第72話 孤独に咲くひまわり(3)
最初にそれを見つけたのは、オリーブの実が黒々と熟れはじめた秋の早朝のことだった。
ポストに無造作に突っ込まれたいくつかのチラシに混ぎれて届いた一通の手紙。無地の黒い封筒なんて投函者は変わり者だなと、手に取りながらエリオは不思議に思ったものだ。
裏面を見れば、Lのイニシャルを象った金色の封蝋で封がしてある。
中身は便箋一通のみで、他には特に何も入っていない。
手紙に目を通しはじめてすぐに、エリオの眉間には少しばかりのしわが刻まれた。
見慣れた筆跡だったのだ。学生時代からアトリエでの活動期間、家族になってもずっと見ていたのだから。少し幼く丸っこい、女性特有のその筆跡を。
やがて読み終わった便箋を何も言わずに封筒に戻し、エリオはそのままゴミ箱へ投げ捨てた。
――親愛なるエリオ・グランヴィル先生
黒い手紙は定期的にポストに届けられた。
届く度、エリオは律儀に文章に目を通し、険しい表情でそれをゴミ箱へと放り込んだ。
『なによ、その気味悪い手紙』
ある時、見慣れない封筒を手にしていたエリオに、ベルは眉根を寄せて訊ねた。
『ああ、これ』
と、エリオはぎこちなく笑った。
『ただのいたずらだよ』
『ふぅん。暇な人間もいるものだわ』
『違いないな。それよりさ、来月のことなんだけど――』
マグカップの中身を飲み干し、二人はコニファーを連れて席を立つ。くしゃくしゃに丸められた便箋と封筒が、ゴミ箱に投げ捨てられた。
――つきましては、新たな絵画の制作を開始いただければ幸いに存じます。
全ては堅実に生きる民の為に。
ルーブル発電所
その日の早朝、エリオは一枚の絵画と向き合っていた。パレットに乗った少量の絵の具を筆先ですくい取り、少女の目尻の細かな部分を修正していく。その筆使いは、キャンバスから距離を置いて久しい男のものとは到底思えないほど手慣れている。
絵はほとんど完成に近かった。
いく箇所か修正を施したところでようやく納得したのか、エリオは静かに筆を置いた。それからテーブルの上に置かれた無地の厚紙に手を伸ばす。
「Happy Birthday」と綴られたシンプルなグリーティングカードだ。秋に生まれた愛娘と、共に過ごしてきた幼馴染に宛てたものだった。
二人の誕生日は偶然にも近い。六日違いの秋生まれだ。
だがエリオは夏の絵を贈ることにした。日の光溢れる幸福の絵を。
エリオがメッセージの文字を指先で撫でていると、いきなり玄関のドアが開かれた。
『パパ! おてがみとおまつりのおしらせ、ポストに入ってたよ』
『あれ、随分と早起きさんだな』
さっとカードを封筒に仕舞い込み、エリオは子犬のように飛び込んでくる愛娘を抱き留めた。
『もうすぐキャプテンのおてがみがとどくでしょ? あじゃくしおから』
胸元に擦り付けていた顔をパッと上げて、コニファーはこれ、と紙の束を手渡してきた。チラシはヴィヴァリオで開催される秋の謝肉祭のものだった。ぶどう酒や栗のパン、たくさんのフルーツが山積みになったイラストが描かれている。
もうひとつはいつもの黒い封筒だ。しかし、エリオはそれを手に取って、ん、と眉をひそめた。普段よりも厚みがあることに気付いたのだ。
『コニーね、いつもポスト見るのがたのしみで、だからはやくおきちゃうの』
うん、とエリオは気の抜けた相槌をうった。
常に一枚だった便箋が、今回は何枚も重ねられている。一枚、また一枚と、便箋をめくる毎にエリオの瞳から生気が抜けていく。
『――なんだって。それでね……パパ?』
『……え?』
『どうしたの?』
無垢な瞳がじっとエリオを見上げている。なんでもないよ、と笑おうとしたけれど駄目だった。代わりにエリオはその小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
指先が、震えていた。
『これ、コニーとベル?』
エリオの肩越しに、コニファーがキャンバスを見つめてぽつりと呟く。エリオはゆっくりと首を回して、そうだよ、と頷く。
『それとひまわり畑だよ。ベルのひまわり畑だ』
右下には筆記体で綴られたサイン。
絵は完成していた。
『コニーひまわり大好き。でも、パパの絵はもっと、もーっと好き!』
コニファーはぐうっと両腕を伸ばし、空を掻くようにめいっぱい大きな円を描く。自慢げな少女が愛おしくて、愛おしくて、エリオは柔らかな髪を梳き頭をそっと撫でた。
『この絵はパパからのプレゼントだ』
『ほんと?』
『ああ、本当さ。大事にするんだよ』
『だいじにする!』
『……ありがとう。コニファー。可愛い僕の子ども』
ぎゅっと力強く、でも壊れないように、エリオはコニファーの身体を抱きすくめた。悲しみや辛さや憎しみが刻まれた表情を、汚れの知らない小さな天使が目にしてしまわないように。
何も知らない少女は、父親の腕の中でひまわりのような満面の笑顔を咲かせていた。
*
色づいた木々の葉が落ち、枯れ枝だけになっていくように、エリオは徐々に活力を失った。
まるで感情の表し方を忘れてしまったように、顔から様々な表情が消えた。ベルが不安に思ううちに、二人の間からもやがて日常会話はなくなっていった。
代わりに彼は、あんなにも遠ざけていたアトリエに度々篭るようになった。
カーテンは締め切られ、ドアも鍵が掛かっている。ベルは中の様子を伺い知ることができなかった。どうしたのか問いただそうとしても、力ない一言が返ってくるだけで、それは余計にベルの心に不安を募らせるだけだった。
思った以上に心の傷は深かったのだと、まだその傷は癒えておらず、それが彼を今、苦しめているのだと。ベルはそう思うしかなかった。
アトリエの中でエリオは、まるで何かに取り憑かれたかのようにひまわりの絵を白黒に塗りつぶし続けた。時折ぶつぶつと何かを呟きながら、土気色の顔をしながら、それでも彼は無心に作業を続け白黒の絵を完成させた。
エリオは出来上がった絵を丁寧に布地で包むと、隈のひどい目であたりをぎょろぎょろと見渡した。それから棚の裏の隙間に布ぐるみの絵画を隠した。
その後エリオは最後の仕上げとばかりに机に向かい、一枚の便箋に万年筆を走らせ始めた。
――ルーブル発電所 御中……。
今年もミュラシオルに満開のひまわりが咲いた。
太陽の光を濾してぎゅっと固めたような黄色の波が、風に揺れている。
ジワジワと鳴くセミの声。透明水彩の水色のような空。その上に置いた、アクリルガッシュの白色のような入道雲。立ち込める青々とした緑のにおい。槍のような陽射し。吹き抜ける風。
エリオは眩しげに目を細め、目の前に広がるこの島の美しさをすべて目に焼き付けてた。
その時、土を蹴る小さな足音が背後から聞こえてきた。
首だけを曲げて下を見やると、いたずら気味に笑う少女の姿があった。
『パパ、つかまえた』
新芽の色をした、小さなワンピースが風に揺れている。
エリオはコニファーと同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
『今日は暑いだろう。ベルのお手伝いをしてあげるんだ。できるね』
大きく頷くコニファーの頭をくしゃくしゃと撫でつけて、エリオは腰を上げる。
『ベルの言うことをよく聞いて、良い子でいるんだよ』
『うん。コニー、いいこにしてるよ』
『そう、それでいいんだ』
それから少しだけ間を置いて、エリオは最後にこう付け足した。
『パパはいつでもコニファーの側にいるからね』
頭上に輝く太陽が、彼の麦わら帽子のつばの元に陰を落としてしまったから、表情がはっきりと見えることはなかったけれど。それでもコニファーには、父親が優しく微笑んでいるように見えた。
『じゃあコニファー、ベルを頼んだよ』
そう言ってエリオは小さな背中をそっと押した。少女は一度だけ振り返り、満面の笑みを父に向ける。次の瞬間にはもう前を向いて元気に駆けだしていた。
小さな姿は陽炎の向こうに遠のいて、すぐに見えなくなった。
どれだけその場に立ち尽くしていただろう。
滴る汗が足首にまで伝いはじめた頃、ようやくエリオはひまわり畑に分け入った。
片手には古びた革製のトランクケースと小さなバケツを携えていた。ひまわりは胸辺りまで伸びきり、一斉に顔面を太陽に向けている。
ざくざくと花を掻き分け進んだ先に、ひとつの人影が見えた。
花畑のただ中に一人の男が立っていた。
奇妙なのは、この男が長袖の真っ黒なスーツを暑さも感じさせずに着こなしていることだった。顔は目深に被った帽子ののせいですっかり隠れている。
エリオは何か一言掛けることもなく、男の胸元に輝くLのピンバッジを一瞥する。かろうじて覗く口元が、すっと弧を描くのが分かった。
『ご協力に感謝いたします』
男は馬鹿丁寧に頭を下げた。
『なにがご協力だ』
エリオは山高帽のてっぺんをあらん限りの力を込めて睨みつける。そして、おもむろに被っていた麦わら帽子を脱ぐと、片手に携えていたバケツの中身をバシャッと帽子にぶちまけた。
飛び散る真っ赤な飛沫。
鮮血のような綺麗な赤色が、帽子や真っ白なシャツを汚した。まるで殺人犯が返り血を浴びたかのように。
風が吹き、ツンとした臭いが鼻をついた。
血生臭い鉄の臭いではない。ただの、絵の具の臭いだ。
『大切なものを守る為ならなんだってする。それだけだ』
帽子は赤い雫を滴らせながら、畑にぽとりと落ちる。
『体裁はなんだっていいのです』
まるで興味なさげに呟いて、スーツの男は自身のつま先に飛んだ赤い液体を、そばの草でなじって拭いた。
『歓迎しますよ、グランヴィル先生』
その時初めて、エリオはゾッとしたものを背筋に感じた。恐ろしく優しい声色なのに、そこに何の感情も含まれていないのだ。
ザァッと風が吹き抜ける。
遠くの方から花畑が真っ黒く染まっていく。空も、山も、すべてが灰色に塗りつぶされる。あらゆる音が四方から消えて、風が凪ぎ、時間が止まる。
だがエリオの瞳の中にだけは、鮮やかなひまわりが揺れていた。
黄金に輝く、孤独に咲くひまわりだけが。
*
気がついた時には既に、周りの景色はアトリエに戻っていた。
ルカは見るともなしにあたりを見回した。誰しもが困惑の表情を浮かべながら立ち竦んでいる。特にニノンの力を知らない者たちは、今しがた起こった状況をうまく呑み込めないでいるようだった。
絵画から流れてきたイメージは今までのような抽象的なものではない。もっと具体的で鮮明なものだった。アトリエ崩壊の経緯。妻の裏切り。発電所に対する疑心。愛する娘との別れ。
まるで画家の人生の走馬燈を見せられた気分だ。
「おい、何がどうなってる?」
カヴィロは我に返るなり、ぐっとこちらに詰め寄った。汗ばんでいるせいで、黒いTシャツの胸のくぼみ辺りが濃くなっている。
「まるでアイツの頭の中の記憶をほじくり返して、その映像を見てるみたいだった。あれはなんだ?」
黒い封筒。イニシャルLの金の封蝋――。
「エリオは……っておい、どこ行く気だ!」
ルカはカヴィロを避け、一目散にアトリエの奥の部屋へと向かう。
「ちょっと待てよ、ルカ!」
慌てて後を追ってきたアダムを無視して、ルカは山積みになったスケッチブックを片っ端からめくっていく。
「アンタねぇ、ああもう、埃まみれじゃないか」
口を抑えながらニコラスは眉をひそめる。「くっせェな!」と悪態をつくアダムの隣で、ニノンが控えめに咳き込む。
と、その時、ルカのページをめくる手が止まった。
「……見つけた」
「何かあったのか」
遅れてやってきたシャルルが訊ねる。ルカは一同に向き直り、こくりと頷いた。
「黒い手紙です」
顔の前で掲げてみせた真っ黒な封筒。それはまさしく、エリオの受け取った手紙に違いなかった。
「なんて書いてあるんだ?」
待ちきれないという風にアダムが背後から覗き込んでくる。中身を取り出してみると、便箋は何枚も重ねて折りたたまれていた。きっとエリオが最後に受け取ったものだ。
親愛なる――一行目に目を走らせ始めてすぐに、後ろから手紙の内容を読み上げるアダムの声が聞こえた。
「『親愛なる、エリオ・グランヴィル、先生』」
文面はありきたりな常套句から始まっていた。
その後には、至極丁寧な言葉遣いで綴られる絵画制作の催促文が続いた。この世のためにだとか、過去の惨事を繰り返さないためにだとか、もっともらしい単語がお行儀よくいくつも並べられている。
「『先生にも色々と事情がお有りかと存じます。しかし、事態は一刻を争います。先生の協力が得られない場合、資源供給に大幅な不足が生じるのです。』……一刻を争うって、んな大げさな」
定期的に届く手紙の内容も、おおよそがこういった催促だったのだろう。
ルカはアダムの読み上げるペースに合わせて便箋を捲った。
「『先生が今後絵画の制作に意欲的ではない場合、新たな巨匠を探さねばなりません。そこで、我々は考えました。あなたの才能を受け継ぐ者ががいるかどうかということを。つまり、先生のご息女に関してでございますが』――え」
一瞬、戸惑ったようにアダムは言葉を止める。すぐにカヴィロから続きを促す視線がとんだので、アダムは慌てて続きを読み上げた。
「『――未来の巨匠になるべき素質を見出しております。年若き時期から才能を開花されることほど名誉なことはございません。我々もすべての知識をもって誠心誠意支援させて頂きますので、ご安心ください。――……』」
丁寧な言葉で綴られているが、それは静かな脅迫だった。
この手紙を読んで、エリオはきっと貧しい村での出来事を思い出したに違いない。己の思う方向に物事を進める力が、この組織には備わっているということに。どれほど姑息な手段であっても世間に露呈することはない。圧倒的な力の差をまざまざと見せつけられたのだから。
「自分の娘のことを把握されている。それがどれだけ恐ろしいことか、もうエリオさんには分かっていたんでしょう」
ルカは言いながら、再び便箋に目をやる。エリオの協力が仰げるなら、それはそれに越したことはない、などといった内容で文章は締められていた。
「なんだよ、それ」
うわ言のように、ぽつりとカヴィロは呟いた。
「カヴィロ……さっき見たアレ、絵画に込められた思いとか、メッセージなんだ。つまりさ、エリオの過去だよ。それをニノンの力で俺たちは見たんだ。信じられねェかもしんねーけどさ」
アダムは躊躇いがちに説明する。
「過去か。ああ……そうだな」
と、天井を仰ぎながらカヴィロは独りごちる。
「その通りだ。お前らが見た通り、俺たちはエリオの考えに納得がいかなくて、アトリエを出た。俺は、あいつが重すぎるプレッシャーに耐えきれなくて逃げたんだとばかり思ってた」
「エリオはあんたみたいな腰抜けじゃないわ」
ベルは苛立ちを隠さずに吐き捨てると、ふんっと鼻をならした。ぴく、とカヴィロの片眉が動く。そのままゆっくりとベルに詰め寄った。
「あんただってな、エリオが心を病んだと思ってたんだろう。それで死んだんだって、思ってたんだろう? 何も知らなかったのはお互い様じゃないか」
「それがなによ。あんたたちがエリオを捨てたって事実は消えない。それがエリオを苦しめたってこともよ!」
ぐっと押し黙るカヴィロ。だがそれも束の間、今度は何かを思い出した様にニヤリとと口元に笑みを浮かべてみせた。
「そうやって弱ってたところにつけ込んで取り繕ったのは誰だ? なんとかしてあいつに好かれたかったんだろ?」
「な……っ」
「いやに献身的だったもんな。あの女が蒸発した時だって、内心嬉しかったんじゃないか?」
「適当なこと言わないで! それを言うならあんたたちだって――」
「もうやめな」
痺れを切らしたニコラスが、ベルの肩を抱いて言い合いを止めた。抑えきれなかった怒りにわななく瞳が、矛先を探して男を見上げる。
ニコラスは、悲しそうにかぶりを振った。
「コニファーが驚いてる」
「あ……」
ベルはずるずるとしゃがみ込んで、怯えた表情のコニファーをぎゅっと抱きしめた。
ごめんね、ごめんね、と何度も呟く彼女の声を、ルカはただじっと聞いていた。
――歓迎しますよ、グランヴィル先生。
頭の中でふいに、あのスーツの男の声が木霊する。それはどこかで聞いたことのあるような声だった。でもどこで聞いたのかは分からない。低すぎず、かと言って高すぎもしない。艶のようなものを含んだ大人の男の声だ。
頭の中の暗がりを探ろうと、ルカは目を閉じた。
瞼の裏側に黒いひまわり畑が見える。
黒い涙を流すエリオが、畑の真ん中にぽつんと佇んでいる。「助けて」と、あの時確かに彼は言ったのだ。あれはどういう意味だったのだろう。ただ苦しかった思いが、絵に染みついてしまっただけだったのだろうか。それとも何かを伝えようとしていたのだろうか。
「守ってやらなきゃ駄目なんだよな……俺たちが、その小さいのを」
苦しみの滲む声が聞こえて、ルカは顔をあげた。カヴィロは渋い表情のまま何もないところをじっと見つめている。
「いくら過去を知ったって、どれだけ後悔したって、もうあいつは帰ってこないんだから」
シーツを手繰り寄せた時のように、ベルの顔がくしゃっと歪んだ。もうずっと分かっていたことだった。受け止めるしかないのだ。そう理屈では分かっていても、受け止める余裕がない時だってある。ベルはコニファーの背中に回していた拳をぎゅうっと握りしめた。喉につっかえた岩のようなものを、必死に呑み込もうとしているようだった。
「そんなことないよ」
突如、凛とした声が響いた。
まるで不思議なものでも見るように、皆の視線が少女に――ニノンに向けられる。瞳に力強い光を湛えたまま、ニノンははっきりと言いきった。
「エリオさんは、生きてるよ」
 




