第73話 サロン・ド・コルシカ(1)
「なんだって?」
その言葉に真っ先に反応を示したのはアダムだった。目を見開いたまま、アダムはぐいっとニノンの両肩を掴んで顔を近づける。「生きてる?」
「アダムも見たでしょ? 畑に落ちてた麦わら帽子はカモフラージュなんだよ。それに伝わってくるイメージがいつもと違って、なんて、言うか…………」
そこではたとニノンの言葉が途切れる。目の前にあるアダムの顔が、奇妙に歪んでいたからだ。
「生きてる、エリオが」
言葉と一緒に細い煙のようなため息を吐いて、アダムは深く頭を垂れた。それは困惑や喜びのない混ぜになったような声だった。或いは心の中で泣いていたのかもしれない。
ニノンはそっと眉尻を下げた。そして、アダムの背中に手を回すと、子どもをあやすようにトントン、と優しく叩いてやった。
喉を詰まらせたような呻き声が聞こえた。見れば、ベルが手のひらを顔に押し当てるようにして泣いていた。震える肩を、コニファーはまだ幼くて小さな腕でぎゅっと抱きしめた。
「それであいつは今、ルーブルにいるのか」
タイミングを伺っていたらしいカヴィロが口早に訊ねる。
「おそらく」
と、ルカは頷いた。
スーツの男の口ぶりだと、エリオは発電所で何かに協力させられているらしかった。回りくどい方法で要請に応じさせたのだから、向こうだってそう簡単に手放すはずはない。それに、手紙の文面を素直に受け取る限り、彼の身になにかあれば次に要請を受けるのは娘のコニファーだろう。
彼女がこの村で何不自由なく暮らしていることは、エリオの無事を証明するなによりの証拠だった。
ルカはちらりと少女を見た。いたいのいたいのとんでいけー、とおまじないのように唱えては、腕を伸ばし見よう見まねでベルの背中をさすっている。
そこへアダムがやって来て、腰を折り、小さな頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「良かったな。パパ、きっと戻ってくるぜ」
頭を撫ぜる手つきは、しかし本物の父親のように優しかった。意に反してコニファーはきょとんとした表情をアダムに向ける。
「コニーがいいこにしてたらちゃんともどってくるって、パパ言ってたもん」
「ああ、そうだな。お前がいい子にしてたから、戻ってくる。俺みたいな偽モンじゃなくて、本物のパパがさ」
コニファーはぱちぱちと瞬きした。
パパ――偽物のパパ。
小さな女の子が駆けてきて、アダムをパパと呼び慕ったあの日。観光客でごった返す街中の光景。パパの髪の毛はパンプキンの色なんだと笑った、屈託のない少女の笑顔。
もうずっと昔のことのようにも、つい数日前のことのようにも感じられる。
アダムの瞳に滲むたくさんの感情は、いくら混ぜても暗くならない不思議な絵の具のように色鮮やかで、ルカは柄にもなく心をじわりとさせた。
うつくしいものは人の心を動かす。それは理論や計算では語れない、人間が生み出す輝きなのだ。だからこそ人は――その時ふいに、コニファーが笑顔をみせた。
そして、たおやかに言った。
「ありがとう、アダムおにいちゃん」
彼女もきっと孤独だった。
その暗がりを自覚してしまえば、夜を過ごすのが怖くなる。だからあの日、太陽の光によく似た髪色を見つけた少女の心は、無意識に助けを求めたのかもしれない。
無邪気に笑って平気なふりをして。だけど希望は胸に抱いたまま、ずっとずっと孤独と戦っていたのだ。
「コニー、いい子にしてパパのことまってる。ずっとずーっとだよ」
あの日よりも随分と大人びた笑顔を浮かべた少女を、アダムは無理やり抱きしめた。もう離さないというように力強く、いつまでもいつまでも。
*
「あれ、一枚だけ?」
机に散らばった何本もの筆を束ねながら、ルカは訊ねた。こちらに背を向けしゃがみ込んだままのアダムから「ああ」とすぐさま生返事が返ってくる。
結局、絵画はベルの家のダイニングに飾ることになった。サイズの合った額縁を購入するまではこの倉庫に保管しておくのだと、彼女は語気を強めて言った。
驚きと喜びが落ち着いた後、ふつふつと沸いてきた感情をぶつけるようにイーゼルの柱を睨みつける横顔からは、その絵を発電所に送る気などさらさらないことが伺えた。
「もっと描いてなかったっけ?」
「色まで塗ってたじゃないか、何枚も」
雑巾で床を拭いていたニノンとニコラスも手を止め、会話に加わる。
「いんだよ、他のは。出展するのはこの一枚だけなの」
一〇号サイズのキャンバスを丁寧に布地に包み終えると、アダムはそれを大事そうに抱えて立ち上がった。
サロン・ド・コルシカ――年に一度コルシカ島で開催される絵画の展覧会に、会場であるヴィヴァリオは沸いていた。
通りを挟んで建ち並ぶアパルトマンの出窓からは、洗濯糸のようにたくさんのガーランドが張り巡らされている。ペールグリーンと品の良いグレーのフラッグを片手に、大通りを子どもたちが駆けていく。その先には、展覧会に乗じて様々なフードトラックがずらりと並んでいる。
「ねェあそこ、食べ物屋さんがたくさん出てるよ!」
「あっ、こらニノン、待ちなって――フードはちゃんと被りな!」
はーい、と水に浮きそうなほど軽い返事が随分と向こうから聞こえてくる。
「ガキか、アイツは」
アダムが呆れ口調で呟くので、ルカは控えめに笑っておいた。フードをしっかり被り直しながら屋台を物色する後ろ姿は確かに周りの子どもたちによく馴染んでいる。
「もう、危ないったらありゃしない」
こめかみを押さえながらニコラスがため息を吐く。
「ああいうのが珍しいんだろ。気が済むまで放っておこうぜ」
「またそんな呑気なこと言って。何かあってからじゃ遅いんだからね」
「何かってそんな」
と、アダムは軽く笑いながら振り向いたのだが、彼の眉間に寄ったシワを見るとぴたりと表情を固めた。
「……なにイライラしてんだ?」
「え?」
一瞬、ニコラスは間違いに気付いた時のような顔をした。
「更年期か?」
「――――バカだね」
だがそれも束の間のことで、すぐに口元を緩めると、ニコラスはアダムの頭をばしんとはたいてさっさと屋台の方に走っていってしまった。
「ってェなー。力が強ェっつの」
「余計なこと言うからだよ」
アダムははたかれた所をさすりながら、まだぶつくさと文句を言っている。遠くに並ぶフードトラックに目を移すと、ニコラスは既に財布を取り出して店員と何かを話していた。アメリカのお菓子のような塗装のトラックには、でかでかとジェラートのイラストが描かれている。
「珍しいよな」
唐突に言われ、ルカはん、と顔を向ける。
「あんな風な顔するの」
「ああ――さっきの」
アダムは顎を引いて頷いた。ニコラスのことが少し引っかかっているようだった。
「っつーかそもそも過保護すぎんだよ。ニノンだって右も左も分かんねェ赤ん坊じゃないんだからさ」
トラックの前では、ちょうどニノンがジェラートを受け取っているところだった。上機嫌な足取りのまま今度は隣のトラックを覗き込んでいる。その後ろを、ちょこまかと歩き回る雛鳥を見守る親鳥のように、ニコラスがついて回る。
確かに出会った当初は右も左もわからない女の子だったかもしれない。
でも今はどうだろう。
――皆と……さよならをしたの。
――一人ぼっちに、なって、私……。
「ニノンも、なんだか様子が変だった」
「そうそう。アイツも……え?」
ルカは口が半開きになったままのアダムの顔をじっと見た。
「何日か前にまた『アガルタ』って名乗ってた奴らが訪ねてきた」
「はァ? しつこい奴らだな」
「交渉がどうだとか言って。それに応じたのがニノンだったんだけど、戻ってきた後の様子がちょっと変でさ」
「変ってどういう」
夕立の中立ち竦んでいた後ろ姿を、ルカはそっと思い浮かべる。まだ夢から醒めていないみたいにうわ言を繰り返していた。それも支離滅裂で、具体的なことは何も分からなかったけれど。
「昔のこと、思い出したのかもしれない」
口に出してから、ルカは一段と疑問が確信に変わるのを感じた。
「記憶を取り戻したってのか?」
「まだ分からないけど」
「聞いたんじゃないのかよ」
「聞いてはないけど、夢を見たって言ってたんだ。怖い夢だって。今までみたいに断片的なものかもしれない。でも今回思い出した記憶は、これまでよりももっと重要な場面だったんじゃないかな」
例えば、記憶喪失に繋がる何らかの事件に関する記憶であるとか。そんな風に感じさせるほど、あの時のニノンは傷付いた表情をしていた。
「そんで、夢のことは詳しく聞いたのか?」
ルカはかぶりを振る。
「結構辛そうだったし。それに、泣いてたから」
「かー、ばかやろーだね!」
アダムは大げさに頭を抱え、がばっと身を起こしたかと思うと「そういう時はなぁ」と意気込んだ。
「こうしてこう、そんでこう、で、優しく抱きしめてやるんだよ!」
肩を掴まれ、なぜかレクチャーを受けた。ばかだのあほだの失礼な事ばかり言うので、その暑苦しい体を引き剥がして「やめろ」と一蹴する。
あの時既に同じような行動に出ていたことは、面倒なので口に出さないでおいた。
「まぁ、言いたくねーんだろうな」
「思い出した記憶のことを?」
「だってあいつ、いつも何か思い出したら所構わず喋るような奴だぜ」
それから渋るように唸って、アダムは近くの花壇に腰掛けた。後ろの方からきらきらした笑い声が聞こえ、脇を小さな女の子たちが駆け抜けていく。
「……そりゃ、そういうののひとつやふたつ、誰にでもあるもんさ」
そういうものなのか。と、ルカは僅かに首を傾げた。思い返してみたが、自身の中には知られたくないというほどの大それた思い出は特になかった。
何気なく横を見ると、アダムは懐かしげに目を細めて、子どもたちを見つめていた。
そこでなんとなく合点がいった。
彼にも同じように、知られたくない過去があるのだと。
「アダムは――」
言いかけた時、カーン、カーンと鐘塔の鐘が鳴り響いた。「やべ!」と叫んでアダムは慌てて立ち上がる。
「もうこんな時間かよ……あ、俺先行くわ。会場で準備があるからよ」
「分かった。追うよ」
おう、と片手を上げ、布に包まれたキャンバスを大事そうに抱えながら、アダムは人混みの中に消えていった。
「あれ、アダムちゃんは?」
しばらくして、入れ替わるように二人が戻ってきた。それぞれ両手にひとつずつジェラートが握られている。
「会場の準備に行ったよ」
「なんだぁ。せっかくジェラート買ってきたのに。はいこれ」
残念そうに声を上げるニノンから、ジェラートを手渡された。荒く削られた岩山のような形のそれは、先っぽが暑さで溶けて雫になっている。
溶けたところを舐めていると、なぜかニコラスからもジェラートをひとつ手渡された。訝しげな表情で見返すと、ぐいっと催促するようにジェラートを突き出された。
「これ、二人で半分こしな。で、食べたら先に会場行っといで」
「え、先にって……ニコラスは?」
人混みに紛れかけている背中に、ルカは慌てて声をかける。だが彼は「ちょっとヤボ用があってね」とだけ言い残し、あっという間にいなくなってしまった。
「やぼ?」
「さぁ……どうしたんだろう」
ルカは首を傾げながら賑わう通りをぼんやりと眺めた。ニノンからは「ふぅん」と気のない相槌が返される。それよりも目下のジェラートのことで頭はいっぱいらしく、紫色の瞳は幼い子どものように輝いていた。
分からないことだらけだ。
ニコラスのことも、アダムのことも、ニノンのことも。磨りガラスを隔てているみたいに、肝心な部分は何も、分からない。
「あ」
「え?」
「溶けてる!」
指差され、首を捻れば、乳白色の液体が手首まで伝っていた。慌てて舐めていたら、目の前に白いハンカチがスッと差し出された。
「使って」
それはニノンの名前が刺繍されたハンカチだった。初めて出会った時、このハンカチがあったから名前を知ることができたのだ。
ルカは礼を言ってハンカチを受け取った。
花壇の近くに設置されていた蛇口を捻り、白い布地を濡らす。固く絞ってべたついた部分を拭いていると、小さく笑う声が聞こえた。ルカは思わず顔を上げる。
「ごめんごめん。なんだか懐かしいなぁと思って」
何を指しての言葉なのかが分からず、ルカが答えあぐねていると、ニノンは今度は照れたようにはにかんだ。
「ねぇ、これってまるで、デー…………みたいだね」
会話の途中で、視界の端からけたたましい管楽器の音が鳴り響いた。びっくりしてそちらを振り向くと、通りの端でおじさんたちが大きな楽器を抱えてなにやら準備に勤しんでいた。お祭りにかこつけて路上ライブでも行うのだろうか。ぷぉー、ぷぉー、と何かの楽器を調律する音が聞こえてくる。
「今、なんて?」
くるりと振り向いて訊ねたのだが、何故だかニノンは不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「……なんでもない。ルカ、あっち行こ」
よほどジェラートが不味かったのだろうか?
分からないことだらけだ。
そんな事を思いながら、ルカは彼女の背中を追った。
*
「こんな時間になっちまったな……」
会場内の壁には既に設置の終わった絵画がいくつも掛けられていた。額縁の上から黒いビロードの布が被せられているので、どんな絵が出展されているのかはまだ見ることができない。審査員が目の前にやってきた時にはじめて、その姿が晒される仕組みなのだ。
まだ表の扉は開かれていない時間のはずだ。会場にいるのは出展者ばかりなのだろうが、思ったよりも人が多い。
搬入口を探してアダムがきょろきょろと辺りを見渡していると、見慣れた顔が数メートル先の壁際で突っ立っているのを見つけた。
「おーい。カヴィロ、シャルル――」
ぶんぶんと片手を降り、駆け出したその時。
突然、どんっと体に衝撃が走った。誰かとぶつかったのだ。弾みで抱えていたキャンバスが手を離れる。それはスローモーションのようにゆっくりと床に吸い込まれていく。手が、動かない。
あ――と思った時、放り出されたキャンバスが黒いスーツの腕にしっかりとキャッチされるのを見た。
間一髪。どっどっ、と止まっていた心臓が急激に動き出す。
アダムははっと我に帰り、スーツの男にすぐさま頭を下げた。
「あ、あの、ありがとうご――」
「君、これは今から出展する絵かな」
言葉を遮るように男は言った。
「あ、はい。受付をしようと思って。時間もなくて、焦ってて、それで」
またしても言葉を遮るように、今度はぐいっと絵画を押し付けられる。スーツと手袋の間から覗く手首が驚くほど白くて、アダムは思わず顔を上げる。
蛙のようにぎょろりとした目。血の気の悪い薄い唇に、整髪剤で後ろに撫でつけられた金色の髪。そしめ、胸元には輝くLのバッジ。
「くれぐれも気をつけたまえよ。絵に万が一のことがあったら、困るのは君ではないのだからね」
「あ……はい、スンマセン……」
男は優雅に踵を返し、会場の奥へと去っていった。
一人取り残されたアダムの元へ、カヴィロとシャルルがニヤニヤしながらやってくる。
「危なかったな。作業のしすぎで疲れたか」
「根を詰めすぎるのもほどほどにな」
「あの人、どこかで……」
「アダム?」
確かに見覚えのある顔だった。
アダムは泥のような己の記憶を掻き出して同じ顔を探した。どこかで見た――どこで――それもきっと最近の話で――。
その時、とある貧しい村の風景が蘇った。
泣いて懇願する老婆。その皺だらけの指を、縋り付いた枝のような腕を、虫けらのように払いのけるスーツ姿の男。袖から覗く病的な白さの手首。ゆっくりと顔を上げる。そこにいたのはまさしく、金髪を後ろに撫でつけた、ぎょろりとした目の男だった。
「そうだ――あいつ、あの時の男だ」