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コルシカの修復家  作者: さかな
8章 孤独に咲くひまわり

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第75話 理想逃避

 一枚の絵画を囲んだ審査員団が、口々に喋りながら手元の評価シートに点数を書き付けていく。更にその周りを出展者たちが取り囲む。今後の制作に活かせるからと、自作以外の講評も聞いて回る出展者は多いのだ。


『次に色彩の項目――……』


 耳にねじ込んだイヤフォンから、ピンマイクが拾う審査員の講評が流れてくる。彼らはちょうど今、額縁の中に収まった籠盛りのフルーツの絵についてあれやこれやと審議している最中だった。


『彩度がよく出ている』

『まことに大胆だ』


 耳穴の奥で男達の声がした。

 籠から溢れんばかりのぶどうやりんごは確かに色鮮やかだが、かえって不自然さを助長しているようにも見える。

 昔エリオが路地裏で描いてくれたりんごとパンの絵とは全然違う。まるでベタベタとペンキを塗りたくったプラスチックのようだ。

 その時の環境や心情が異なるせいももちろんあるだろう。だが、その絵を見ても心はぴくりとも動かなかった。


「緊張してるのかい?」

 と、茶化すようにニコラスは言う。

「もうすぐだもんね、順番」

 首を傾げ、覗き込むようにしてニノンも会話に加わる。アダムは少しだけ唇を尖らせて、視線を逸らした。

「してねーよ、別に。ただ……」


 その時、にわかに場内から拍手が湧いた。

 審査員団が揃って次の絵画が掛けられている壁へと移動する。それに倣って人だかりもぞろぞろと動き出す。

 黒いビロードの掛けられた絵画の下にはプレートが取り付けられていて、〈シャルル・ド・シスレー〉の名が刻まれていた。審査員の一人が布を取り去る。審査が始まると周りは一斉にイヤフォンに集中し、目を凝らして額縁の中のキャンバスを見つめた。

 スケッチブックほどの可愛らしいサイズのキャンバスには、丹念に手入れされたであろう庭の一角が丁寧に描き込まれていた。シャルルらしい作品だ。


「ただ?」

「ああ、うん……なんでもねェや」


 訝しげに眉をひそめていたニノンだったが、やがてスピーカーから講評が流れ始めるとそっと視線を絵画に向けた。

 シャルルの評価は概ね上々で、各種項目を意識した確実な作品作りが功を奏したと審査員は語った。さすがはパリでアトリエを開き講師を務めるだけのことはある。


「すごいな」

 隣に立つカヴィロに向けて、アダムは何とはなしに言った。

「シャルルはな、還元率を上げるポイントをパズルみたいに組み合わせて、うまく形にするのが得意なんだ。すごいよあいつは」

「シャルルだけじゃないよ。カヴィロだって、エリオだって。ちゃんと考えて絵描いてさ、世間で通用するモノ作ってんじゃん。それってすげーことだぜ」

 だがカヴィロは、何故かぎこちない笑みを浮かべた。

「俺はどっちつかずだよ。エリオにもシャルル(どっち)にもなれない、プライドだけは一丁前の出来損ないだ。なぁ、修復家――お前もそう思うだろ?」


 話を振られ、ルカは一瞬びっくりしたような顔をした。それから少しだけ考える素振りを見せ、ゆっくりと顔を上げた。


「カヴィロさんが出来損ないなら俺だって出来損ないです。でも俺は、自分のことを出来損ないだとは思わない」


 青い瞳がガラスの切っ先のような鋭さをもってカヴィロに向けられた。責めているわけではない、確かな熱を孕んだ眼差しだ。

 根負けしたかのように、カヴィロは「はは」と笑いをこぼした。


「やっぱりお前、すごい奴だな」

「別にすごくないですよ。依頼人の期待に沿えない修復をする時もあるし」

「そっちじゃねぇよ」

 と、カヴィロは声を出して笑った。

「今思えば、俺はいつも隣の芝ばかり見てたよ。どうやったらあんなに綺麗な芝が生えるんだろうって。頑張って作り変えようとしたんだ。自分の庭の上に土を被せて、種を蒔いて……」


 言い淀み、言葉が途切れた。

 アダムはじっと言葉の行方を追った。路地裏では見上げるばかりだった横顔が、今ではすぐ隣にある。昔の彼はどんなだっただろうか。思い出せないが、あの時もずっと、こうして人知れず悩みを抱えていたのだろうか。

 すると彼はどこか長旅を終えたような、遠い目をしてぽつりと言った。


「俺は今まで()()()()()()()()()頑張ってたんだな。自分じゃない誰かを羨んで……そんなの、今更気づいたところでもう遅いんだろうが」


 大人になるということは潔さを身につけることだと、アダムはずっと思っていた。

 小さい頃は誰もが持っていた、純粋で穢れを知らない、キラキラしたもの。汚れきった世界を生き抜くためには、それらを犠牲にしなければいけないのだと――


「遅くないよ」

 湿りきった空気を少女の声がばさりと払いのける。振り向けば、ニノンが真正直な顔をしてカヴィロを見つめていた。

「だってカヴィロさん、まだ生きてるじゃない。行動を起こせば何かは変わるんだから。たとえ代わりに何かを失ったとしても」

「失う……」

「人は誰だって何かを選んで、何かを捨てて生きていくんだもん。行動を起こさないってことは、手放さずに生きる方法なんかじゃない。ただ『今の自分』を選んでるだけだよ。忘れないで。その裏ではきっと、何かを失ってるってこと」


 案外、強い人間なんてそう多くないのかもしれない。潔く生きているように見せているだけで。

 そう思うほどに、アダムの胸の中は後悔と罪悪感でいっぱいになっていく。


 ぼんやりとした視界の隅で、ふいにカヴィロの横顔が緩んだ。あ、とニノンは口元を手で抑える。


「ごめんなさい、私、偉そうなこと――」

「いやいや。こんなお嬢ちゃんに説教垂れられちゃあ世話ないなと思ってな」

「せ、説教じゃないよ」

「冗談だよ」


 再び拍手が湧き起こって、カヴィロの笑い声をのみこんだ。人の波が動き出す。会話はそれきり終わってしまった。

 審査が終わり、戻ってきたシャルルがアダムの肩をたたく。


「次はお前の番だな」


 ああ、と曖昧に返したアダムの言葉は周りのざわめきによって掻き消された。ニノンの言葉が頭の中をぐるぐると回る。それは返しのついた針のように、考えるほどに深いところまで刺さってはアダムを苦しめた。

 バツの悪そうな表情も全て、忙しない動きの中で隠されてしまったのだろう。腹の中に溜まっていく鉛のような思いには、誰も気付かない。


「ほら、行ってこい」


 躊躇するアダムの背中を、カヴィロは元気付けるようにばしんと叩いた。



 *



『それって(ドラゴン)か?』


 突然、頭上から声が降ってきたのでアダムはひどく驚いた。被さるように体でスケッチブックを覆い隠し、まだ声変わりの始まっていない甲高い声で叫ぶ。


『覗くなって、アシンドラ!』

『勝手に塔に登ってくるのはそっちのくせに?』

『いいじゃんか別に』

 どうぞご自由に、とアーチ状の窓のヘリに腰掛けながらアシンドラは呆れたように笑った。


 鐘塔のてっぺんから見える景色は高い。何にも遮られることのない真っ赤な夕日が、石造りの柱や大きな青銅の鐘、それからアシンドラの綺麗な白髪をオレンジ色に染める。

 アダムはこっそりと少年の横顔をスケッチした。手元のページに広がる海辺の町。尖った鉛筆のような鐘塔。ドラゴンの鼻先にそっと手を伸ばす、塔の上の少年。


 すると突然、アシンドラは首をぐるんと回してこちらを向いた。


『そうだ。アダム、絵本を描けよ』

『な、なんだよ急に――絵本画?』


 絵本画。複数枚の絵画から成るそれは連作とよく似た使われ方をするが、絵本画は連作よりも物語性の強い作品群を指すことが多い。

 カルヴィの小汚い路地裏で、エリオ達は絵の描き方だけではなく、そういった絵に関する様々な知識も教えてくれた。「絵本画」という単語も、その時初めて知ったのだ。


『げぇ、やだよ。絵本画って当たり少ねーし、稼げねェじゃん』

『そうじゃなくて。絵本だよ、()()()()()

『ホンモノ……?』

『ずっと前に、港で金持ちのボンボンが持ってたのを盗んだことがある』


 アシンドラは窓のヘリから飛び降りると、勢いよくスケッチブックを奪い取った。

『絵と文字でできた本のことを絵本って言うらしい。盗んだ時、あの子豚がピーピーわめいてたからな。『僕の絵本が!』って』

 観光客の子どもがそうしていたのだろう。アシンドラはスケッチブックを絵本に見立ててページをペラペラとめくってみせた。


 今はもう本屋に行っても絵本は手に入らない。古くに発行されたものが、金持ちの家の埃を被った棚の奥に眠っているくらいである。

 AEPが発明されて数年経った頃、エネルギー収集に悪影響を及ぼすとみなされた物のうちのひとつに絵本も選ばれた。やがて世界法律が制定され、絵本の出版が禁止されたことを知るのは、もっとずっと大人になってからのことだ。


『なぁ、アダム。絵本画家になれよ。お前の絵ってそういうのに向いてると思うんだ』

『ンな簡単に言うなよ。そもそも俺、物語なんて作れねェし』

『物語は俺が作るんだ』

『はぁ?』

 すると、力強くスケッチブックを胸に押し付けられた。

『お前は絵を描く。俺は話を書く。二人で作らないか』

『そんな、夢みたいな話――』


 だが、アシンドラはもう聞いちゃいなかった。

 中央に吊るされた大きな青銅の鐘の下まで駆けていき、鐘の舌を握って力一杯釣鐘を振り鳴らした。ゴーン、ゴーンと金属がぶつかり合う音が耳の鼓膜に突き刺さり、アダムは思わず耳を塞いだ。

 カルヴィの港町に夕刻の鐘が鳴り響く。屋根の上からカモメが数羽、バサバサと飛び立った。それらは真っ赤な空に点々と黒く跡を残しながら、キョオ、キョオ、と鳴いた。


『夢みたいな話だなんて、誰が決めるんだ?』


 鐘の舌を握ったまま仁王立ちする少年の、背の向こうからビョオッと汐風が吹きつけた。

 氷の色をした瞳が、沈みゆく太陽にあてられて赤く燃えている。


『溝に詰まったヘドロみたいな汚い大人なんかじゃない。それを決めていいのは、俺たちだけなんだ』


 気がつけば心が高揚していた。

 この世界は平面で、ジャンプしてしまえば簡単に別の世界へ飛び出せるのではないか。手足についた枷だって、風が吹けばひとたび泡になり、遠く海の彼方へ消え去ってしまうのだ。

 燃えてなお溶けない、不思議な力をまとった氷の目が、射抜くようにアダムを見る。


『こんなクソみたいな世界から抜け出して、冒険するんだよ。俺たちの心は』


 だからアダムは、迷わずに差し伸べられた手を握り返した。


『――いいな、それ』




 そして今、アダムは己の絵画の前に立っていた。

 荘厳な金色の額縁の中で、淡い光の霞に覆われながら幼い少女と女性が微笑んでいる。

 一瞬フラッシュバックした幼い頃の記憶はきっと、走馬灯なのだ。夢見る純粋な自分が死ぬ間際に見た、幸せな思い出だけを集めた走馬灯。


 視界の片隅で、ピンマイクの位置を指で調整しながら審査員の一人がなにか喋っている。数人が同意するように頷く。彼らに続いて、よく研究しているね、と別の審査員が手放しで褒め称える。アダムは作り物の笑みを浮かべながら、ぎこちなく会釈を繰り返した。


 あらかたの講評が終わったところで、傍で傍聴していた金髪の男がしずしずと歩み寄ってきた。


「君、なかなか才能があるじゃないか」

「ヴルーベリさん」

「次世代のエリオ・グランヴィル候補かな?」


 冗談交じりにそんな言葉が発せられる。

 よくもその名を口にできるな、と叫びたいのを我慢して、アダムはごくりと唾を飲み込んだ。俯けば男の尖った革靴が目についた。そのつま先を睨みつけ、衝動をやり過ごしている間にも、ヴルーベリは喋り続ける。


「君の絵は全ての項目において上位の点数をキープしている。おそらくエネルギー還元率も今回の展示の中ではトップクラスだろうね。いや、実に素晴らしい」


 嬉しいはずの言葉がガラスの破片となって心臓に刺さる。


「それは……俺が、彼の絵を参考にしたから。展覧会で良い点を取ることだけを考えて制作したから、ですよ。本当の俺の絵じゃ勝負できないから。守ることを選んだから……」


 そこまで言ってアダムは言葉に詰まった。

 自分は一体何を守ったというのだろう?


 サロンで評価を残すこと、それはルーブルに認められるということ。世界に必要とされること。

 画家なら誰しもが憧れ、目指す道なのだ。

 その道を進む権利を得たのだから存分に喜べばいい。喜んで、精進して、AEP界の新星として世に名を轟かせばいい。そして、今まで馬鹿にしてきた奴を見返してやればいい。

 なのに、心から喜べないのはどうしてだろう。


 記憶から蘇った父親の顔が醜くあざけり笑う。

『だから言っただろう』

『お前が心から描きたいと思ったものは評価されないんだ』

『お前は守ったんじゃなくて、逃げたんだよ』

 耳元でうわんうわんとノイズ混じりの声が囁く。


「いいじゃないか、それで」

 頭上からの声に、アダムはハッと顔を上げた。

「それができなくて皆、苦しんでいる。評価されるべきはエネルギーの還元率であって、それに至るプロセスではない。君は一体何を悩んでいるのかね?」

「俺は、」

 言いかけた言葉を遮って、ヴルーベリは思いついたように「あ」と声をあげる。

「さては驚いているんだね? 人間とは貧相な生き物でね。なぜか凡人は幸福に免疫がないのだよ。いきなり目の前に大きな幸福が転がり込んできたら戸惑い、疑心暗鬼になる。まさか自分が、と疑いたくなるんだね。分かる、分かるよ君の気持ち!」


 あまりにも自信たっぷりに言うものだから、アダムはなんと返して良いのか分からなくなった。

 ヴルーベリはお構いなしに何度も頷いた後、「ただし」と右手のひらをびしりと揃えてこちらに突き出した。


「事実、君は評価された。分かるね。怖がらなくていい。これが現実だ。その腕に自信を持つといい」


 右手の人差し指がちょんちょんとアダムの右腕を指差す。かと思えば、そのままぐいっと手を引かれる。体勢を崩しかけたアダムの耳元でヴルーベリはそっと囁いた。


「あとで裏手の待合室に来なさい。ビジネスの話をしようじゃないか」


 離れ際、ヴルーベリはにやりと優越的な笑みを見せた。

 同族だと言われた気がして、アダムの胸は焼印を押しつけられたように痛んだ。本当は違う。違うんだと、心の中で叫んでみても、それを誰かに訴えることもできない。結果的にこの道を選んだのは自分だったのだから。


 腕を掴む手を振りほどき、アダムは逃げるようにしてその場を後にした。

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