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コルシカの修復家  作者: さかな
8章 孤独に咲くひまわり

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第69話 暗雲

「生きてたんだね」

 やっとのことで絞りだした声は、情けないほど掠れていた。

「兄さんこそ」

 柔らかい髪を揺らしてダニエラは笑う。

「ずっと待ってたんだ。こうして会える時を」


 大通りを一歩入っただけなのに、路地裏はまるで世界から切り取られたみたいにひどく静まり返っていた。陰る日差しに溶け込むように、どこか遠くで蝉が鳴いている。

 ニコラスにとって路地裏はあまり気持ちの良い場所ではない。辺りを覆い尽くす静寂や、道路脇に置かれたボロボロのゴミ箱、窓と窓の間に張られた洗濯糸、時折漂ってくる何かを炊いたような食べ物のにおいが、石畳の上で屑紙のように丸まりながら眠った幼い日々を思い起こさせるからだった。


「あんた今まで何してたんだい。やっぱりまだあの男の元に?」

 鋭い視線を向けると、ダニエラの口元が弧を描いた。

「だとしたら? 僕が憎い、兄さん?」


 アシンメトリーに揃えられたベージュの髪。少し褪せた茶色の瞳。夏だというのに長袖のスーツを着込んでいる。しかも汗ひとつかいてやしない。昔からそうだったろうか。そうだった気もする。ニコラスは遠い記憶の片隅に残る弟の面影をつまみ出した。自分と同じ顔。同じ声。目の前に佇む彼は昔のままで、何ひとつ変わっていない。


「ダニエラ――ニノンがあんたを探してる。一体どういうカラクリを仕掛けた? あの人があんたにニノンを合わせようなんて、地球が滅びたって有り得ないだろうさ」


 すると、ダニエラは喉を潰したようにくっくっと笑った。何かおかしなことを言っただろうか。ニコラスは眉をひそめた。


「何がおかしいの」

「やっぱり記憶が()()戻ったわけじゃないんだね。可哀想に。じゃあ、あの子の記憶はもっと虫食いだらけだ」


 ああ可哀想にと繰り返すと、ダニエラはこちらに背を向け、路地裏の上に細く切り取られた青空を仰ぎ見た。その瞬間、ニコラスの心臓は内から火をつけたようにドクンと熱くなった。


「さっさと教えな、あんたの知ってること全部」

 ニコラスは視線を逸らさず、気付かれないようにポケットの中を探った。何かにつけて物騒な世の中だから、護身用のフォールディングナイフを忍ばせてあるのだ。手探りの状態で見つけた柄を静かに握り込む。だがその時――


「まだその時じゃないんだよ、兄さん」


 空を仰いだままダニエラは言った。


「他人に尋ねて記憶を叩き起こすなんて荒療治だ。特にあの子に関しては……副作用だけじゃないんだよ。兄さんだって分かってるはずだ。ショック性に起因する記憶の喪失なんて特に、無暗やたらに外側から引っ張らない方がいい。だから、」

 ダニエラは空を見るのをやめた。くるりとこちらに向き直ったその瞳には、くっきりと同じ顔が映し出されている。

「記憶が戻るまで、兄さんはあの子の側にいるべきだ。僕たちの問題は最後でいい」


 ニコラスは悔し紛れに奥歯を噛み締め、ポケットから手をひいた。


「あの子を護ってやるのが先決だと思わない? だって僕たちはベルナール家に忠誠を誓う守護者(ガルディア)なんだから」


「どの口がほざいてるのさ――この、裏切り者」


 ダニエラはまたもにやりと笑った。丁度建物の先から顔を出した太陽が、路地裏に日差しを落とす。

 その時、彼の胸元で何かが光った。

 小さなピンバッジだ。それも、ゴシック体のLを象った厳かなゴールドの。

 ニコラスはハッとした。あれはおそらく世界中の誰もが知っている、この世界を支えている唯一無二の機関――〈ルーブル発電所〉のエンブレムだろう。


「やっぱり。そういうことだろうと思った。あの男……今は『サン=ジェルマン伯爵』だなんてふざけた名を名乗ってるってことね。そして大馬鹿者のあんたはそいつにのこのことついてったってわけ」

 愚かだね、とニコラスは苦々しく吐き捨てた。

「兄さんはあの人を勘違いしているよ」

「はっ。とうとう狂っちまったかい」


 勘違いだなんて、そんな言葉が口から出てくること自体が既におかしいのだ。お互いあの男には大切なものを奪われた。その記憶は永遠に乾かない血痕のように、今でも鮮烈に脳裏にへばりついているはずなのに。

 だからきっとこの愚弟は騙されているか、操られているか、どちらかなのだ。そうじゃないとしたら、怒りに頭がおかしくなったとしか考えられない。心からあの男を慕うなんて()()()()()()()()()


「とにかく、兄さんは最後までニノンを護ってくれさえすればいい――このまま、何も覚えていないふりをして」


 行き場をなくした憤りをぶつけるようにバッジを睨みつけていると、ゆっくりとダニエラがこちらに歩み寄ってきた。


「あの人の願いに背くような真似、誰がするもんですか」

「兄さんのその義理堅いところ、昔から変わってないね」


 ぬるい風に胸元のネクタイが揺れている。ワインレッドの色味はまるで乾きかけの血のようだ。或いは、と考えてニコラスの思考は少し薄暗くなった。長い時間を経て、この男に飛散した血痕は乾いてしまったのだろうか、と。


 通り過ぎ様、ダニエラはなんのことはなく「サロンの準備があるから、もう行くよ」と言った。まるで、街中で久々に出会った旧友に別れでも告げるように。

 すぐには言葉を返せずに、ニコラスは呆然と立ち尽くしていた。怒り、悲しみ、焦り、嬉しさ。頭の中を様々な思考が飛び交っている。だがすぐに振り返り、錆びた目玉を無理やり動かして男を見つめた。

 小さくなっていく背中は昔から変わらないようでいて、しかし大きく違っているようにも見える。そこに世界の全てを背負っているのか。想像もできないような重さの期待を。人類の希望を一切に請け負って?


「ダニエラ!」


 もう二度と触れることができないような気がして、ニコラスは思わず彼を呼びとめた。その声を待っていたかのように、ダニエラはぴたりと歩を止める。

 二人の間を抜けてゆく忙しない蝉の声。

 何を言うつもりなのか、どうして引き留めたのか、自分でも分からない。だけど、そのまま行かせてしまってはいけないような気がした。


「あんたは私が救ってみせる」


 ゆっくりと、風に吹かれたみたいに首だけをこちらに回して、ダニエラはうっそりと微笑んでみせた。

 その瞳に映る濁った絵の具のような感情が一体どういうものなのか、今のニコラスにはもう分からない。それでも言葉にせずにはいられなかった。手を伸ばさずにはいられなかった。愚弟だとしても、半生を共にした片割れに情を抱かない人間なんていないのだから。


 ついに言葉を返すことなく、重たいスーツ姿は大通りに消えていった。

 途端に戻ってきた蝉の声が、耳元でわんわんと唸る。そろそろ夏が終わるのだ。地面の端にしぶとく生える色濃い雑草も、強い日差しに当てられて熱をもったレンガ壁も、全て移ろう季節の中で等しく時を過ごしているはずなのに。

 哀れな双子の時間はあの時から――ベルナール家の血濡れの悲劇から、ぴたりと止まってしまっている。


「本当に……大馬鹿者だよ」


 誰ともなしに呟いた言葉が風にさらわれて消えていく。

 男の後ろ姿が見えなくなった後もずっと、ニコラスは光でぼやける路地の出口を睨みつけていた。



 *



 まるで何時間も呼吸を忘れていた生き物のように、ルカは一度深く息を吸って吐きだした。

 ついに修復作業が完了した。あれから一切の休憩も挟まず、取り憑かれたようにもくもくと作業を進めたおかげで、修復は予想より遥かに早い段階で完了した。

 何時間も同じ体勢でいたから身体中が銅像みたいにガチガチに固まっている。ぐるりと交互に肩を回してやると、幾分か凝りもほぐれた。


 イーゼルに安置された巨匠の遺作に慎重に布を被せて席を立つ。

 依頼主はいない。だが、返す宛先はもう決まっている。

 ルカは机の上に散乱している丸まったティッシュで手の汚れを拭い、真っ黒のエプロンを脱いで、もう一度軽く息を吐いた。ふと壁掛け時計に目をやると時刻は六時二〇分――しかしすぐにその時計が既に息をしていないことを思い出し、窓に目をやった。


 朱い光が窓の桟を滲ませている。

 その向こうからザァザァと激しい雨の音が聞こえる。

 そこでふと、ルカはニノンがまだ帰ってきていないことに気がついた。昼時から今まで、もう随分と時間が経っているはずなのに。


 勢いよくドアを開けたが、足首を温い雨が打ったのでルカは入り口でぐっと踏みとどまった。辺り一面に夕立が降り注いでいる。朱く染まる空。真緑のヒマワリ畑。全てが水を垂らした水彩画のように滲んでいる。

 そこで、ん、とルカは目を留めた。茂るひまわり畑を前に、見慣れた後ろ姿がぽつんと、畑を見上げるように佇んでいるのが見えたのだ。


「ニノン!」


 雨に濡れるのも気にせずにルカは駆け寄った。

「なにやってるんだよ。風邪ひいちゃうだろ」

 白いワンピースも桃色の髪もぐっしょりと濡れてしまっている。

 無理に笑顔を作ろうとしたのか、ニノンはこちらに顔を向け、虚ろな瞳をいびつに歪めた。そして血の気を無くした唇で「ルカ」と消え入りそうに呟いた。


「……ニノン?」

 ルカはそばに寄って心配そうにニノンの顔を覗き込んだ。そうして両腕を掴んで、ぎょっとした。掴んだその腕が死人のように冷たかったのだ。それに、可哀想なほどに青白い。一体どれほどの間雨に打たれていたのだろう。


「どうした? 何があった?」

 ニノンは弱々しく首を横に振るだけだった。雨に濡れて束になった髪の先からぽたぽたと水滴がしたたる。しかし次々とそれ以上の雨が降り注いで、まるで無かったかのように小さな水滴をのみ込んでいく。

 遠くの夕空で雷鳴が轟いた。


「――夢を」

「え?」

「怖い夢をみたの」

「ゆめ?」

 ニノンは瞼を閉じた。頬を濡らす雨が涙に見える。

「皆と……さよならをしたの」

 或いはここで一人、泣いていたのかもしれない。

「一人ぼっちに、なって、私……」


 今にも消え入りそうな言葉を遮って、ルカは冷えきったニノンの体を抱きしめた。腕の中に収まる少女は思ったよりずっと華奢で、これ以上力を込めたら壊れてしまいそうなほどに繊細だった。

「ルカ……」

 呟く声には計り知れないほどの孤独や恐怖が潜んでいるのかもしれない。だがそれらを共有する術をルカは知らない。喜びは分かち合うこともできるが、悲しみはそんな簡単なものではないから。

 今できることと言えばやはり、優しく抱きしめてやることぐらいなのだった。


「俺はここにいるよ」


 耳元でそっと、だが力強く、ルカは言った。

 ぐうっと胸元に顔が押しつけられる。ニノンの両手が力一杯Tシャツの裾を握った。雨に濡れた肩が小刻みに揺れているのを、ルカはじっと見つめていた。しばらくして、呻くような小さな泣き声が雨音に混じって胸元から漏れて聞こえてきた。同時に、襟首の下あたりが熱いもので濡れたのが分かった。


「どこにも行ったりしない。誰も、ニノンを一人ぼっちになんかしない」


 ルカは雨でびしょびしょになった桃色の頭をそっと撫でてやった。返事はなかったが、代わりに一際大きな呻き声があがった。


「一緒にアトリエに戻ろう」


 ぬるさを帯びた夕立が二人に降り注ぐ。

 ふと空を見上げれば、目線の先に雲の切れ目から少しだけ、オレンジ色をした夕暮れの空が覗いていた。

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