第70話 孤独に咲くひまわり(1)
その日の夜、一同はアトリエの一角に集まった。中にはベルと、彼女に手を引かれ少しだけ眠そうにしているコニファーの姿もある。
少し疲れた様子のアダムに、ニコラスが何やら労いの言葉をかけている。隣では頬の赤みもすっかり戻ったニノンが笑顔を見せていた。雨に濡れてしまった白いワンピースはベルがすぐさま洗濯してくれたようだ。今は鮮やかな紺色の麻のワンピースを着ている。
アトリエに戻った後、夕立が過ぎ去ってもニノンの口から詳細が語られることはなかった。
だからルカも何も聞かなかった。
咽せるような暑さを雨がさらっていき、代わりに涼しげな風が窓からそよそよとふいていた。そうして、夜の訪れを待たずに鳴き始めた虫たちの声を、二人して聞くともなしに聞いていたのだった。
ニノンは窓際に近づき、そのまま小さな出窓を開け放った。夕立のあとのぐっと涼しくなった空気が室内に流れ込む。
考えに耽っていた頭を現実に戻すように、ルカは瞬きを数度繰り返して顔を上げた。
「修復は終わりました。ベルさん、最後に目にしたこの絵画の姿、覚えてますか?」
「ええ。真っ黒なひまわりが一面に咲いてる花畑の絵……だったわよね。白と黒だけで塗られた、今までに見たことのない風合いの絵で」
ほんの数日前。作業の許可をもらう際に現物を一度、彼女に見せていたのだ。
コニファーが不思議そうに大人たちの顔を見上げている。少女にちらりと目をやりながら、ルカは「そうです」と相槌を打つ。
「あんなにも色彩を褒めそやされた人が最後に残したのは、よりにもよって『色のない絵画』だった。――そこに意味があったとしたら?」
「……どういうこと?」
眉をひそめてベルが訊ねた時、ガチャンと玄関口から音がした。そこに居た者の顔が一斉に扉に向けられる。
「いきなり押し掛けて悪い。ちょっと用事があって来たんだが……これはなんの集まりだ? 『色のない絵画』って?」
扉の向こうにいたのは、カヴィロとシャルルだった。
彼らは話を少しだけ聞きかじっていたらしい。玄関口から半身だけを室内に突っ込んだ中途半端な状態のまま、カヴィロの目は奥にある扉に注がれていた。保管庫の扉が開いたままだ。
「エリオの残した最後の絵画を修復したんだよ」
顔にかかった前髪をかきあげながらアダムが答える。その目はそのままルカの向こう側に向けられた。
イーゼルに鎮座するのは、布に覆われた横長の大きな絵画。
エリオ・グランヴィル――今世紀最高の巨匠が描いた、最後の作品。
「そう……なのか」
歯切れの悪い相槌が漏れる。その場に突っ立ったままの男たちに、ルカはこちらに来るよう視線で促した。シャルルがカヴィロの背を小突く。ややあって二人は遠慮がちに室内に入ってきた。
「エリオさんは知っていたんです。評価基準を逸脱した絵画は、たとえどれほど有名な画家の作品であったとしても、エネルギー変換の見込みがないと判断されることを」
図らずとも、画家の想いは少なからず絵画から滲み出るものだ。隠したって分かる人にはわかる。
だが、この絵に関しては違う。
逆なのだ。
「エリオさんは、あえてこの絵を白黒に塗ったんだ」
「心を病んでたから、ってことか?」
アダムが痛みを我慢するように呟く。
「そうじゃない」
「じゃあどういうことなんだよ」
ルカは振り返り、迫るアダムの瞳を見据えた。
「白黒の絵は、この絵の本来の姿を隠すためのカモフラージュだったんだ」
ばさり、とルカは絵画を隠していた布を取り払った。
その瞬間、誰もが息をのんだ。
「色が――咲いてる」
ぽつりと呟いたのはベルだった。
それは吸い込まれそうなほど曇りなき水色の空。穏やかなそよ風の存在を感じさせる、灰白のなだらか雲。
たもとに広がる広大なひまわり畑はどこまでも黄色く、ただただ明るい。コルシカ島の野に咲く小さな花を思い起こさせる、力強い黄色だ。花弁に落ちる影さえも鮮やかなオレンジ色で、青々と茂る葉の緑は、黄色の波の間から遠慮がちにちらちらと顔を覗かせている。
その花畑の真ん中に、幼い少女を抱きかかえ、佇む女性の姿があった。
「え……これ、私たち……?」
「ああ、私にもそう見えるよ。紛れもなく、あんたとコニファーにね」
驚きに満ちた瞳で花畑の中の人物を見つめるベルに、ニコラスは目を細めて言った。
満面の笑みをこぼす少女。
少女を抱き上げる女性の、慈愛に満ちた微笑み。
「これが本来の姿だってのか」
と、じっくり絵を眺めていたアダムだったが、ふと顔を上げてこちらを見た。
「そういや、白黒の絵はどこいったんだ?」
「白黒の絵はもうないよ」
「え?」
「下層の絵画を取り戻すためには、上に塗られた絵の具は全て取り除かなきゃいけないんだ。今の技術では上層の絵画を残したまま修復を施すことはできないから」
だからもう、あの白黒の絵画はこの世からは消滅したのだ。そう答えれば、アダムは少しだけ複雑な表情を浮かべた。仕方がないと思う。ルカは誰にも気付かれない程度に小さく息を吐いて、絵画に向き直った。
「俺はただの修復家で、魔法使いでも超能力者でもなんでもない。画家がどんな思いでこの絵画を白黒に塗り潰したのか、正解を導き出せるわけじゃない。だから……手をつけるのに、少し勇気がいった」
正直なところ、白黒の絵具層の下にもう一つの絵具層を見つけた時、ルカは本当に修復するべきなのか悩んだ。それまで描いていた絵が気に入らなくて、全く違うものを上に重ねて描くことだって十分にあり得たからだ。
「お前にも怖いものってあったんだな」
アダムは珍しいものでも見たような顔をした。
「怖いよ」
ふたつとして同じ絵は存在しない。そんなものに手を出すのは、いつだって怖いものだ。
「でも、ニノンと一緒にモノクロの絵の中に入り込んだ時、助けを求めるエリオさんに会った。それで、決めたんだ。上層の絵を取り除こうって」
ルカが修復の方向性を素早く決めることができたのは、ひとえにニノンの力のおかげだった。
「なぁ、カモフラージュってのはどういう意味だ?」
伺うタイミングを見計らっていたらしい。カヴィロは訝しげに顎をさすった。
ルカは相槌の代わりに軽く頷いてみせる。
そもそも違和感を覚えたのは、この絵に込められていたメッセージにニノンを介して触れた時だった。物理的な証拠が揃ったのはその後の話だ。
「完成した絵には画家がサインを書き加えて、その上からワニスを塗るのが普通ですよね。この絵はそうやって一度完成してる。白黒の絵はその上に塗られていたんだ。まるで『完成した絵を隠す』かのように」
それぞれの視線が、ぱらぱらとキャンバスに向けられていく。ルカは一呼吸置いて言葉を続けた。
「この絵の存在を世間に知られたくなかったからです。そしていつか誰かが――自分の想いを見つけてくれる修復家が現れることに、エリオさんは賭けたんだ。この絵だけはエネルギーに換えられたくなかったから。なぜなら――」
ルカの青い瞳がベルとコニファーを捉える。
「この絵をプレゼントしたい人たちがいたからです」
ベルの喉元からひゅっと空気の吸う音が漏れた。
「キャンバスの裏側の木枠にタイトルが残っていました。〈孤独に咲くひまわり〉、というそうです」
孤独に咲くひまわり。
彼は地位も名誉も手に入れた。明るい未来だってその手に掴んだはずだった。誰もが巨匠という名の幸福を疑わなかっただろう。苦しみとは無縁の人間だと羨望しただろう。
人知れず孤独に侵された男が見つけたひまわりに、ルカはそっと想いを馳せた。温かく彼を照らしてくれた、孤独という名の草原に咲く太陽の花に。
「エリオさんが最後に描いた『ひまわり』は花じゃない。苦しんでいた時期、ずっと傍に居てくれたあなたたちだったんです」
あなたたち――愛娘のコニファー。そして幼馴染のベル。
「そんなこと……あの人、一言だって言ってなかったわ」
ベルは信じられないという表情で何度も首をふった。
「私なんてあの人にとっては口煩い女で、お節介焼きで、なんの役にだって立ってないただの幼馴染で」
「そんなことないよ?」
こうべを垂れながら薄暗い思考の中に沈みかけていたベルは、ハッと息をのんだ。
朝靄の立ち込める森の中のような、萌葱色の瞳がじっと彼女を見上げていた。
「パパね、いつもベルがもってきてくれるごはん、おいしいおいしいって食べてたよ」
「それは、あの人、料理の腕があまりよくないから」
「あったかくなってきたらいつも窓の向こうをのぞきこんでね、『ベルのひまわりはいつ咲くのかなぁ』って楽しみにしてたんだよ」
「それは、あの人の好きな花がひまわり、だから……」
そっとニコラスがベルの肩を抱いた。泣きそうに大きく見開かれた瞳は一瞬ニコラスを振り返り、すぐに自身のつま先を睨むように見下ろされた。
「確かめようよ、エリオさんの本当の気持ち」
ニノンは固く握り込まれていた彼女の手を優しく引いた。
確かめる、とベルの口元が動く。不安の色に染まる瞳の中で桃色の髪の少女が揺れている。だがニノンは「そう、確かめるの」と多くを語らないままベルを引っ張って絵画の前にやってきた。そうして一同をぐるりと見渡した。
アダムは悟ったようにひとつ頷いて、まずコニファーの手を握った。次に反対側に立つニコラスと手を繋ぐ。それが合図になったかのように、それぞれの手が順に繋がれていった。
やがて室内に大きなひとつの円ができた。ルカは最後に余った左手をそっと絵画の淵に添える。
誰もが無音の世界に立ちすくんでいるような心地だった。
泥のように進まない時間の中で、ニノンの白い指だけが空気をなぞるように動き、絵画の端にそっと触れた。
「あなたの想いを私たちに教えて。大丈夫だよ、怖くないから」
その瞬間、稲光のような光が視界を貫いた。
ルカはぎゅっと目を瞑った。
瞼の裏側に真っ白な世界が広がり、音や感覚が全身から遠のいていく。身体をすり抜けた意識はやがて、白い世界の中へ誘われるようにして溶けていった。
*
数十秒、数分経っただろうか。
白んだ世界に色が戻り始めた。鏡の曇りがふっと消えていくように、あたりの景色が広がっていく。
それはどこかの部屋の一角だった。油や黒ずみで汚れた床。描きかけのキャンバス。ボロボロのイーゼル。壁には青や黄色が鮮やかな、プロヴァンス柄の見慣れたタペストリーが三つ掛けられている。隣にはでかでかと貼り付けられたコルシカ島の地図。その上にプッシュピンで留められた絵の具チューブはまだ新しいからか、表面のアルミがぴかぴかと輝いている。
この部屋がどこなのか、ルカにはすぐに分かった。
エリオたちの、かつてのアトリエだった場所だ。
視線を上にずらすと、そこにはあの三環の時計が掛かっている。壊れておらず、カチカチと音を立てながら秒針はしっかり時を刻んでいる。十五時五分だった。
『一体どういうことか説明してくれ。だんまりじゃ分からないんだよ。なぁ、エリオ』
怒気を抑えきれていない男の声がすぐ側で聞こえた。カヴィロの声だ。見れば、角ばった木製の机を囲むようにして、三人の若い男たちが只ならぬ雰囲気を発しながら向かい合っている。
エリオ、と呼ばれた青年はがらんどうの瞳を机に落としたまま、じっと耐えるようにして無言を貫いていた。対面する二人の青年はこちらからは背中しか見えないが、おそらくシャルルとカヴィロだろう。
そのうちカヴィロと思しき青年の肩が怒りにわななきはじめ、しばらくして、ついに彼は拳で机をバンッと叩きつけた。
『画家を辞める理由を聞きたいだけだって言ってるんだ。簡単だろうが!』
空気が震えて、またしんと静まり返った。
エリオは口を開かない。シャルルがなだめるようにカヴィロの肩に手を置く。次にエリオを見て、静かに口を開く。
『AEP業界は今やお前に物凄く肩入れしている。数十人、数百人分の画家が作り出す絵画を束ねたってお前には敵いっこないだろう。エリオ・グランヴィルは世の画家の憧れだ。なにが不満だ? 報酬か? 休息か? そんなものは言えばいくらだって与えてもらえるさ。それだけの価値がお前にはある。なのにどうして……』
『そんなものは』
シャルルの言葉を遮って、エリオは重たい口を開いた。
『そんなものは、いらないんだ』




