第60話 空からの来訪者
「それでね、ヴィヴァリオのマティクシア通りを中に二本入ったところにおいしいケーキ屋さんがあるらしくって」
午後の風が吹き抜ける展望台のベンチの上で、ニノンは今更ながら己の行動の浅はかさに後悔を繰り返していた。
とっさに握ってしまった手は今も繋がったままで、振り払われる素振りはない。重なった肌からじんわりと体温が伝わってくる。それがどうしようもなくニノンの心を焦らせる。
「そこのチーズタルトは甘さ控えめだから、男の人でもファンが多いんだって――」
気恥ずかしさを悟られまいとなおもぺらぺら喋り続けていたら、こと、と右肩に何かが乗っかった。
「!」
ニノンはびくっと肩を震わせ、おそるおそる自身の肩先に視線を向ける。が、すぐにあっと息を呑んだ。寄り目になるほど近いところで真っ黒な髪が揺れていたのだ。
「あ、の、ええっと……ルカ?」
寄りかかった重みの正体を認めた瞬間、ニノンの皮膚は発火したようにカッとなった。
「ど、どうしたの、急に」
どもる声に隣からの返事はない。
しばらく待ってみる。やはり返事はない。
寄りかかる体温が、絵の具や洗浄液の油のにおいが、ありえないほど近い。ニノンの顔はいよいよ熟れたヤマモモのように真っ赤に染まった。耳もとで脈打つ心臓がうるさくて、ぴんと張り詰めた鼓膜が今にも破れそうだ。
どうしたらいいのか分からず身を固くしていると、白んでいく視界の隅で、ふと少年の薄い胸板が規則正しく上下しているのが見えた。
嫌な予感。ニノンは慎重に首を伸ばして、うつむき加減の少年の顔を覗き込んでみた。ベルナール家の証、ラピスラズリのペンダントと同じ色をした青い瞳は瞼の裏に隠されてしまっている。意外と長い伏せられたままのまつ毛。東洋の神秘、漆黒の色。
それらをじっと眺めていたら、薄く開いた口からすぅすぅと寝息が漏れているのが聞こえた。
「ね、寝ちゃったの?」
間の抜けた声を風が青空の向こうへさらっていく。
なんだ、眠ってしまったのか。――なんだ。
心の中でそう呟いた途端、疲れが大きな波となって体にどっと押し寄せた。ニノンは静かにため息をついて、すっかり眠りこけている少年の頭に自身の頭をこつんとぶつけた。
「いろいろあったもんね」
アダムのこと。修復のこと。こんなに思い悩むルカを見るのは初めてだった。
何事も卒なくこなす、悩みとは無縁の少年――意外だなんて驚いてしまったのは、今までそんな姿ばかりを見てきたからだ。だけど、とニノンは思う。彼だって人間なのだ。悩みのひとつやふたつあるだろう。
そんな当たり前のことがどうにも新鮮で、不謹慎だけど嬉しかった。
道野琉海という人間の側面に触れることができた気がして、嬉しかったのだ。
「私ってずるい女の子だよ」
ニノンは握る手に力を込めた。
「ルカと一緒にいればいるほど……」
弱々しく呟いた言葉は、途中で夏の空気に溶け消えた。うつむいた視界の隅で、陽に透けてテグスのように透明になった髪先が風に揺れる。
日を追うごとに欲張りになっていく気持ちに、ニノンは自分でも気がついていた。それが何処からやってくるのかも。
護ると言ってくれた言葉。たまに見せる無邪気な笑顔。絵画に向ける誠実な眼差し――きっかけなんて探せばきっといくらでもあった。
だけど、その気持ちを自覚してはいけないような気がしていた。
ルカはこの世で目覚めて出会った最初の人間だ。それに『ベルナール一族の末裔を護る』という父親からの言伝もある。彼が自分のそばに居るのはいわば使命なのだ。
それを除いたとしても、記憶を失くした少女が可哀想だから、いち友人として放ってはおけないのだろう。ああ見えて彼は優しい。そう、情に流されない優しさを持っている。
だから今まで頼りない蓋で心に栓をしてきたのだ。
「特別になりたい……なんてね」
贔屓のない優しさに勘違いを起こしてはいけない。
うぬぼれてはいけない。決して。
分かってはいるけれど、そんな風に生きていくほど器用じゃない。心で感じる何かを抑えることはできても、無くすことなんてできやしないのだから。
細く長いため息を吐いた時、ニノンの足元で何かがキラリと光った。ん、と思い目を凝らしてみると、木と木の間のわずかな溝に汚れた金属片のようなものが挟まっているのが見えた。
寄りかかるルカを起こさないように、ニノンは慎重に左手をぐうっと伸ばした。何度か空振りを繰り返して、指先が冷たいものに触れる。
――パラパラパラ。
拾い上げたそれを目線の高さまで掲げ、角度を変えてまじまじと見つめる。雨風に晒されすっかり錆びついているが、この形はまさしく――。
「鍵……?」
持ち手の部分に剥がれかけたシールが貼りついていた。そこには〈保管室〉とだけ書かれている。どこかの部屋の鍵だろうか。
――パラパラパラパラ。
そういえば、遠くで不思議な音がしている。誰かが散弾銃を撃ち放しているような小刻みな音が。
ニノンは鍵をポケットにしまい込んで顔を上げた。先ほどまではなかった小さくて黒い点が、水色の空にぽつんと浮かんでいる。
――バラバラバラバラ。
黒い点を睨むように見つめる。傍の太陽がまともに視界に入ってきて、ニノンは思わず目を瞑った。
音はどんどんうるさくなって、ついに耳を塞ぐほどの騒音に変わり――隣から重さが消えた。あまりのうるささに眠りを阻害されたのだろう。そばでルカがわずかに身じろぐ気配がした。
「……ヘリコプター?」
隣で驚いたような声があがる。
「ヘリコプターって?」
すぐ近くにいるルカに、ニノンは大声で訊ねる。鼓膜がうわんうわんと震えて自分の発した声さえ聞こえづらい。
「空飛ぶ――乗り物――の、こと!」
ほとんど叫ぶ形でルカは答えてくれた。
ぐっと瞼を押し上げれば、確かに何かがこちらに向かって近づいてきていた。先ほど黒い点だと思っていたものこそがルカの言う『ヘリコプター』で、乗り物と言うからにはあの中に人が乗っているのだろう。
黒色だと思っていたそれは、光の加減で黒く見えていただけで、実際はとても綺麗な青色だった。光沢のある青はルカの目の色によく似ていた。
バリバリと空気を裂くような音を立てながら機体が上空を旋回する。ヘリコプターは目の前までやってくると、重たい体を不安定に揺らしながら、そのまま草むらへと垂直に降っていった。
ゴォ、ゴォとプロペラが風を巻き上げる。二人は思わず両腕で顔を覆い隠した。吹き荒ぶ風に展望台が揺れる。そうしてしばらく堪えていたのだが、ルカもニノンもすぐに鉄柵まで駆け寄っていき、首を突き出すようにして下を覗き込んだ。
周囲の草が波紋のようになびいている。ゆっくりと降下したヘリコプターは、やがて波紋の中央に着陸した。
「と、止まった――どうしてこんなところに」
「さぁ……不時着ではなさそうだけど」
徐々にプロペラの回転速度が落ちていく。あんなにうるさかった音もしゅんと小さくなって、やがて消えた。
しばらく呆然としていると、突然ドアがぱかりと開いた。その瞬間「ぎゃっ」という短い叫び声と共に男が一人、機体から転がり落ちた。どうやら誰かに蹴落とされたようだ。出口から飛び出た一本の足は、満足げに機体の中へ引っ込んだ。
出入り口の中の暗闇を見つめていたニノンだったが、違和感を覚え、すぐに蹴落とされた男へと視界を引き戻した。こげ茶の癖っ毛。ヒョロヒョロノッポ。地面に突っ伏したままの情けないシルエットには見覚えがある。そうだ、彼はアジャクシオで意気投合した、エンジニアを目指す――
「ロロ! ロロじゃない!」
落ちた時に弾き飛んだ眼鏡を手探りで探し当てた男は、バッと勢いよくこちらに顔を向けた。そのまましばらく目を開いたり細めたりしていたが、思い出したように眼鏡をかけ直し、すぐに「あっ」という顔をした。
「ニノンさーん! ルカさんも、お久しぶりですー!」
男はぶんぶんと手を振りながらこちらに向かって叫んだ。ニノンも手を振りかえす。ついでに素朴な疑問もぶつけてみた。
「こんなところでなにやってるのー?」
「なにって……あなた方を追ってはるばるやってきたんですよ!」
「あれ、そうなの?」
「そうですよー!」
その後も何かぐちぐちと言っていたが、声が遠くて聞こえなかった。
そうこうしているうちにヘリコプターからタラップが降ろされ、中からぞろぞろと人影が出てくるのが見えた。数は全部で三人で、小柄な金髪の少年、黒人の大男、最後に華奢な少女が続いた。
「まったく、探すのに苦労したんですから――いだだだ」
ロロは体を仰け反らせ、そのまま首を捻って後ろを見た。
「なにするんです、ジャック」
「うるさい」
ロロの二の腕を思いきりつねりながら、金髪の少年が不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「す、すみません。謝るからその指、離してくださいよ!」
少年はフンッと鼻を鳴らした。そうして掴んでいた腕ごとロロの体をぐいっと脇に押し退けながら、少年は睨むようにしてこちらを見上げてきた。ぎょっとして、ニノンは思わず身構える。
「お前、脱色症だな」
「えっと……私?」
人差し指で自身を指しながら驚いたように訊き返すと、
「お前、以外に、誰がいる」
わざわざ言葉を区切りながら少年は言い放った。
なんて嫌味ったらしい男だろう。ニノンはムッとして、鉄柵に乗りかかり首をずいっと突き出した。
「確かに私は脱色症だけど、だからなに? 君にそんな言い方される筋合いなんてないよ」
「ごちゃごちゃとうるさいな――」
少年はぞんざいにため息をついた。
「いいからさっさと降りてこい!」
「なっ……」
――なんなの、この人!
ニノンは心の中で叫び声をあげる。それから勢いよく隣に向き直り、信じられないといった風な顔をしてルカに同意を仰いだ。
「なんだ、あれ」
同じタイミングでルカもぽつりと呟いた。本当にそうだ。あんなに下にいるのに上から目線が甚だしい人間なんて、そうもいないだろう。
「ちょっとジャック、失礼でしょう!」
下の方で金切り声が聞こえた。覗き込むと、華奢な少女が少年に何か言っているようだった。少女は両手を腰に当てて、まるでお母さんが子どもを叱っているような態度をとっている。
「そんなだから誤解されるのよ」
ジャックと呼ばれた少年は腕を組み、つまらなさそうに話を聞いている。二人の後ろで黒人の大男が大きな欠伸をした。
「おーい、ごめんねー!」
視線に気付いた少女が、こちらに向かって懸命に手を振ってくれた。隣でロロもつられて手を振った。
「ほんと、デリカシーの欠片もなくって。でもね、悪気はないの、言葉選びが下手くそなだけなのー! 見た目ほど最低な人間じゃないのよ、多分ー」
「おいおい、人を動物園の珍獣みたいに紹介するな。それこそ誤解されるだろうが、なぁ? ウィン・ウェイクフィールド」
「だからっ、」と、少女は噛みつく勢いで少年にくってかかった。「フルネームで呼ばないでって言ってるじゃないの! ごつごつした響きを私が嫌っているの、知ってるくせに!」
「ウィン・ウェイクフィールド。いいじゃないか、ワイルドで」
「本当に、やめて!」
少年はニヤリと意地悪そうに笑った。
その後もごちゃごちゃと終わりそうにないやり取りが展開されているのを、ニノンとルカは鉄柵越しにぽかんと見つめていた。本当にこの人たち、何をしに来たのだろう。
楽しげに二人のやり取りを眺めていた大男が、ふとこちらを見上げた。今度は何だと、ニノンは強い気持ちで相手を見返す。
男はポケットに突っ込んでいた左手を軽くあげて、
「大丈夫。恐くねぇから、降りておいで」
と朗らかに笑った。




