第66話 オニキス・インパスト(2)
画家は完成の印として自身のサインをどこかに残す。作家が物語の終わりに〝了〟と記すように。
だがこの絵にはそれがない。
つまり未完成なのだ。
こんなにも大きなキャンバスに、得意とする色も使わずに、巨匠と呼ばれた男は一体何を残したかったのだろう。
「やっぱりあいつらの言った通り、エリオは心を病んじまってたのかな」
深刻なアダムの声を、ルカは隣で静かに聞いた。
「あいつらって?」
「カヴィロとシャルルさ」
ニコラスが訊ねると間を置かずにアダムはそう言って、ぐいっと鼻をこすった。
「こいつとバルで晩飯食ってた時に、ばったりあいつらと出くわしてさ。それで、聞いたんだよ、俺」
昨晩のぬるい夜風を、バルが一番賑わいをみせる時間帯のことを、ルカは思い出していた。
*
「エリオと一体何があったんだよ」
そのたった一言が、四人の囲む一卓を取り巻いている時間を止めた。辺りが水を打ったように静まり返る。
沈黙。それも、たいそう気まずい部類の沈黙だ。
やがて背後の遠くの方で、酒盛りに興じる人々のざわめきがどこか違う世界の出来事のように聞こえてきた。
「そんなこと知ってどうする」
と、カヴィロは鼻で笑った。まるでたしなめるような物言いに、アダムの眉が僅かに歪んだ。
「気になるからだよ。昔会った時とどこか違うあんたたちが。今は、なんていうかさ……ぎこちないっつーか、他人行儀っつーか」
「ああ。そういうことだったら気にするな」
「大したことじゃあない」
口々にそう言って、カヴィロとシャルルは酒を飲みほした。軽く話を終わらせるつもりなのだろう。少しばかりの笑い声さえ漏らしながら。
その時、ダンッと音を立ててアダムの両手が机を打った。
「なんで? 俺がガキだから?」
しんと空気が静まり返る。
再びの静寂。誰も、まばたきさえしない。アダムの琥珀色の瞳に真顔に戻った男たちの顔が映り込んで、そこに重なるようにランプの光が揺らめいた。
「大したことじゃないって……大したことだろ」
抑えきれない感情に、アダムの声が震えている。
「だってあんたらは何も知らねェんだから」
「アダムっ」
ルカは思わず口を挟んだ。彼の言わんとしている言葉を察したからだ。それを今この場で言ってしまっても良いのか――考えあぐねる間もなく、憤りを背負って前を見据えたままの少年に、手で言葉の続きを制されてしまった。
「エリオがこの一年アトリエに引き篭もってるって? ハッ、違うね」
アダムは吐き捨てるように言った。
「死んだんだよ、エリオは。もうずっとずっと前に!」
二人の目が一瞬驚いたように見開かれた。それはすぐに元の大きさに戻ったが、そのまま少年をまじろがずに見返している。アダムも負けじと力強い眼差しを二人の男に向けている。
ベルがひた隠しにしていた事実はあっけなく明るみに放り出されてしまった。
隠していたのにはきっと理由があったに違いない。おそらくプライドだってあっただろう。だとしたら、無理にでも口を塞いだ方が良かったのか――過ぎたことを考えても仕方がない。ルカは早々に考えることをやめて、彼らをじっと見守ることにした。
「それは……知らなかった」
鉛のように重たい空気を掻き分けて、口を開いたのはカヴィロだった。
「だけどな、驚かないよ。俺たちは」
「なんで!」
「――あいつは心を病んでいた」
立ち代わり答えたシャルルの言葉に、アダムは絶句したようだった。病んだって、と震える声で繰り返す。
「お前と初めて出会ったのはたしかカルヴィだったな。あの町を出た後、俺たちはミュラシオルに帰ってきた。それから三人でなんとか金を掻き集めて、小さなアトリエを作ったんだよ」
ルカの頭の中にはすぐに、壁に掛けられた珍しい時計やカラフルな布や置物が思い浮かんだ。初めて足を踏み入れた時、まるで子どもたちの作った秘密基地のような場所だと思ったのを覚えている。
「はじめは三人でスタートしたアトリエだった。それが大学時代のクラスメートや人づてに噂が広まって、興味を持った奴らが集まるようになった。多い時は両手で数えきれないくらいいたんだっけな」
指折り数えるような仕草を見せて、カヴィロは懐かしげに微笑んだ。
「その集まった中の一人にある女がいてな。小柄で線の細い、大人しい子で、その子はエリオのことが好きだったんだ」
コルシカ島唯一の大学、パオリ学園。そこには絵画を学ぶ学科がある。エリオたちは皆その科の学生だった。もちろん、女性も卒業生のうちの一人だった。
普段大人しい割に自分からアプローチをかけたり積極的に動く彼女に対して、エリオも満更でもない様子だったという。日常のほとんどをアトリエで過ごす中で、二人が恋人同士になるのはごく自然なことだったのだろう。そういった関係になるまでに時間もかからなかった。
「それから数年経って、二人の間に子どもができた」
おそらくコニファーのことだ。
「そりゃ驚きもしたが、俺たちはみんなで祝福したんだ。せまいアトリエにちんけな飾り付けなんかして、料理や酒を持ち寄ってな。絵筆やパレットは全部しまい込んで、その日は夜通し騒いだもんだ。その後すぐに二人は籍を入れて夫婦になったんだが」
「……だが?」
弱々しく光っていたランプがついにチカッと点滅した。
「しばらく経った頃からあいつの――エリオの様子がおかしくなってきてな」
「どういうことだよ」
アダムがイライラした声で聞き返す。
「それまで意欲的だった絵画の制作が、まるでエネルギーが切れたみたいにぱったりと止まったんだよ」
「は? どうして」
「さぁな」
言いながらカヴィロは体を捻り、通りすがりのウェイトレスに酒の追加注文をした。アダムは腑に落ちないといった様子で眉をしかめてじっと彼らを眺めている。
その頃のエリオは既に、巨匠として世に名を馳せていたはずだ。描けば描くだけ絵画は高値で取り引きされただろう。守るものが増えた今、もっと盛んに活動したって良いはずだった。
なのに何故?
「分からなかったよ。どれだけ話を聞いたって。あいつの頭の中がどうなってるのか、結局俺たちには分からなかった。――だから俺たちはアトリエを出ることにしたのさ」
「アトリエを……」
最後まで言葉を続けることができずに、アダムはうんと黙り込んでしまった。すると、
「俺たちは新たな拠点をパリに置いた」
珍しくシャルルが口を開いた。
「仲間の士気も下がっていた。環境を変えるのは必然だったと言える。パリを選んだのは、そこが技術の集約する世界の中心で、常に刺激が飛び交っている場所だったからだ」
「それが今、シャルルさんたちの経営している『共同アトリエ』の原型なんですね」
「ああ、そうだ」
言葉を継いだルカに、シャルルは静かに頷いた。
パリの街を背に、ぎこちない笑顔を浮かべている二人の写真を見たのはつい先日のことだ。修復依頼を受けた絵画に同封されていたパンフレットの表紙。そこにエリオの姿はなかった。
「パリでの活動が軌道に乗りはじめてしばらく経った頃、風の噂でエリオが妻と別れたことを知った。その頃にはもうあいつはほとんど心を病に侵されていたんだろう。神に愛され才を与えられた男が、絵さえ描けなくなるほどに」
カヴィロは運ばれてきたビール瓶に口をつけた。しかし少し飲んだところでもういらないとでも言うように、タンッと音を立てて瓶を卓上に突き戻した。
そして、何も映っていない瞳でどこか遠いところを見つめながら、ひっそりと呟いたのだった。
「そうか、あいつ、死んじまったのか」
*
真っ黒に塗りたくられたひまわり畑を、誰もが何を言うでもなくただじっと見つめていた。
分厚い絵の具層はからからに乾いた大地のようにひび割れている。乾燥もままならないまま中途半端に放置されていた為だろう。ルカは割れた溝を、指の腹で確かめるようにそっとなぞった。
「エリオさんが何に苦しんでいたのか、きっと本当のことなんて誰にもわからないけど。ひとつ言えるのは、この絵画にとって今の状態はよくないってことだけだ」
人の心はいつだって難しい。マーブル紙みたいに、人の気持ちなんて紙を水面に浮かべる度に模様が変わってしまう。
ルカが今出来ることといえばやはり、絵画を修復することだけなのだった。
「頼んだぜ、修復家」
ルカの両肩を、アダムはしっかりと掴んでそう言った。
見上げれば琥珀色の瞳が、深刻な色を湛えてこちらに向けられていた。アダムは随分と息を溜め込んでから「ほんっとに、恩にきる」と言ってゆるゆると頭を垂れた。両肩を掴む手にぐぅと力が入って、少し痛い。
その手をそっと剥がして、ルカは頷いた。そうして揺らがぬ瑠璃色の目を絵画に向けた。
孤独を思わせる大輪の花畑。オニキスのインパスト。
それらは悲しみにも、沈黙にも、反抗にさえも見えてくる。それは物言わぬ絵画の助けを求める叫びなのか。本当は意味なんかなくて、ただ人間の脳が意味を見出したいと感じているだけなのかもしれない。
どちらだとしても関係ないとルカは思った。
どちらにしたって、自分に出来ることはひとつしかない。
「俺が責任もってこの絵を治すよ、絶対に」
*
あれから四人はそれぞれの作業に戻った。アダムは展覧会に出展する絵画を完成させると意気込んで、しばらく二階の部屋に引き篭もることを決めたようだ。ニコラスは展覧会目当ての観光客をターゲットに、路上パフォーマンスを披露する為ヴィヴァリオの町へと向かった。
一旦ベルの家に戻ったルカとニノンは、ベルに事の詳細を話した。展望台で鍵を拾ったこと。エリオのアトリエで製作途中の絵画を見つけたこと。損傷が激しいので修復をしたいこと。
アトリエの倉庫に未完成の絵画がまだ残っていたことを彼女は知らないようだった。それよりも勝手に倉庫内を詮索したことに苦い顔をした。
「――でも、修復の許可が下りて良かったね」
机の上に使い古した布を広げながらニノンは言った。先日まで修復作業場として使用していた部屋だから、軽く準備を整えるだけですぐに作業に入れそうだ。ペン式ライトのスイッチをカチカチやりながら、ルカは相槌を打つ。
「あの時、ダメって言われるかと思った」
出会った当初に比べれば随分とマシになったのだろうが、それでもベルの顔には未だに警戒心が薄っすらと浮かぶことがある。過去に色々あったのかもしれない。世界から注目される画家の立場に立ったことがないから、想像さえできないが。それをいつも近くで見ていたのはきっと彼女なのだ。
「コニファーのおかげだね。『綺麗になったパパの絵が見たい』って、真っ先に駆け寄ってきてくれたんだもん。ベルさんもそれで許してくれたのかも」
机の横に筆や綿棒などを並べ終えたニノンは、こちらを振り返って「これでいい?」と訊いてきた。「うん、大丈夫だよ。ありがとう」と、敷かれた布の上に慎重に絵画を横たえながらルカは頷く。ニノンは照れたように笑って、水を汲むためバケツを手に外へと出ていった。
バタンと音を立てて閉まったドアをルカはしばらく眺めていた。窓から流れてくる風は昨日より涼しげで、だけど蝉は変わらずジージーと忙しく鳴いている。
はじめは絵画の〝か〟の字も知らなかった少女が、今では修復作業の助手をこなすまでになっていた。作業中、ニノンが臭いや汚れに嫌な顔をすることは一つもない。工房出のルカにとって人手が増えるのはありがたいことだった。
「……よし、やるか」
眠気を覚ますようにルカはぶんと首を一振りした。後ろ腰で結んだエプロンの紐を結わえ直し、気合いを入れて集中する。蝉の声がぼんやりと遠くなる。肌に纏わりつく暑ささえどこかへ逃げていくようだ。
横たえられた大きな大きな絵画を前に深呼吸をひとつ。そして、一度、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします。エリオ・グランヴィル画伯」




