第67話 昼下がりのとある談義
まだてっぺんに登りきっていない太陽が、じりじりと石畳を焦がす。
昼中前。軒下に並ぶカフェのテラス席に男が二人、向かい合って座っている。地面からはゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。ジージーと暑さを助長するように蝉が鳴く。そこに混じるように、どこからかアコーディオンの陽気な音色が聞こえてきた。見れば、サスペンダー姿の子豚のような男性が向かいの通りを歩きながら楽しそうにアコーディオンを奏でている。
この暑い中ご苦労なことだ。ぼんやりと男を眺めながら、ロロは溶けかけのレモンソルベを口に運んだ。
「……暑すぎる」
口の中に広がる冷たさに感動していると、目の前で片肘をつきながらジャックは呻き声を漏らすように呟いた。本日二〇回目の文句である。
「ルーブルは一体何をちんたらやってるんだ。このままじゃあ脳が沸騰する人間がわんさか沸くぞ」
「それ、あんたがこのタイミングで旧式ヘリをぶっ飛ばしたからなんじゃ――」
「何か言ったか?」
「いえ、何も、ボス」
ソーダ色の瞳にじろりと睨まれてロロは思わず目線を逸らした。テーブルクロスの、鮮やかな赤色のギンガムチェックが目に入る。男二人が囲むには少々可愛すぎる気もする。
隣の田舎村、ミュラシオルに降りたってから何日経っただろうか。考えなしにヘリで突っ込んでいってから、彼女には――ニノンには下手な交渉しか出来ていない。「あのまま押せば首を縦に振っていた」としばらく機嫌を損ねていたジャックも、どうやら考え直したようで、しばらくは交渉材料を集めることに徹した。
今はこうして二人で再度交渉するタイミングを見計らっているところだった。
「でもジャック、電力価格の高騰なんてよくあることじゃないですか」
「ああ、間々あるな」
適当に頷いて、ジャックは目の前のチョコレートミントパフェを頬張った。
そう、今に始まったことではない。頻繁にとまではいかないが天変地異ほど珍しくもない。理由は様々だ。需要供給のバランスが読みきれていなかったこともあるだろうし、単純に還元率の低い絵画ばかりが収集されたからという理由の時だってある。それを市民は知らぬうちに肌で感じ取っているのか、もう慣れっこになってしまっているのか定かではないが、ちょっとの高騰や突然の停電を『異常』とは思わなくなっているのも事実だった。
「今朝のニュース見ました?」
やにわにロロは尋ねる。
「政府の計画停電発表だろ」
そうですと相槌を打ったところで、今朝二人で同じニュース番組を見ていたことを思い出した。あっと思ってジャックを見やると、彼は気にする風でもなくミント色のアイスにスプーンを突き刺しているところだった。ほっと息をついてロロは続ける。
「やっぱりどこかで大規模な電力消費があったんですかね。高騰期間はまもなく終了、その後計画停電に切り替わるって言ってましたし」
すると、向かい合った少年の口からくっくっと押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「な、なんですか」
「お前は実に馬鹿だなぁと思って」
「バッ……」
「馬鹿で阿呆だ」
「いや、そこまで言わなくても」
反論しかけたロロの眼前に、細長いスプーンが突き立てられた。ぐっと息を呑み、ロロは背中を逸らす。強い日差しにスプーンの先端がぎらりと光った。
「それじゃあ一般人と目線が同じだな。先日の威勢はどうした?」
「うっ」
「はじめは恐れる対象である事象でも、度重なれば日常になるだろう。だが異常は異常だ。そいつが擬態してるだけで、日常ではない。お前まで惑わされるなよ」
「す……すみません」
ロロは唇を食んで下を向いた。
ジャックの言うことはいつも正しい。この歳で〈アガルタ〉という巨大な組織を牛耳るのにはそれなりの理由があるのだ。並外れた実力とカリスマ性。飛び抜けた行動力にリーダーシップ。全てを兼ね備えた彼こそがリーダーに相応しいと、きっと誰しもが思っている。ロロだってその内の一人である。容赦ない厳しさにはたまに根をあげそうにもなるが、筋が通っているのでどうしようもない。
「AEP業界なんて所詮ただの第三次産業にすぎない。絵画においては大昔の石油・石炭発掘となんら変わりない」
「つまり、一次産業ってことですか」
「神格化しすぎだという話だ」
ニャア、と小さな鳴き声が足元から聞こえた。どこから寄ってきたのか、テーブルの下で茶トラの子猫が尻尾を揺らしている。
「たかだか人間の生業に神か何かを投影している阿呆が多すぎる。この世に永遠なんてない。機械はいつかは壊れるものだ。民衆は勘違いしている。そう思わないか?」
ジャックはパフェグラスに避けておいたミントを摘むと、足元にじゃれついている仔猫にぽいとその葉をくれてやった。くんくんとしばらく匂いを嗅いでいたが、やがてペロリと葉っぱを舐めると、仔猫はびっくりしてどこかへ逃げていってしまった。
「毒消しにはいいぞ」と言ってジャックは走り去る仔猫を見ながら笑った。ひどい男だとロロは思う。
「それって」
相変わらず揺らめく陽炎をぼんやりと眺めながら、ロロは呟く。
「エネルギーショックの残した産物なんじゃないでしょうか」
ジャックは視線をあげてそんなロロの様子を伺った。
「群集心理……とはまた違うのでしょうが、揃って与えられた視野の外に世界があることを知ろうとしないというか。世の中が変化を拒んでいるような気がします。良い意味でも、悪い意味でも」
言いながら、溶けかけたソルベの上をスプーンでなぞり、小さな三角形を描いた。
「どの世界にも多かれ少なれカーストのようなものは存在します」
ロロは更に真ん中に横線を一本入れ、三角形を上段と下段に分けた。
「現在最上位に位置するのはフランス政府及びルーブル発電所ですよね。その下に位置する一般市民のほとんどには不満や反発心が存在しない。フランス政府の掲げる「効率化を図る生き方」を良しとしている。――それはひとえに、人類が今以上を望まないからです。皆……地獄を味わった世代から今まで皆、そうやって生きてきたんです」
だけど、とロロは言葉を切る。
「それが、僕には分からないんです。誰かが作った箱庭の中で決められた通りに生きていくなんて耐えられない。リスクを恐れ、洞窟の中で一生涯を過ごす。そうやって生きて、息をするようになんということなく死んでいくんだ。外にどんな美しい景色が広がっているのか知ることもなく。そんな人生僕は嫌です。彼らの本心はどうなんでしょう。僕の考えはやっぱりおかしいんでしょうか」
マイノリティな思想はいつだって社会の荒波にさらされる運命にある。
過去、逆境に立ち向かい死んでいった偉人たちに思いを馳せた。彼らも同じ劣等感を感じていたのだろうか。どうにもならないもどかしさ、世界の大きさ、己のちっぽけさに悩んだのだろうか。
こんな時師匠がいてくれたら、などと無意識に思ってしまう。そんな自分の弱さにロロは嫌気がさした。
「自ら考えることを放棄した人間はただの操り人形だ」
ジャックはおもむろに言った。
「主遣いの導かれるままに生きて、死んでいく。俺だってそんな人生は最高につまらないと思うがな」
はっと息を呑み、ロロは顔を上げた。ジャックはにやりと口角を上げて笑っている。
「心配するな。お前だけじゃない。俺はそういう変人じゃなきゃアガルタには残さん」
「ジ、ジャック……」
「だがお前はもう少ししゃっきりしろよ。うじうじするな。周りのことも気にするな。己の考えに自信を持て。あんまりぐだぐだ言ってるようならアガルタから摘まみ出すからな」
眼鏡の奥に輝く瞳を払いのけるように、ジャックはぴしゃりと言ってのけた。
「は、はい!」ガタガタと音を立ててロロは席を立つ。「僕、頑張ります――」
その時、突然、ロロの腰辺りからけたたましいデジタル音が鳴り響いた。ぎょっとして、慌ててポケットから機械を取り出す。
「ε波が反応してる!」
それは手でつかめるサイズの黒っぽい機械で、表面に大きなディスプレイの付いたものだった。テーブルに置くとほどなくして音は止まった。
「どれ」
ぐいっと顔を近づけて、二人は画面上のグラフをしげしげと眺めた。画面に表示されているのはXY軸を基準とした簡素なグラフだ。その中央を、ほとんど動きのない横線がずっと続いている。だがある一点を境に、まるで隆起の激しい岩山のように著しく上昇しながら波打っていた。
「アジャクシオで見た反応と同じです。いや、それどころか今の反応の方が数段激しいですよ」
ロロは何やら画面を操作して詳細を調べ始めた。素早い動きでタップを繰り返し、やがて、がばっと顔を上げた。
「発現場所は一・五キロメートル先。方角は西南。ちょうど、ミュラシオルの辺りです」
「だろうな」
ジャックはにやりと笑っておもむろに席を立った。
「あ、ちょっと、ジャック――」呼び止める間もなくジャックはすたすたと店を出ていってしまった。「ああもう……! すみません、これ、お会計置いておきます!」
言うや否や、適当にポケットから探り当てた小銭を卓上へと叩きつける。「またおいで」という間延びした男の声をすり抜けて、ロロは慌てて男の背中を追った。
アジャクシオであの不思議な反応を目の当たりにしても、ロロ自身未だに半信半疑だった。偶然かもしれないと思っていた。
だけどこれではっきりした。ミュラシオルなんて片田舎で、アガルタの追っている反応が偶発的に発生するわけがない。
前を行くジャックにようやく追いついた。ロロは息を整えて、隣に並ぶ。まだ微かに、後ろの方でアコーディオンの音色が聞こえていた。
――ニノン・ベルナール・ド・ボニファシオ。
彼女について知ることはきっと、アガルタの探し求める「新たなる技術」への第一歩に繋がることだろう。それはロロの夢でもあり、ジャック率いるアガルタの目標でもあり、次の世界へ繋がる偉大な発見なのだ。そう信じているのだ。
「ジャック」
普通に声を出したはずだったのに、微かに震えてしまった。ジャックは少しだけ首を傾げてロロを見る。
「繋げましょう、このチャンスを」
「それは俺の台詞だ」
肘で小突かれ、ロロはすみません、と頭を下げた。
静かな興奮で肌が粟立っていた。何かがようやく始まりそうな、そんな胸の高鳴りが消えなくて、ロロは一人拳をぐっと握りしめた。
*
カラカラン、と乾いた音が室内に木霊した。
洗浄液の調合をしていたニノンは、顔を上げて音のした方を向いた。床に絵筆が転がっていた。机に並べてあった筆が何かの拍子で落ちてしまったようだ。
「休憩しよっか?」
筆を拾いながら、ルカは「大丈夫だよ」とだけ答えた。彼の顔に疲れは見えないが、この暑さである。熱中症にでもなって倒れられては困る。
すっかりぬるくなってしまった水をコップに二つ分注ぎ、一方をルカに手渡した。もう片方のコップに口をつけながらニノンが何気なく絵画を覗き込んでいると、
「絵には、画家の心の状態が表れやすいって言われてるんだ」
急にルカがそんなことを言いだした。
「どういうこと?」
「昔々に発行された書籍に載ってた事例なんだけど」
そう前置いて、ルカは記憶の片隅に残る本のページをめくるように言葉を続けた。
とある国に、猫好きの画家がいた。彼は毎日毎日猫の絵ばかりを描いていた。猫の絵は世間からも好評だったから、自ずとそうなったのかもしれない。
それから何年も過ぎ、彼はやがて病気を患った。心の病だった。それでも彼は猫の絵を描き続けたのだという。
「だけどその猫の絵は、病気を患う前の彼の絵とは全然違うものだったんだ。猫なのか、なんなのか、分からない。現実と幻想が入り混じったような、複雑な模様が印象的な……抽象画のような絵だったらしい」
空になったコップを机に置いて、ルカは続ける。
「それからまたある国では、多彩な色彩を用いるのが得意な画家がいた。彼もまた何かの理由で心を病んで、それから徐々に、彼の絵から色が消えたんだ。晩年、彼の遺した絵画は全てモノクロだった」
「それって――」
エリオによく似ている、と思った。しかしルカはニノンが言葉を発するのを遮るように「エリオさんは」と言った。
「そうじゃないかもしれない」
「え?」
言葉の意味を測りかねて、ニノンは思わず首を傾げた。
すると、ルカはそばに置いてあった小さなガラスの容器を手繰り寄せ、その中にある小さな試料片――絵の具の欠片をピンセットでつまみ上げた。
「削り取った絵の具を縦に切ってみたら、どんな層でその絵が構成されてるのかが分かる」
ニノンはあっと声をあげた。彼が何を言わんとしているのか分かったからだ。
「黄色の絵の具が混じってる」
ルカは静かに頷いた。
「もともと鮮やかに描かれていた絵を、エリオさんはどうしてかモノクロに塗りつぶしたんだ」
つまんでいた試料片をガラス容器に戻して、ルカはピンセットを机に置いた。
「この絵を描いている途中で心の病を患って、それで黒く塗りつぶしちゃったってことは?」
「それもあるかもしれない。だけど、それだとおかしいんだ」
「おかしい?」
ルカは宙で手を横にスッと三度、動かした。まるで三層のラップを重ねるみたいな動きだ。それから真ん中の層を指してこう言った。
「色の層とモノクロの層の間にワニスが塗ってある」
ワニスは通常、完成した絵画の保護やツヤ出しを目的として塗布されるものだ。だとしたら、一度完成した絵に手を入れたということだろうか。そうまでしてモノクロに塗りかえる意味とは――
「だけど、X線を当ててみてもどこにも画家のサインが見当たらなかったんだ」
「ええと……それは、完成してないのにワニスを塗ったってこと?」
ルカはその問いにどう答えようか考えあぐねているようだった。だがすぐにニノンを見やった。
「『塗りつぶした絵具層』と『もともとの絵具層』を明確に分ける為に塗ったんだろうと思う。上の層を綺麗に取り除けるように、中間層にワニスを塗って細工をした。――つまりエリオさんは、修復を前提にこの絵を描いたってことだよ」
白と黒の二階長が意図的なものだとしたら。
画家の真意が、自分たちの考えるものと全く別物だったとしたら。
ニノンは横たえられた絵画に目をやった。つられるようにしてルカも絵画を見た。
「エリオさんは、病んでなんかいなかった?」
ぽつりとニノンが呟いた時――玄関のドアを激しくノックする音がした。二人は揃ってそちらに首を回す。
玄関口に向かう間もなくドアは無遠慮に開かれた。
「数日ぶりだな、ニノン・ベルナール。もう一度話をしに来た」
「ど、どうも。お邪魔します」
訪問者の姿を認めた瞬間、ニノンの表情が僅かに険しいものになった。そこにいたのは自信たっぷりな態度のジャックと、遠慮がちに背を丸めるロロだった。
背後でルカが立ち上がろうとする気配がする。ニノンはそれを手で制すると、ぐっと目に力を込めて彼らに数歩近付いた。
「私が話す。この人、私に用があるんだもん」
「ニノン、でも」
「大丈夫」
ルカの言葉を遮ってニノンは振り返り、ニッと笑ってみせた。
「ルカの邪魔はさせないよ」
ルカの眉が少しだけぴくりと動いた。誰にもわからないくらいの微妙な動きだった。だが、ややあって表情が緩んだかと思うと「分かった」と小さな声が聞こえた。そして「そっちは任せるよ」とも。
「うん。任せて」
守られるだけの女の子じゃ嫌だ。
誰かの為に何かできるような人間になりたい。
喉からせり上がってきそうなオレンジ色の感情を押さえつけ、ニノンはしっかりとした足取りで小屋を後にした。




