表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コルシカの修復家  作者: さかな
8章 孤独に咲くひまわり
75/206

第64話 和解

 ヴィヴァリオは山間の町の中では比較的人口の多い大きな町だ。だからこの町の夜は、本来ならもっと光が賑やかなはずだった。

 日が暮れてしばらく経つと、あたりは薄っすらと暗くなった。時折ぬるい夜風が吹いては焼けた肉の(かぐわ)しい香りが鼻を掠めてゆく。きっとあちらこちらに立ち並ぶバルから漂ってきているのだろう。道の脇に設けられた小さな花壇のたもとでは、クマコオロギやマツムシが夏の夜を楽しむようにリーリーと鳴いている。


 待ち合わせ場所である〈三体の女神像を模した噴水〉の縁に腰掛けて、ルカは薄墨(うすずみ)色の町並みを見渡していた。アパルトマンの小窓から漏れる光はぼんやりとしていて元気がない。ぽつぽつと並んだ街灯も、路上に面した土産物屋やブティックのウィンドウから漏れる光も、全てが一様に弱々しい。エネルギー価格の高騰が未だに続いているせいだ。

 最近にしては長い高騰期間について、顔を赤くした男たちがどうだああだと言い合いながら、陽気な足取りで町角に消えていった。


「よ」


 しばらくぼうっとしていると、ルカの背中に声が掛かった。振り向けば、後ろにはいつの間にかアダムが立っていた。ポケットに手を突っ込みながら、片足に重心をかけてだるそうに首を回している。遅れてきた割に大した態度だ。

「行こうぜ」

 ぼんやりした光を発する町の通りを親指でクイッと指しながらアダムは言った。頷きながら、ルカはさっさと歩き始めてしまった少年の背中を追いかけた。


 行き着いた先は洒落た外装のバルで、中も外のテラスもたくさんの人で賑わっていた。初めてこの町を訪れた時に見つけたバルだ。そう言えば、ここに呑みに来ようと話をしていたのだったか。

 店は既に満席だったらしい。二人が入り口に近付くなり恰幅の良いウェイトレスが顔の前で両手をクロスさせ、大きく×を作った。続けて「展覧会目当ての人間がたくさん宿泊しているから、この辺はもうどこも満席だろう」と愛想もなくまくし立てた。舌打ちしてぶらぶらと歩き始めたアダムの後ろに、ルカは再び静かに続いた。

 裏路地を何度も曲がるたび街灯の数はまばらになり、辺りはどんどん暗くなっていく。歩いている間、二人が言葉を交わすことはなかった。響くのは静かな虫の音と二人分の足音だけだ。静寂が辺りを支配している。

 ふと足元から目を外し路地を見上げてみた。建物に挟まれた細長い空は濃紺で、空を覆うように灰色の綿雲が広がっている。星の見えない夜空はのっぺりとしていて、どこか描きかけの油絵に似ていた。



「あんな態度の悪ィ店員のいる店なんか選ばなくて正解だったぜ」

 とろけたチーズ(ブロッチュ)が絡むスペアリブにかぶりついた後、手にしたコルシカビールを勢いよくあおり、アダムは陽気に笑った。「寂れた路地裏でこんなうめぇモンが食えるなんて!」


 ようやく見つけた店は中央通りからずいぶん離れた裏通りにあった。外装は飾りっ気がないが、賑わいが無いわけでもない。客層を見渡せば観光客よりも顔馴染みの地元の住人が大勢で寄り合っている印象だ。テラス席が空いているというので、二人は一番端の席を陣取ることにした。


「俺って港町出身だからよ、猪肉より魚の方がよく食卓に出たんだよな。まぁそれも美味いんだけどさ。でもやっぱ肉が食いてーじゃん。ほら、俺の暮らしてた孤児院はほとんど女ばっかだったから。女ってさ、肉より魚だろ」

 ルカはあまり冷えていないジンジャーエールをちびちび飲みながら、次々と湧き出る言葉へ静かに耳を傾けていた。

「しかもその理由が『太るから』だってよ。ばっかだよなァ。食わねーなら肉も魚も同じだっつの」


 アダムはペラペラと()()()()()()()を喋り続ける。途中、人の良さそうな40代のマダムがポトフを鍋ごと運んできてゴトリと机に乗せた。マダムは優しい眼差しで微笑むと、すぐに厨房へと戻っていった。ジンジャーエールの小瓶をたん、と置いて、ルカは喋り続けるアダムをじっと見つめる。


「女ってのはいきなり変わるからびっくりすんだよ。急にめかしこんだりするもんだから、茶化してやったらさ、ムキになって怒ってきたりして。ついこの間まで鼻水垂らしてたようなガキがだぜ」

「アダム……」

「ニノンだってきっとそのうち――」

「アダム」


 ぴたりと喋るのをやめて、アダムは睨みつけるようにしてこちらを向いた。

「なんだよ」

 違うだろう。こんなことを話しに来たわけじゃない。ルカは琥珀色の瞳をじっと見つめ返す。

 風が凪いだ。周囲のざわめきが遠のく。そして――


「ごめん」


 あまりにストレートに、しかしいつもの口調でルカはすっぱりと言った。

「――は?」

 逆に慌てふためいたのはアダムの方だ。素っ頓狂な声をあげた途端、彼の手からスペアリブが滑り落ち、肉塊は無残にもテーブルの下でぐしゃりとひしゃげてしまった。


「そ、それは俺の台詞なんだよ! なんでお前が先に言うんだよ!」

「先とか後とか関係ないだろ。それに、アダムがどうでもいい話ばっかりしてるから」

「そうだけどよ……っておい、今までどうでもいいって思いながら相槌打ってたのかよ。俺バカみてーじゃん。っつかお前ェは悪くねんだから謝んな!」

「悪いと思ってなかったら謝らない」

「ちげーよ。悪いのは俺だ!」


 面倒臭い。そんな言葉が脳裏に吹き荒れた。意地を張るところでもないだろうに。釈然としないままルカは黙り込んだ。

 未だぶつぶつと何かを呟きながら、アダムは屈み込んでスペアリブを拾い、それらをティッシュに包んでいる。下を向いて垂れる蜜柑色の髪。昼中、まぶたの裏に広がった太陽の色を思い出して、少しだけため息をついた。


「傷付けたと思ったから」

「……あ?」

 アダムは首を傾げてこちらを見上げた。

 その視線から逃れるようにふいと俯いて、ルカは呟く。

「言葉を選ぶのが下手くそだった」


 山岳の村に住んでいた頃には知りもしなかった。言いたいことは言えばいいし、己の中で完結するものは口に出さなければいい。言葉を伝えることに工夫なんて必要なかった。

 そうやって十五年間生きてきたのだ。ごく僅かな、見知った者としか交流を持たない少年にとっては、それだけで十分だった。


「自分の気持ちを言葉にするのとか、人の心を考えるのがこんなに難しいなんて思ってもなかった。絵の方がよっぽど分かりやすいよ」

 言いながら、ルカは自嘲の笑みをこぼした。もちろんセンスだってあるだろうが、絵画はこちらが時間をかけて向き合えば、キャンバスに塗り込められたメッセージを返してくれる。受け手の数だけ解釈が生まれる。そのどれもがきっと正しいのだろう。

 だけど人相手にはそういう訳にもいかない。


「絵を見れば、それを描いた画家のことが分かるのか?」

 ぐしゃぐしゃに丸めたティッシュを机にそっと置き、アダムは神妙な面持ちで椅子に座り直した。

「画家のことというか、その人の癖というか」水面に浮き沈みする文字をすくいとるように、確かめながらルカは言う。「こんなことを大事にする人なのかなとか。こういう気持ちを抱いていたからこの箇所がこんなタッチで描かれてるのかとか。キャンバスにはヒントが沢山あるんだ」


 ふぅんと一人頷いて、アダムは黙り込んだ。何かを考えているようだったが、しばらくするとその何かを振り切るようにしてにかっと笑ってみせた。

「んなことで俺が傷つくかよ」

 え、と口を開けるルカを尻目に、すっかり泡の消えてしまったコルシカビールを一気にあおったアダムは、通り際のウェイトレスにビールの追加注文をした。


「ほんの少し、昔のこと思い出しちまっただけさ」

 そう言って、アダムは目を細めて遠いところを見た。

「……昔?」

 尋ねていいものか考えあぐねながら、ルカはぼそっと言ってみた。アダムは目を伏せて「そ、昔」と言った。その口元にはぎこちない微笑みが浮かんでいるように見える。


「孤児院で暮らしてた頃の話さ。育ての親の牧師は――俺は親父って呼んでるけど、親父はそりゃもう恐い人だったんだよ。口も人相も悪くて、機嫌が悪いととにかく当たってくる。それも焚火にオイルをぶっかけたような怒り方でさ……」


 まるで今朝食べた朝食の話をするように、アダムは淡々と語った。浴びせられる暴言は日常茶飯事で、暴力も絶えなかったこと。ただし手をあげるのは男にだけだったこと。何かあると孤児院から閉め出され、何度も路上で暮らしたこと。


 返す言葉が見つからず、何も食べずにじっと話に耳を傾けていると、ウェイトレスがコルシカビールを運んでやってきた。

「悪ィ、これじゃただの愚痴だよな」

「いや……」

 首を横に振ったのだが、アダムは手の平をこちらに押し付けるようにして「悪口言いてェんじゃなくてよ」と断りを入れた。


「親父は、俺が画家になりたいってのが無性に気に入らねーんだってさ。エリオに出会って画家を目指すようになってから孤児院を出るまで、親父にはそりゃ酷い言葉しか貰えなかったな。まぁ、素質がないのは自分でもちゃんと分かってるつもりだったからいんだけどよ」


 そう言って、一際明るく笑うのだった。

 ルカの胸に心臓をぐっと掴まれたような痛みが走る。ごくりと生唾を飲み込んだまま何も言えずにいると、アダムは「だからさあ」と一息ついて続けた。


「あの時――お前に『向いてない』って言われた時、昔のことと重なっちまって。胸糞悪かったんだ。はは、情けねえよなァ。もう何年も前の話だってのに。…………悪かったよ」


 それっきりアダムは喋るのをやめた。そして、すっかり冷めてしまったスペアリブや余っていたサラダを飲み下すように食べた。

 ルカは卓上に並んだ食事に目をやった。まだ少し残っていたが、手をつける気にはなれなかった。自分のことじゃないのに胸がひどく苦しい。アダムの心から抜けてしまった苦しさが、一気に体に流れ込んできているみたいだった。


「俺はアダムが画家に向いてないとは思わない」

 それは本心だ。口にものを詰めたまま、アダムは驚いたように顔をあげる。

「だって俺は、アダムの絵が好きだから」

「あ、そ、そうかよ。言っとくがなんも出ねェぞ」


 うろたえるアダムを無視して、ルカは手元のグラスに口を付ける。

 ニノンだってニコラスだって、きっと同じだろうとルカは思う。皆彼の描いた絵が好きだった。幼い頃、誰もが心に持っていた柔らかい心みたいなものが、彼の絵の中にはたっぷり散りばめられているような気がするのだ。


「カーニバルやモーリスさんのこともあって、最近考えてたんだ。絵画について――絵画の価値ってなんだろうって」

「絵画の……価値?」

「AEPが誕生する前の絵画にはどんな価値があったんだろうって。エネルギーにならない絵画が、それでも数百年前から描かれていて、修復までされて後世にずっと受け継がれてるんだ。不思議だと思って。――昔々、街には〈美術館〉という芸術品を鑑賞するための施設があったらしい」


 家の書斎に埃をかぶった状態で眠っていた本の中の知識だ。小さい頃にかじったきりで、詳細はほとんど覚えていない。その時は何も思わなかったが、今思えば不思議なことだった。

 もしかしたら、かつて絵画を鑑賞することに意味がある時代があったのかもしれない。

 或いは何か別の価値を絵画が抱えていた時代が。


「職業病なのかな。俺は、絵画にエネルギー以上の価値があるように思えてならないんだ」

「エネルギー以上の価値なあ……」

 思うところがあったのか、アダムは腕を組んで少しだけ唸った。


「アダムの絵は優しいよ。優しくて明るい。その絵に救われる人が、この世界のどこかにきっといる」


 暗闇を歩くには弱すぎて頼りにならない灯りだろう。だが弱々しい灯りは、自身の光によって周りを消すことなく味気ない景色に色を添える。


 成長しなければならないというプレッシャーに日々押しつぶされそうな人が、社会には溢れている。

 時間はいつだって人から余裕を無くす。

 世界はいつだってささくれ立っている。

 いつだって何処かで誰かが傷ついている。

 その彩りが、時にどうしようもなく疲れ果てた人の心を包み込むことだってあるだろう。


 それが価値では駄目なのだろうか。どうして、それじゃあ駄目なのだろうか――ルカの思考がある地点に着地しそうになった時、空になった瓶がおもむろに机の上に置かれた。


「俺の夢は画家になることだけど」

 赤くなった顔をあげて、アダムは急にそんなことを切り出した。

「もっと言えば、絵本を作ることなんだ」


 その言葉を聞いてルカの脳裏にパッと浮かんだのは、彼のスケッチブックに描かれた銀色の竜と鐘塔守りの少年の絵だった。その時確かにアダムは言っていた。自分が絵を描き、幼馴染がストーリーを考えるのだと。


「世界中の子どもたちに届けたいんだよ。夢中になれる世界を。ワクワクする心を。つまんネェ現実を、それでも生きていけるような楽しさを」


 琥珀色の瞳が太陽に充てられたみたいにキラキラと輝いている。本当に夢見ているのだ。そしてそれは彼の中では夢に留まらず、来るべき未来の姿として心にどっしりと鎮座しているのだ。


 ひと思いに言いきってから、アダムははっと我に返ったように目を丸くした。

「あ、おい。笑うなよ。笑うんじゃねーぞ。俺は真剣なんだからな」

 びしっと人差し指を眼前に突き立てられたので、ルカはやんわりとその手を振り払った。

「笑ってないよ」

「いいや、笑ってるね。顔がにやけてるぜ、この人でなしめ!」

「いや、違うって。これは――」


 にやけていたわけじゃない。夢を語れる人間がかっこいいと思ったからだ。叶えることが簡単ではない未来図を、信じる瞳が綺麗だったからだ。

 ルカが弁明しようとした時、ふいに背後から声がかかった。

「お前たちも呑んでたのか」

 振り返るとそこには、少しだけ顔を赤くした男が二人立っていた。


「カヴィロ、シャルル!」


 アダムは嬉しそうに席を立ち、椅子を二つ分引いて手招きした。ルカの隣にはカヴィロが、続いてシャルルが順に腰を降ろす。どちらからともなく声を掛けられたので、ルカはどうも、と目も合わせずに会釈した。気まずい空気と共に、ぬるいジンジャーエールを無理やり喉へ流し込んで顔を伏せる。最後にアダムがシャルルの隣に座り、やがて揚々と会話が始まった。

 様々な話題で盛り上がるなか、時折頷いたりもしたが、それでもルカは存在を消すようにただただ静かに聞き役に徹していた。できれば今は、あまり顔を合わせたくない二人だった。どうしても数日前の出来事を――修復した絵を返却した時のことを思い出してしまうからだ。


 空っぽになったグラスを手で持て余していたら、ふいに大きな手がぬっと伸びてきてグラスを奪い取った。あっと顔をあげれば、カヴィロが呼び止めたウェイトレスに空いたグラスを手渡していた。


「コルシカビールか?」

 その問いが自分に向けられているものだと分かり、ルカは控えめに首を横にふった。隣でウェイトレスがニコニコしている。ルカは仕方なくジンジャーエールを注文した。


「ありがとな」

 いきなり隣でカヴィロがそんなことを言ったので、ルカは初め誰に向けた言葉なのか分からなかった。

「お前だよお前、修復家」

「はぁ……どうも」

 おそらく修復した絵画についてだろう。だがその件について、礼は言わないのではなかったか。心変わりでもしたのだろうか。

 ちらりと視線を上げて男の横顔を伺い見た。カヴィロは特に気にした様子もなく、既に別の話題に興じている。大人はよく分からない。


 悶々とそんなことを考えていたので、いつの間にかテーブルの空気が変わっていたことに気がつかなかった。


「なぁ、そろそろ教えてくれよ」

 はっきりと耳に届いたアダムの声は真剣そのものだった。先ほどまで陽気にへらっとしていた男たちの顔から、笑顔が消える。


「エリオと――何があったんだ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ