ってこれない。どれだけ絵を描こうが生涯それらは人の役に立つことはないだろう。なんせ、我々はもう君たちの絵画の受け入れをお断りするからね。君たちの罪にはそれぐらいの罰で十分だ」

 ヴルーベリはにんまりと至極楽しそうに笑った。

「おい……おい、新作ってなんだよ。エリオは今でも絵を描いてんのかよ。ふざっけんな、描かせてんだろ、お前らが、なぁ!」

「なんだ、やはり新作のことは知らなかったのか? まぁいい。おおい、警備班、言葉の通じない野生動物どもを締め出してくれ。うるさくて辛抱たまらん」


 ガタイの良い男たちに取り押さえられ、身動きもままならない状態で、それでもアダムは声を上げるのを止めなかった。うずまくどよめきに掻き消されないように必死に声を張り上げた。目が潰れそうなほど睨み続け、もがき、声を荒げているうちに、ヴルーベリは隣の絵に移動していた。黒い布が被せられた絵画の横で、弓なりに曲がった男の口が赤く光る。


「仕方がないから最後に巨匠の新作を拝ませてあげよう。ああ、なんて慈悲深い人間なのだろう」


 そう言ってヴルーベリは天井を仰いだ。

 青白い骨のような手が布を掴む。引っ張られ、その下から金色の豪華な額縁が顔を覗かせた。その時――


「大変なの!」

 悲壮な叫びが、忙しない足音と共に会場に飛び込んできた。

「ベル!」

 ニノンが駆け寄ると、ベルは抱いていたコニファーを降ろしてニノンに縋り付いた。髪の毛は嵐の中を走ってきたような乱れ具合で、その頬は涙でぐっしょりと濡れている。

「どうしたの? そんなに慌てて」

「どうしよう、私、絵が」

「え?」

「からっぽだったの」

 舌足らずな喋り方でコニファーが付け加えてくれたのだが、よく分からなかったのか、ニノンはもう一度首を傾げた。あがった息を断ち切るように、ベルは顔をがばりと上げる。

「エリオの絵が、消えちゃったのよ!」


 彼女の悲痛な叫びが耳に届いたのと、布が取り払われるのはほぼ同時だった。

 それまで会場に充満していたざわめきが張り詰めた糸のようにぴたりと止まる。偉大なる画家の絵を前に、誰もが息を呑んだ。


「今回不参加を表明されておりましたエリオ・グランヴィル氏ですが、直前に参加の申し出がございましたので、スペシャルサプライズとしてご紹介させていただきます。偉大なる巨匠による新作、〈孤独に咲くひまわり〉でございます!」


 どうして――いつの間に――なぜその絵がそこに?


 巨匠の絵画を実際に目にすることができて歓喜する者、最優秀賞を逃したと落胆する者、こんなものかと平然としている者。様々な感情の入り乱れる中、アダムの頭の中では次々と疑問が浮かんでは消えていった。


「盗まれたんだわ……あの時のように」


 信じられないと言わんばかりにベルは呟く。見開かれた瞳からぼたっと涙がこぼれ落ちて、床の絨毯に染み込んだ。

 そうに違いないとアダムも思った。エリオの残した最後の絵画には相当な価値がある。だが、過去の様々な出来事を踏まえると、真正面から交渉したところで門前払いだ。だったら奪ってしまおうと画策した――と、そこまで考えて、アダムははたと立ち止まった。


 どうして奴らはエリオが最後に絵を一枚描いていたことを知っているのか?

 それを知っているのは、あの時アトリエに集まった八人だけなのに。


「私としてはエリオ氏にコツのひとつでもお聞きしたかったのだが、あいにく直接会場にはお越しになれないということで。今回は代理人が絵画の搬入をしてくださったのです。皆様、直にこの絵画を目にできることに感謝し、存分に吸収なさるよう」


 言い終わるか終わらないかのところで、ヴルーベリはぎょろりと出張った目玉を動かして、ある男に笑みを向けた。

 どくんどくんと心臓が脈打つ。視線の先を目で追い――アダムは絶句した。辿り着いた先で、男はあまりにも涼しい顔で立っていたのだ。


「嘘だろ……シャルル」

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