第74話 サロン・ド・コルシカ(2)
アダムは男が消えた先にもう一度目をやった。会場の通路をまっすぐ進むと、今回の展覧会主催者・ルーヴル発電所の関係者や審査員団の待機スペースが見えてくる。
あの男がこのサロンの責任者なのか審査員を務めているのかは分からないが、発電所の者であることは間違いないだろう。
「二人も見ただろ、今ぶつかったあのおっさん。ほら、あん時の」
不思議そうに首をかしげるカヴィロたちに向かってアダムはまくし立てた。エリオが貧しい村で見かけたあの卑怯な男がいたのだと。見下したような目付き。鼻につく笑み。思い出しただけで胸糞が悪くなる。
「俺、ちょっと確かめてくるわ」
「待て」
矢のように飛び出していきそうなアダムの腕を掴んで、シャルルがそれを制する。
「離せって。あいつにエリオのこと聞くんだよ」
「だからそれを待てと言っている」
「なんで!」
アダムは弾けるように叫んだ。
「卑怯な手口でエリオを利用してる連中が、何食わぬ顔してこんな盛大な祭りをやってる。おかしいだろ? 俺はそんなの納得できねェ」
「それはただの憶測だろう」
「あ?」
噛み付くようにギロリと睨みつけたが、しかしすぐにアダムは息をひそめた。相手から向けられた視線が、いやに冷静だったからだ。
シャルルは落ち着いた口調で続ける。
「老婆の絵画を盗んだのがルーヴルの者だとエリオは考えていたようだが、それが事実である証拠はどこにもない。それに例の手紙の件だが、あれも本当に発電所から届いたものかわからないだろう」
「奴らの肩を持つってのかよ?」
アダムは信じられないといった目でシャルルを見た。
「名を偽った一個人の仕業の可能性だってある」
「はあ? んなわけねェだろ」
何を言っているのだ、今更。
「まぁ待てよ、アダム。憶測だけで動くには相手が大きすぎるんだ……ってことだよな、シャルル?」
仲裁に入ったカヴィロが促すように首を傾げた。
迂闊に手を出さない方がいいと、親切心で忠告してくれているのはアダムにだって分かっている。ただ、胸にわだかまる悔しさがどうしても消えてくれないのだ。
シャルルは肩をすくめて息を吐いた。
「とりあえずその作品、提出してきたらどうだ」
くいっと顎で指された先には、もうすぐ十一時を示そうとしている大きな掛け時計があった。
チッ、と聞こえるように舌打ちをしてアダムは二人に背を向けた。
*
掲げた手で強い日差しを遮りながら、ジャック・アンデルセンは無遠慮に平屋の扉をノックした。ゴンゴンと乾いた音はすぐに蝉の声に掻き消される。
返答はない。
催促するようにもう一度叩いて、すぐに扉に耳を押しつけた。
中からは物音ひとつ聞こえてこない。
「隣町に行ってるのかもしれませんね」
「隣町ィ?」
蛇に睨まれた蛙の如く肩を縮こまらせながら、ロロは強く頷く。
「確か今日は〝サロン・ド・コルシカ〟の開催日ですよ。町のそこらじゅうにチラシが貼ってありましたから」
「なるほど。無駄足だったな」
軽く舌打ちをしてジャックは踵を返した。
「それ、僕のせいじゃないですよね?」
と、慌ててロロがその後を追う。
「あの、ジャック」
「なんだ」
大股で歩くジャックの隣に並んだロロは、ポケットから黒いボックス型の機械を取り出してスイッチを入れる。
「三日前に検出されたε波……きっとニノンさんが力を使ったんでしょうけれど、やはり前回よりも数値が格段に上がってるんですよね」
画面に表示された二次グラフは、三日前と思しき地点で沸騰したように跳ね上がっている。
「これって、あの時ニノンさんの記憶を呼び覚ましたことと何か関係があるんですか?」
あの時――平屋の上、梯子の先にある展望台でのこと。アガルタが発明した装置を使い、彼女の記憶の復活を試みたのは数日前のことだ。
死んだように気を失った少女を支えながら、ジャックは世にも奇妙な桃色のまつ毛をじっと見つめていた。まぶたの裏側で一体どんな夢を見ているのだろう、などと考えながら。
「関係あるかと問われれば関係あるだろうな。だが厳密に言えばそれはただの導入に過ぎない」
「……と、いうと?」
問いながら、ロロは汗でずり落ちてきた眼鏡を手で押し上げた。ふむ、と頷いてジャックは答える。
「ニノン・ベルナールの不思議な力は脱色症の副産物だ。記憶を一部取り戻したことで、症状が進んだのかもしれない」
舗装のされていない坂道を登りきると、山間にヴィヴァリオの町並みが見えた。
その町の方角から、パンパンッと小さな破裂音がした。次いで雲ひとつない青空に綿の花のような白い煙が二つ浮かびあがった。どうやら展覧会が始まったらしい。
坂を下りながら、ロロは再びこちらに顔を向けた。
「つまり、症状が進むにつれてその人の持つ力も強くなるってことですか?」
「検証段階だがな。脱色症患者はその症状の一部として、普通の人間が保持していないような特殊な力を備えている。通常ならば使われることのない脳の一部分が発現しているようだ」
ニノン・ベルナール。
彼女の持つ力。絵画に刷り込まれた画家の想いを汲み取る力。すなわち、あらゆる物質に宿る残留思念に触れることのできる強い感受性を持つということ。
彼女自身、きっとまだ自分の力の本質には気付いていない。
「ああ」
と、思い出したようにロロは手を叩いた。
「以前、脱色症研究チームのゼファーさんに話を聞いたことがありますよ。なかでも強力な力を保有していたのが〝コルシカ島の英雄・ディアーヌ〟だったとか」
今から三〇〇年も昔、この島の独立を懸けて大きな争いが起こった。歴史に名を残す大きな反乱だ。
暴徒を率いたのはたった一人の年若い女。
名をディアーヌと言った。
今もコルシカの島旗にその横顔を刻みつづけている彼女は、島民の永遠の英雄と呼ばれている。
「髪色がブロンドによく似ていたから、周囲は脱色症とは気付かなかったみたいですね。でも彼女の力はそれを隠しきれていなかった。民の心を掴み、ひとつに束ね――尋常じゃないくらいの統率力を作り出すことができる! そう、彼女は人の心を見透かし導く力を――イタッ!」
興奮が頂点に達しそうになったロロの頭を、ジャックは思いきりぼかりとやった。
「あのじいさん、研究情報をベラベラと……これだから口のゆるい老人は」
ゼファーは腕利きの研究者だが、それ以上にゴシップ好きとしても有名な男だ。暇を見つけては若者をとっ捕まえて、飽きるまで喋り続ける。そんな姿が容易に想像できる。
「ち、ちょっと待ってください。今僕が叩かれたのって、もしかしてただの八つ当たりじゃないですか?」
「あーうるさい。耳元でワーワー騒ぐな」
耳に指を突っ込みながら眉間にしわを寄せると、ロロは「ひどい!」と非難の目線を投げかけてくる。
「ニノンさんにはあんなに優しかったのに」
「――は?」
思いもよらない事を言われ、ジャックは素っ頓狂な声をあげた。
「だって僕、あんな気味の悪いジャック見たの初めてですよ」
ニノンが眠っている間、ジャックは白いワンピースの胸元で光るラピスラズリのペンダントの青さを見つめたり、伏せられた桃色のまつ毛を眺めたりしながら、目が覚めるまでそのか細い肩を抱いてやっていた。時折眉間に皺が寄ったり、少し唸ったりする度に顔を覗き込んでやったりもした。今思えばらしくないと、ジャックは自分でも思う。
そうして見守っていると、ふいに少女の閉じた瞼の隙間から一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。
『お、おい、どうした。大丈夫か?』
ぎょっとして体を揺さぶると、ニノンは荒い呼吸と共に目を醒ました。
『……私…………』
驚いたように目を見開いたかと思うと、ニノンは数回瞬きをした。だがそれっきり黙り込んでしまった。
はっとして、ジャックはニノンの肩を揺さぶる。
『どこか痛いのか? どうして泣いてるんだ?』
使用した装置は試験済みで、副作用は出ないはずだった。しかし万が一ということもある。仮に装置が誤作動を起こしたとして、そこに痛みが伴ったとしたら。
ニノンは答えず、辛そうに目を伏せた。やむことのない涙がぽろぽろと雨粒のように零れ落ちる。
その時、ジャックは心臓が妙に狭くなったような窮屈感を覚えた。
気がつけば、濡れそぼった頬に手を伸ばしていた。
だが――ぱしん、と乾いた音が響き、その手は相手に触れることなくはたき落された。びっくりして、ジャックは拒絶された手を思わず引っ込めた。
『ひとりになりたいの』
拭ってやるはずだった涙を自分の手の甲でごしっと拭いて、ニノンは抑揚のない声でそう呟いた。
大丈夫だよとか、ありがとうとか。そんな言葉もなければにこりともしない。
ジャックは何故だか無性に腹がたった。文句の一つでも言ってやろうと意気込んだのだが、ロロに無理やり背中を押され、制されてしまった。余計な事を言うなということらしい。ジャックは舌打ちをして仕方なく梯子に足をかけた。
下りながらふと前方に目をやると、随分と小さく丸まった背中が柵越しに見えた。
ニノンはまだ泣いているようだった。肩がかすかに震えている。このまま放っておいたら消えていなくなってしまうんじゃないか――柄にもなくそんなことを思って、ジャックは足を止めた。
『おい、お前、やっぱり……』
そう言いかけた時。
『――――ルカ』
彼女の口から縋るように発せられたのは、修復家の少年の名前だった。
――優しかった?
――当たり前だ。あの女は大事な被験者なんだから!
「まぁニノンさんは僕だって、その、か、可愛いとは思いますけど」
ごにょごにょと口の中で呟くロロに、ジャックは思わずカッとなる。
「だから俺もあいつに優しくしたって言いたいのか? 俺は誰にだって優しいだろ!」
ジャックは目くじらを立てて怒鳴りつけた。ロロが喉の奥で「ヒッ」と小さく悲鳴をあげる。
「いやむしろ、あいつが俺に冷たいんじゃないか……?」
こんなにも優しく接してやり、どうにか病を治そうと全身全霊を注いで研究しているのだ。少しぐらい労いの言葉をかけたっていいじゃないか、とジャックは思う。
――なのにどうしてあいつは、事情をよく知りもしないただの凡人に頼ってばかりいるんだ?
「まぁ、ジャックはちょっと高圧的なところがありますからねぇ」
「なんだと!」
「うわ、暴力反対です!」
大袈裟に喚くロロに、ジャックは振り上げた握りこぶしで殴る真似をした。
同刻、ヴィヴァリオ。
噴水広場の端には、どっしりとしたマロニエの木が一本植えられている。そのたもと、葉がサラサラと擦れる音を聞きながら、ニコラスは大木に背を預けていた。
向かいにはこの町の中心にあたる噴水がある。女神の像が頭の上に壺を掲げていて、そこから滝のように落ちる水は小さなダイヤモンドを散りばめたみたいにキラキラと光を反射している。
中の水溜りに入って水遊びをする子どもたち。噴水の淵に座り、足をふくらはぎまで水に浸けて楽しそうに笑っているカップル。
賑わう街中をぼんやりと眺めていると、突如、発砲音が二発響き渡った。
町のいたるところで人々が頭上を見上げてパラパラと拍手を送っている。ちらっと木の葉の隙間から青空を覗くと、綿ぼこりのような白煙が上がっているのが見えた。
「イモーテルの花」
自分と同じ声が聞こえ、ニコラスは視線を戻した。
「それが集合の合図。この花を見つけたらこっそりお屋敷を抜け出して、よく噴水の向かいにある秘密の空き家に集まったよね」
いつの間にやって来たのか、ダニエラは木陰の淵でひと房の黄色い花を弄んでいた。
「懐かしいことするんだね、兄さん」
ぬるい風の中に、スパイスのような独特な匂いが混じっていた。
「昔のことなんて、アンタはとっくに忘れてると思ってた」
だからここに弟はきっと来ないだろうと、ニコラスは思っていた。
「覚えてるよ」
とダニエラは笑った。
「少なくとも兄さんよりはずっと覚えてる」
それはいつも突然訪れる。たとえば中廊下の三番目の柱のたもと。或いは書庫の扉の傍。
独特の香りを放つイモーテルがひと房置かれていれば、それが秘密の集合の合図になった。
各々で適当な菓子やお茶を持ち寄り、街中の噴水広場に面した秘密の空き家に集まる。家の中ではシートを広げ、青空を思い浮かべてピクニックを楽しんだり、お茶を飲みながらいろんな話をした。
もうずっとずっと、昔の話だ。
「エリオ・グランヴィル画伯は今どこにいるんだい」
昔の思い出を断ち切るように、ニコラスははっきりとした声で訊ねた。
「どこにいる、とは?」
質問の意図が分からないとでも言いたげにダニエラは首を傾げる。
「しらばっくれても無駄だよ。あんたらルーブルが画伯を脅してることは知ってるんだから」
「どこでそれを?」
ぴくりとダニエラの片眉が動く。
「発電所の上層部でさえ、僕とリシュリュー翼長を除いて誰も知らない情報のはずなのに」
ニコラスはニヤリと笑みを浮かべ、勝ち誇ったように言い放つ。
「あっさりと認めたね。どこで知ったかって? ニノンの力を借りて彼の記憶を探ったのさ。どれだけ知られてない情報だろうと、本人の頭の中見られちゃあどうしようもないだろ?」
だが、意に反してダニエラは笑みを返してくる。
「そう、ニノンがね。そこまで力を取り戻しているんだ。順調そうで安心したよ」
ダニエラはイモーテルの花を口元に寄せて、香りを嗅いだ。隠された唇が妖しく微笑んでいる気がした。こちらに向けられた目が、冷たく笑っている……。
そこで、ニコラスは自分が重要なミスを犯したことに気がついた。
この男はニノンの情報が欲しかったのだ。
――誘導されたのは自分だったのか。
困惑するニコラスを見て、ダニエラはいっそう目を細めた。
「安心して、兄さん。エリオ・グランヴィルは生きている。彼はルーヴルの研究トップのお気に入りだからね。少し開発に協力してもらってるだけだ。もちろん有志で」
「小賢しい。今日の展覧会だって、裏でなに企んでるか分かったもんじゃないね」
「さぁ、どうかな」
ニコラスはふんっと鼻を鳴らして、白々しく笑う実弟の顔を睨みつけた。
「サロンについてはほとんど部下に任せてあるんだ。表に立って目立つのは好きじゃない。そういうのは、好きな者がやればいい」
ダニエラはそっと肩をすくめた。
そういえば、先ほど開会の合図が空に上がったのではなかったか。ふと町中に視線をやれば、噴水広場からはいつの間にか人が減っていた。通りを歩く人々もまばらで、皆談笑しながら会場へと向かっているようだ。
「じゃあアンタ、一体何しにこの町へ来たんだい」
まさか油を売るためだけにわざわざ海を渡ってきたわけでもないだろう。
ダニエラは口元にうっすらと笑みを浮かべて、手に持っていたイモーテルをそっと差し出した。
「僕の行動に意思はないのさ」
ぐしゃり、と白い指が黄色い小さな花を握り潰す。
「あるとすればそれはあの方の意向だ。僕はあの方の――サンジェルマン伯爵の、ただの手足に過ぎないんだから」
ぱっと開かれた手から、折り曲がりぐしゃぐしゃになった花が落ちてゆく。それがまるで自分の心の形のようで、ニコラスは思わず眉間にしわを寄せた。
苛立ちを隠せなかったのは、自身の片割れの口から聞きたくもない男の名前が発せられたからだった。
AEP発電装置の発明者、ルーヴルのトップ、生ける救世主、サンジェルマン伯爵――血濡れの過去を作りだした男……。
「ただ今ご紹介に与かりました、私ルーヴル発電所・シュリー翼長補佐のセルゲイ・アンドレエヴィチ・ヴルーベリでございます。今年度は出展数もさることながら、内容も大変充実したものと聞いておりまして――……」
男が壇上に上がり、饒舌にスピーチを始めた。
会場は自慢の一張羅から普段着、奇抜なファッションと、様々な衣装に身を包んだ出展者で埋め尽くされている。開会の挨拶が始まってすぐに場内はしんと静まり返ったが、ビンゴの番号が読み上げられる直前のような、熱を孕んだ空気がそこかしこに漂っている。
「次に採点基準についてですが、ええ、今回も従来通り減点法を採用しております。審査員が規定の項目に沿って――……」
「遅くなっちゃった」
途中、人混みを掻き分けながらニノンとルカが会場にやってきた。「ジェラートがおいしくって」などと言い訳していたニノンは、何気なく前方に目をやりあっと小さく声をあげた。ルカも驚いたように目を見開く。
「あの人って」
「貧しい村でばあさんを罵ってたヤな奴だ」
ニノンの言葉に被せるようにして、アダムは苦々しく吐き捨てた。怒りの滲む目は、何かそれ以上の憎悪のようなものを纏いながら、壇上に立つ男を睨みつけていた。
「それでは皆様、本日の催しが両者にとって実りあるものとなりますよう――」
ヴルーベリはぎょろりとした両眼で会場の端から端までを舐めるように見渡した。
「願っております」