第65話 オニキス・インパスト(1)
翌日、ルカ達は揃ってエリオのアトリエ内にある古びた扉の前に集まった。
ポケットを漁るニノンの隣で、アダムが扉の窓を覗き込んでいる。曇りガラスにいくら顔を近づけたところで中の様子が見えるはずもないのだが、それでも少年は顔をへばりつかせたり背伸びしたりして、なんとか中の様子を伺おうと躍起になっている。
「アダムちゃん、ちょっと落ち着きな」
見兼ねたニコラスが呆れた口調で諭した。
すると、ちょうど鍵が見つかったようで「あったあった」とニノンは平べったい金属片のような鍵を持ち上げた。
「この鍵だよ」
〈保管室〉と書かれたシールが、今にも剥がれそうになりながら頼りなく表面にくっついている。
「おい、早く開けろって」
言いながら、アダムはニノンを肘で小突いた。はやる気持ちを抑えられないといった様子だ。そんな彼を、鬱陶しそうにニノンの瞳が見返す。
「もう、分かってるってば。今開けるよ」
――きっかけは今朝。揃って朝食を食べている時のことだった。
「結局仲直りしたんだね」
口に咥えた野菜スティックでアダムとルカを交互に指しながら、ニコラスはにやりとした。
「まぁな。ただの喧嘩だしよ。ま、仲直りっつーか」
尖らせた口をすっ込めて悪い笑顔を浮かべたアダムは、小ぢんまりとパンを食んでいたルカの肩を大げさにばしんと叩いた。
「そもそも俺ら仲良いもんなぁ、ルカ?」
「え?」
「え!」
驚いた拍子にアダムの右膝がテーブルを蹴り上げた。アダムは短く悲鳴をあげた後、ぶつけた部分を抱えてうずくまった。
「ごめん、嘘だよ」
申し訳ない顔をしつつ少しだけ笑ってそう言うと、あたりめーだろと小さな呻き声が返ってきた。
「でも良かったねアダム。許してもらえて」
「ニノンてめっ、俺が一〇〇%加害者みたいな言い方しやが――」
がんっと二回目の鈍い音がしてまたもや机が揺れた。もう机の高さを忘れてしまったのだろうか。アダムは先程と同じ右膝を抱え込んで「あー」とか「くそー」などと誰に向けるでもなく悪態をついている。その様子がおかしくて、三人は笑った。しばらくムスッとしていたアダムもつられるようにして笑った。
「あ、そうだ」
ひとしきり笑い終えたところでニノンが何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば私、数日前にエリオさんのアトリエにある展望台で変な鍵を拾ったんだった。ほらこれ」
「なんだって?」
薄汚れた鍵を見るなりアダムは盛大にむせ込んだ。そして顔をしかめるニノンの手から鍵をひったくり、表面に張り付けられたシールを見て瞳を輝かせた。
コニファーの宝物。父・エリオが遺したという絵画。ニノンの拾った鍵が、それを仕舞ってある部屋のものかもしれないと思ったのだ。
「錆びてて、なかなか……あ」
開いた、とニノンが言うより先に、アダムは扉を乱暴に押し開いて部屋の中へと飛び込んでいった。師匠の形見とも言うべき遺産が見つかるかもしれないのだ。彼が焦るのも無理はない。残された三人は目を見合わせ、肩をすくめた。
中に入るなりルカはうっと顔をしかめた。
「ひどいにおいだな」
乾かしきれていない油絵特有のにおい。古い埃のにおい。いろんなにおいが混ざりあって部屋じゅうに充満している。
口元を手で押さえつつ、雑然とした部屋を見渡した。そこらじゅうの壁沿いに大小様々なキャンバスが裏返しになって立てかけられている。本棚の前の何も置かれていない大きなイーゼル。机の上に散乱している、使い物にならない平筆や使いきって丸められたチューブ型絵の具。床の上にはたくさんのスケッチブックが直積みされていて、モグラの掘り返した土の跡のように山になってあちこちに散乱している。
保管庫というよりも、これじゃあただの倉庫だ。
スケッチブックの山のひとつから一冊を拾い上げたルカは、埃を手ではらうとそっと表紙をめくってみた。中はエスキースばかりのようで、鉛筆でラフにスケッチされた風景や人がいくつも描かれている。
「……?」
何かが挟まっている。ルカはもう一枚ページをめくってみた。
黒い封筒だ。裏返してみると、右下に小さく金の箔押しが施されている――〈親愛なるエリオ・グランヴィル先生〉。
「こんなところに本当に彼の描いた未発表の作品なんてあるのかい?」
ふいに疑った様子のニコラスの声がした。ぱたりとスケッチブックを閉じて、ルカはそちらに目を向ける。
「彼くらい有名な画家の作品なら、盗難に遭ってたっておかしくないけどね」
裏返しになっているキャンバスを覗き込みながらニコラスは続ける。
「ここにあるのは未使用の、真っ白なキャンバスばかりみたいだし」
「いや、そんなはず――」
何か反論しようとしたのか、アダムは大きく振り向いた。その際に手にしていた大きなキャンバスが滑り落ちてしまい、あたりにごっそりと埃が舞い上がった。
「うわっ、ちょっと! 何やってんだいまったく」
すかさず口元を押さえ、ニコラスは眉根を寄せた。
「こんな、きったねェ部屋に、誰かが入り込んだ痕跡なんてあるかよ!」
げほげほと咳き込みながら、息も絶え絶えにアダムは訴える。
「世間では、エリオはまだアトリエにこもって絵を描いてることになってんだ。存命中の画家の家に盗みになんて入らないもんだろ?」
彼の主張が正しいかどうかはともかく、エリオの絵画がどこかに隠されている可能性が高いことにはルカも同意した。この部屋に足を踏み入れた瞬間に感じた強い油の臭いは、おそらくろくに乾燥もせずに暗所に保管された絵画からくるものだろう。そんなに広い部屋でもない。他に探していない場所といえば――と、あたりをぐるりと見渡した時だった。
「ここから何か、感じる」
背後でニノンが静かに呟いた。彼女は壁と本棚の間を指差し、仄暗い眼差しをその隙間へと向けている。
二人掛かりで本棚をずらしていくと、本来そんな隙間に置かないであろうはずのものが顔をのぞかせた。
「ビンゴだぜ……ニノン」
アダムはごくりと生唾を飲み込んだ。出てきたのは、布に包まれた大きな絵画だった。
慎重にイーゼルへと立てかけられた絵画の横幅は、一般男性の肩幅三人分をゆうに超えている。四人は揃って目配せした。それを合図に、アダムが布に手を掛ける。布はゆっくり取り払われ、やがて巨匠の遺した絵画の全容が姿を現した。
その絵を認めた瞬間、誰もがあっと息をのんだ。
「何だこれ……」
驚きに表情を歪めたまま、アダムはぽつりと漏らす。
「真っ黒じゃねェか」
灰色の空に流れる白い雲。
そのたもとに広がる、画の端から端まで続く真っ黒な空間。
だがよくよく観察してみると、黒い空間は単調な塗りつぶしではないことが分かる。凸凹とした黒い絵の具の隆起がひしめきあっている。チューブから捻り出した絵の具を、そのままパレットナイフでキャンバスになじりつけたような、彼の手法ではあまり見かけない荒々しいインパストだ。絵の具の盛り上がりはある一点から八方に広がるように伸びており、まるで大輪の花のようにも見える。それらが無数に集まって真っ黒な空間を作り出している。
空の下の真っ黒な絨毯。大輪。妙な既視感。何かに似ているとルカは思った。
そう――まるで天空のアトリエから見た、蕾のままのひまわり畑のようだ。
「こんな真っ黒な絵、普段のエリオなら描かないぜ」
アダムの横顔が引き攣っている。
その理由にならルカも心当たりがあった。
『どうして彼の絵画はAEP還元率が高いのか。』
専門誌では評論家が幾度も見解を重ねている議題だ。構図、デッサン力の高さもさることながら、その最たる所以は色彩だろうと自信たっぷりに述べる記事を、いつかどこかで見かけたことがある。
その色彩は、木枠と布地からできたちっぽけな世界の中に〈幸福〉を創り出す。さながら〈魔法〉のようなのだ。だとすれば彼は現代の魔法使いであろう。幸福の魔法が織り込まれた絵画は往々にして還元率が高いのではないか――というのが、その記事の大筋の流れだったように思う。
だがしかしこの絵画はどうだ。
てらてらと光る黒のインパストは、不安や悲愴感を煽ってさえくるようではないか。
「ニノン? 何か感じるのかい」
彼女の異変に気付いたニコラスが心配そうに眉を歪めた。
「この絵が」
ニノンは吸い寄せられるようにして絵画の前に立った。
「何か伝えようとしているの」
ゆっくりと右手が伸ばされる。やがてその手が絵に触れた時――びくりと少女の肩が浮いた。
「ニノン!」
目の前でニノンがよろめいたのを見て、ルカは咄嗟に彼女の肩を支えた。だが彼女の肩に手が触れた瞬間、得体の知れない衝撃に襲われて思わずルカも仰け反った。
「おい、ルカ!」
「う……」
何かが凄まじい勢いで脳裏に流れ込んでくる。頭の奥がズキズキと痛む。目を瞑れば、まぶたの裏側を流れ込んでくる何かが――ノイズがかった白黒の、断片的な映像がいくつも映し出されては消えていった。ノイズが酷くてそこに誰がいるのか全く分からない。それでも懸命に、眼の芯の部分にぐっと力を入れて、乱れた映像に目を凝らした。
男だ。男が数人いる。絵筆を持っている。キャンバスにどこかの風景を描いている――彼らは画家だ。それから小さい女の子。ぶかぶかの麦わら帽子を被って走り回っている。がらくたの散らかった部屋。揺れるひまわり。見知らぬスーツの男。女。女は笑顔で手を振っている。両手一杯にひまわりの花束を抱えながら。
移り変わる速度がどんどん速くなる。やがてノイズが酷くなり、砂嵐でいっぱいになった時、ルカは思い至った。
――これは、ニノンが視ているイメージなのか?
バン、と突然砂嵐が消えてあたりは真っ暗になった。
しかし次の瞬間、二人は今しがた目にしていた絵画の風景の中に立っていた。
オニキスのように黒光りするひまわりが無限に咲いている。ただ一色の灰色で塗りつぶされた空。一切の希望を吸い尽くしたような、風も温度も無い世界。なんて寂しい場所なんだろうと、ルカは思った。
空を見上げていると、隣に立つニノンがぎゅっと手を握ってきた。ちらりと横目で伺えば、少女の目線はじっとまっすぐ花畑の向こう側を見据えている。倣ってルカも視線を前に向けた。
視線の先に広がる漆黒のひまわり畑に、一人の男が立っていた。
男は作りもののような微笑みを湛えている。量産されたレプリカの銅像のようで、少し気味が悪い。
男はしばらくじっと佇んでいたが、やがてこちらに向かってゆっくりと手招きをした。二人は手を繋いだまま真っ黒いひまわりを掻き分けて進んだ。傍によけるたびに、ひまわりは乾燥したバリバリといった音をたてながら崩れていった。
そうして二人が男の前までやってくると、男は中身のない笑顔を一層深くして、瞳から赤い血の涙を流した。涙は男が手にしていたスケッチブックにぼたぼたと垂れ落ちる。涙が枯れてしまうと今度はそのスケッチブックをおもむろに胸の前で掲げてみせた。
『aiutu』
血の涙が五文字のアルファベットを造っていた。
二人はハッと息をのみ男を見た。男は最後に一層微笑んで、血にまみれた目を糸のように細めた。ひまわりや空が、古くなった絵の具層が剥がれるようにボロボロと崩壊していく。瓦礫のように降りそそぐ孤独の世界の欠片が、いつまでも崩れない男の笑顔をのみ込んだ。
「…………、……おい、大丈夫か!」
「――う」
激しく揺さぶられる感覚に意識が引き戻される。ルカは目線だけをさまよわせて辺りを確認した。ここは保管部屋だ。淀んだ油のにおいもする。やはり、先ほど立っていたあの場所は絵画のイメージの中だったのだろうか。思い出そうとするとズキンと頭の奥が痛んだ。
「どうしたんだよ、おい、ルカ」
耳元で響くアダムの大きな声を手でやんわりと退けながら、ルカはふらふらと絵画に近付いた。
「修復しないと」
「――あ?」
もう触れても何も訴えてこない大きな絵画から目を逸らして、振り向いた。
「この絵が泣いてたんだ」
一層難しい顔をしてアダムは「はぁ?」と声をあげる。ニノンの感じた絵画のイメージがどういう訳か体を伝ってこちらにも流れてきたのだと説明してみたが、ますますアダムの頭上には「?」が浮かぶばかりだった。
「つまりどういうことだ、お前にも変な力があったって?」
「そうじゃない」
おそらく、イメージを視ることができたのはニノンの力のおかげだろう。
「理由は分からない。でもとにかく、さっき見たものが絵画の訴えだとしたら、俺はこの絵を修復しなくちゃ」
ニコラスに肩を抱かれていたニノンはゆっくりと体を起こし、確かめるようにひとつ頷いた。
「治してあげて、ルカ。エリオさんが本当に伝えたいこと、私まだ汲みとってあげられてない気がするの。絵の不安定さが邪魔してるんだよ。だからお願い、ルカ」
深く頷いたルカの瞳には、代々続く修復家の炎が灯っていた。
 




