第68話 ニコラスとベル
「我々の進めている研究にお前の存在は必要不可欠なんだ、ニノン・ベルナール。その重要性が分かるなら――ぜひとも、協力してほしい」
つまりは、とジャックは長い説明の後に一区切りつけて要約した。
汲み取りの能力を発揮する際に不思議なエネルギーが出ているだとか、それが変換されるためにはナントカという物質が必要だとか、展望塔に登ってからすぐにいくつもの難しい説明を受けた。だが結局、ニノンが理解できたのは最後に彼が言った言葉ぐらいのものだった。自分が彼らの研究に必要だという事ぐらいしか。
その日の午後、空は透き通るような青色をしていた。展望塔に登って空に近づいたからかもしれない。ペンキで塗ったようなパキッとした入道雲は目線の先で重たそうに構えている。
ニノンはベンチからそっと立ち上がると、何も言わずに外囲いの鉄柵まで歩いていった。
「この力について、細かいことはもう知ってるんだよね。私が、絵画に込められた人々の気持ちやイメージを汲み取れるって」
「ああ、ロロから聞いた」
「そう。……今までの旅の途中でね、私、いくつか絵の修復のお手伝いをしたの」
風が吹いて桃色の髪を揺らす。熱気のこもった風だった。
「誰かの心を救えたことも何度かあった。ああ、こうやって誰かの為に使う力なのかなァって、思ったんだよ」
ジャックは腕を組んだままじっと突っ立っている。ロロは思うところがあったのか、感慨深げに何度か頷いた。
「あなたたちに協力するとどうなるの?」
くるりと振り向いてニノンは二人を見つめた。
それは疑心ではなく、純粋なる疑問だ。
「世界が変わる」
ジャックがそう告げた時、展望塔を一迅の風が吹き抜けた。
「不透明な技術の支配する時代は終わりだ」
彼は上物の靴底を鳴らして鉄柵までやってくると、ニノンの隣に並んで空の遥か遠いところを見た。
「俺たちは自由を手に入れる。そして全てが変わるのさ。この世の仕組みも、人間の存在も、価値観でさえ。ひっくり返す。全部だ」
目一杯見開かれた水色の瞳に、たくさんのキラキラしたものが写っているのが見えた。
「どうやって?」
ニノンは首を傾げてその瞳を覗き込んだ。ジャックは振り向いて、ニヤッと笑う。
「新しいエネルギーを発明する」
瞬間、背筋が震えた。彼によく似た瞳を知っていたからだ。見たことがあった。それもすぐ側で。例えばアダムが時折見せる瞳の中の輝き。例えばルカがふいに灯す瞳の炎。同じものがこの少年の中にもあるのかもしれない。
彼だけじゃない。ロロにだって、小さな天文学者にだって、仮面職人の少年にだって。誰の心にも、そんな小さな種火は息をひそめて隠れているのかもしれない。
「それが君の『夢』なの?」
「夢じゃない」ふっと視線を空に戻してジャックは言った。「目標だ」
この島には、そんなキラキラしたものを胸に秘めている人がたくさんいる。だから、コルシカ島はいつも誰かの押し留めきれていない光で溢れている。
「僕たちの目標に、協力してはもらえませんか?」
気がつけばロロも隣に立っていた。見上げるほどに彼の背は高い。その瞳はやはり雨に濡れたあとのようにきらきらと輝いていた。
「いいよ。協力する」
「本当ですか!」
「でも」
と、顔を輝かせるロロを遮ってニノンは続ける。
「今すぐにってわけじゃないよ。私には先にやらなきゃいけないことがあるから」
「記憶探しか?」
尋ねるジャックに少しだけ目をやり、ニノンはまた前方を向いた。双子山の間で水平線がきらきらと光っている。
「それもあるけど。今は、この島に隠されてる絵画を探したい。ルカの手助けをしたいの」
「ルカねぇ……」
ジャックは納得したのかしていないのか曖昧な相槌をうって、しばらく空に浮かぶ入道雲を睨んでいた。やがて、ポケットからメモ帳を取り出すと、そこに何かをさらさらと書きつけた。雑に破り取った紙切れを手渡される。ニノンは受け取ったそれをしげしげと覗き込んだ。
そこには一〇桁の数字が几帳面に並んでいた。
「連絡先だ。お前たちの今後の行き先は?」
「えっと……この後コルテに行って、それからカルヴィに」
「フランカルドに着いたらここに連絡しろ」
「フランカルド?」
「コルテからカルヴィに向かう途中にある町だ。迎えにいく」
「ちょっと待ってよ、私の話聞いてた?」
聞いてたに決まってるだろうが、と豪語するほら吹きに非難の視線を向ける。あろうことかジャックはぞんざいにため息までついた。
「大丈夫だ、旅の邪魔はしない。すぐに済む」
フランカルドと呼ばれる町の側に、ジャックたちの住まうアガルタはあるのだという。何をもってすぐに済むだなんて言いきれるのだろうか。先ほどまでぐんと上がっていた目の前の少年の株が急下落する。
「とりあえず連絡してくれ。分かったな」
人の顔の前で人差し指を突き立てた後、ジャックはくるりとこちらに背を向け、ロロと何ごとかを話し込みはじめた。なんて強引な男なんだろう。ニノンは肩幅の狭い小さな背中に向かって思いきりべぇっと下を出してやった。
「協力のお礼に、こちらからもお前の手助けをするぞ。餞別だ。記憶を――ケンカうってるのか?」
振り向いたジャックの眉間に皺がよる。ニノンは舌を引っ込めて、ぷいとそっぽを向いた。
「本っ当に可愛げのないやつだな」
「可愛くなくって結構です」
「もっとこう、ニコッとしたり出来ないのか?」
「他の人にはしてるもん」
「じゃあ俺にもしてみろ!」
「い、や!」
取っ組み合いが始まりそうな二人の間に割って入るように、ロロはわっと叫んだ。
「ちょっと、ジャック! そんなことよりアレを試して、ニノンさんの記憶を蘇らせてみるんでしょう?」
ジャックはチッと舌打ちすると、ロロの手から小さな機械をふんだくった。何かを耳打ちされたロロは「じゃあ、あとはよろしくお願いします」と頭を下げて、そのまま梯子を降り展望塔から姿を消した。
「記憶を蘇らせるって?」
「言っただろうが。お前にも協力するって」
ジャックは細い金属製のヘッドホンのような機械を差し出して、頭につけるよう促した。おそるおそる手を伸ばし、ニノンは機械を受け取った。そのままカチューシャのように頭にはめてみる。空気のように軽くて、重さはまるで感じない。
「これで私の記憶が戻るの?」
「可能性があるってことだ。アガルタには様々な研究者がいる。いくつもの研究が同時進行で行われているんだ。それは数ある研究のうちのひとつで、人の脳波を意図的に切り換えるマシーンだ」
「脳波を? それと記憶になんの関係が?」
「人の記憶っていうのは、限りなく低い脳波の状態下で深い眠りから目覚めることが多い。例えば瞑想状態のΘ波、それよりもっと低いδ波――Hzが下がれば下がるほど効果は期待できる」
飛び交う単語は聞いたことのないものばかり。ニノンには理解はおろか聞き取ることさえ難しかった。ジャックは喋りながらもロロからふんだくったもうひとつの機械――マッチ箱ほどの大きさの四角いものだ――のつまみを弄っている。
「その中でも特に、記憶を呼び起こすのに特化しているポイントがあることが分かった。ゼロデルタ地点、と俺たちは呼んでいる。今からお前をその地点に誘ってやる」
「ゼロ……デルタ……」
やがてふわっとまどろみのヴェールが脳内を覆った。背後からゆっくりと、心地の良い力強さで意識を引き抜かれてゆくようだ。ジャックが何か喋っている。だがそれすらも聞き取れない。視界がぼやける。何も考えられなくなる――。
急激な眠気に抗うこともできず、ニノンはそのまま深い眠りの海へと沈み込んでいった。
*
足元に置いておいた黒の中折れ帽から少しばかりの金貨を拾い上げ、ニコラスは小さくため息をついた。
展覧会前とあって通りは多くの人で賑わっている。しかし、ニコラスのパフォーマンスに足を止める者はほとんどいなかった。それほど魅力に欠ける演目だったのかと、落ち込むほどの幼い精神力ではない。
ニコラスは奇妙に感じていたのだ。路上でパフォーマンスを行う人間はそうはいない。だから、通り様、人々が向けてくるのはおおよそ好奇心の目だ。なのにこの街で感じたのは、好奇心ではなく好奇の眼差しだった。
半分ほどしか中身の入っていないペットボトルは、日に晒されてひどく熱い。ぬるくなってしまったミネラルウォーターを喉奥に流し込んでいると、何かが膝の裏にどすんっとぶつかった。ニコラスはむせながら、足元を覗き込んだ。見慣れた栗色の柔らかい長髪が、乱れてぐちゃぐちゃになっている。
「なんだ、コニファーかい。いきなりびっくりするでしょうが」
「こんにちはー。ミドリさん」
コニファーはニコラスの膝に抱きつきながらにひひっと笑った。追うようにして、すぐ後ろから怒気を含んだベルの声が響く。振り向く間にコニファーは膝から引っぺがされてしまった。
「お買い物中は勝手に走ってどこかに行かないって約束でしょう! 言うこと聞かない子はもう噴水広場で遊ばせません。このままお家に帰ります」
「やだやだ、ふんすいで遊ぶの!」
パフォーマンスを披露していた広場の中央には、頭上に壺を掲げた三体の女神を模した立派な噴水が設置されている。噴水の中では幼い子どもたちが裾を捲り上げて水遊びを楽しんでいた。
駄々をこね続ける少女を見兼ねて、ニコラスはそっと小さな体を抱き上げた。
「私が呼んだのさ。遠くにいるこの子を見かけてね」
目元にたまった涙が、掬う前にぽろっと溢れて地面に落ちる。その途端、コニファーはわっとニコラスの首元に顔をうずめた。
「コニファーったら大慌てで走ってきちゃって。お買い物の途中だったんだね」
悪いことをしたわ、と謝ると、ベルはぶんぶんと首を横にふった。
「ほらコニファー、遊んどいで」
地面に降ろし、とんっと背中を軽く押してやる。コニファーは走り方を思い出した子犬のように、瞬く間に噴水へと駆けていった。
「偉いね、アンタ。ちゃんと子育てしてるんだもの」
ベンチに腰掛けながら、ニコラスは何気なく呟いた。湿気た風に黄緑色の前髪が揺れる。その向こう側に、似たような年代の子どもとはしゃぐコニファーの姿が見える。
「だってもうあの子の親はいないじゃない。だから、一番近くにいた私が親代わりになってあげなくちゃ」
ニコラスは少しだけ眉尻を下げた。
「エリオさんとは幼馴染み、だったっけ」
「そうよ」
ベルは何もないところをじっと眺めていた。
「小さい頃は私のあとをついて回ってばかりの頼りない男の子だった。馬鹿正直で、欲がなくて、自分のことは二の次で。いつも誰かの為になることばかり考えて、自分は損ばっかりしてたわ。本当にもう、心配でしょうがなくて……どうしようもないお人好しで、どうしようもなく優しい人だった」
胸につっかえていた重りが外れたみたいに、ベルは淡々と語りだした。ニコラスは隣で少し俯き、静かに耳を傾ける。
「エリオの良さは絵だけじゃない。彼と結婚したあの子は彼の描く絵に惹かれていたけれど、それだけじゃないの。どんな時だって誰かの為になりたいと願う優しさこそが、本当は……」
バシャン、と遠くで水の跳ねる音がした。噴水の中で男の子が尻餅をついてびしゃびしゃになっている。
「なのに、あの子は彼がもう絵を描く気がないことを知って、彼を捨てたのよ。そしてそんな彼を、あの人たちも見捨てたの。友人だと思っていたあの人たちも。エリオは孤独に耐え切れなかったの。宝物みたいに大切にしていたコニファーを置きざりにするほどに。せめて私にできることといったらあの子を守ることぐらいよ。エリオの大切にしていたあの子を――」
その時、隣でハッと息を吸う音が聞こえた。
ニコラスはふいと顔を横に向ける。
「私は……あの子をだしにしているのかしら……?」
彼女は、何か見てはいけないものを見てしまったような顔をしていた。
「エリオによく思われたくて、エリオの為に、私は、私はそんな、理由であの子を…………私……」
張りつめた表情を隠すようにベルは両手で顔を覆い、ウッと嗚咽を漏らして体を折り曲げた。
「私はそうは思わないけどね」
ニコラスは前を見据えたままきっぱりと言いきった。
「人の子を育てるって、そんなに簡単なことじゃない。アンタはあの子を独りにしておけなかっただけさ。あの子の淋しさに気付いたから」
それが私益の上に成り立っている行動だとしたら。一体どうして少女の笑顔はあんなにも輝くというのか。
「アダムのことをパパって呼んで慕ってるのだってきっと、寂しさを忘れようと気丈に振る舞ってるだけだろうさ。本当はあの子だって分かってる。父親が帰ってこないことぐらい」
バシャン、とまた盛大な水しぶきの音がした。今度はコニファーが服をぐっしょり濡らして、噴水の中で尻餅をついていた。周りの子どもたちと声をあげ、笑っている。
「子どもってのはさ、大人が思うよりずっと強い。だけど同じくらい弱いんだ。だから一人で歩けるようになるまで誰かが傍にいてやらなきゃいけない。アンタは護ってやりたいんだろう。私欲の為じゃなく、慈愛の赴くままにさ」
肩を震わせ声を殺し、彼女は泣いた。抑えきれない感情は時折呻き声として、地鳴りのように彼女の口から漏れ出た。ニコラスはたまらず小さなため息をつく。
「純粋な思いやりが人の心の中にあることを、アンタ誰よりもすぐ近くで見てきたんだろう?」
沈黙。遠くで賑わう子どもたちの声。
やがてベルは一度だけズッと鼻をすすり、その言葉に引っ張られるようにぐいっと顔を上げた。
「そう……そうね、そうだったわ。私は、あの人のそんなところに惹かれたんだもの」
涙でぐちゃぐちゃの頬を手の甲で乱暴に擦る彼女を見て、ニコラスはぎょっとした。
「こら、そんな擦り方したら目元が赤くなるでしょうが」
慌ててポケットからハンカチを取り出し、既に少しだけ赤くなっている目元をそっと拭いてやった。
「私のやり方は間違ってないかしら」
しばらくされるがままになっていたベルは、心許なさそうにそんなことを呟いた。
「間違いとか正解とか、そんなものはないの。愛に決まった形はないんだから」
「愛――」
と、小さな声が聞こえた。それからしばらく考え込んでいたかと思うと、ベルは思いついたように続けた。
「あなたはどんな愛の形をもっていたの?」
「さぁ、どうだったかしら」
もうずっと昔のことだから、と付け加えてニコラスは空を見上げた。抜けるような青空が視界いっぱいに広がっている。いつかあの場所で見た夏の空に、今日の空はよく似ていた。
「この、空みたいな感じだったかもね」
自分の愛はきっと、今も昔も変わらないこの青空のように、永遠に続いていくのだろう。
ベルは眉をひそめて首を傾げていた。ニコラスは小さく笑って立ち上がった。
「そろそろお姫様を迎えにいきましょうか。お風呂に入れてやらないと」
今や自ら体を水の中に浸してけたけたと笑っている少女を見て、ベルは声にならない悲鳴をあげた。そうしていつものように、怒気を含んだ声で少女の名を叫びながら、噴水に向かってずんずん歩いて行ってしまった。
少しの苦笑いを浮かべ、ニコラスはちぐはぐな大人と子どもを優しく見守った。彼女たちの愛が溝にはまりあって、孤独を包み込めばいいのにと願わずにはいられない。誰しもが持つ、優しい気持ちを彼女には信じてほしかった。孤独を生むような愛じゃなくていい。
陽射しを浴びてきらきらと光る水しぶき。いくつもの幼いはしゃぎ声。赤い瓦屋根の下、ぶら下がるいくつものペールグリーンのフラッグ。窓際に咲き乱れる濃い色の花々……。
街角に建つレンガ造りの家まで視線がいった時、ニコラスの心臓はクッと止まった。ある人影がさっと物陰に隠れるのが見えたのだ。
レンガ壁の先を凝視したまま、ニコラスふらふらと立ち上がった。そうして、まるで何かに取り憑かれたように影が消えた先へと急いだ。
まさかと思った。心臓が早鐘を打つ。見間違えるはずがない。
賑わう通りを無心で突っ切り、レンガ壁を足早に曲がる。急に日が陰った。薄暗く、細長い路地裏。その先に、細身のスーツに身を包んだ一人の男が佇んでいる。まさか。だけど。男はゆっくりとこちらを振り返る。
その存在を一瞬たりとも忘れたことなどなかった。
だから、見間違えるはずかないのだ。
「久しぶり、兄さん」
彼は生まれる前から一緒にいた、唯一無二の片割れなのだから。
 




