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コルシカの修復家  作者: さかな
8章 孤独に咲くひまわり

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第58話 世間的敗北

 依頼された絵画の修復を始めて一週間は経っただろうか。

 喧嘩して早々、ルカは頭の中から私情を排除し、手元の作業に集中することにした。一旦手をつけ始めると飲み食いすら忘れて作業に没頭する少年だ。今回も例にもれず、まるでブレーキの壊れた列車のように黙々と作業にのめり込んだ。

 その甲斐あってか、普段よりも何倍も大きい絵画を相手にしているというのに、修復作業は残り数行程でおしまいというところまで来ていた。


 ひと段落ついたところでルカはパレットを机の上に置き、肩をぐるりと回した。集中しすぎたツケが首から肩にかけてべったりとこびり付いている。肩を回す度にバキバキと骨が音を立てるのだが、肝心の凝り固まった筋肉はなかなかほぐれそうにない。


 仕方なくルカは目の前の絵画に目を戻す。

 視界に収まらないほど大きなキャンバスには、どこかの町の一角が描かれている。画面の中央を陣取る建物の前。数段しかない石階段に腰掛ける男が一人、色褪せたボロ雑巾のようなシャツを羽織り、その手にマンドリンを携え歌を歌っている。

 今度は歌う男の左端に視線を移した。奥まで続く通りの先に、薄く霞んではいるが小船のマストが数本並んでいる。おそらく小さな漁港があるのだろう。

 ふと思い立ち、ルカは何気なくポケットにしまったままだった依頼書を取り出して拡げた。〈リル=ルッスのとある町角〉――絵画のタイトル記載欄に、もう少し丁寧に書けただろうと思うほどの殴り書きがあった。描かれた風景がどこか異国情緒を感じさせるのは、この町が海と繋がっているからなのかもしれない。というのも、〈リル=ルッス〉はカルヴィから続く美しい海岸線を東に辿った先にある港町なのだ。


 座り込む男とは対照的に、道を行き交う人々は皆様々に鮮やかな衣服に身を包んでいる。楽器を抱える男に目をやる女もいれば、その存在にすら気付かず足早に去っていく者の姿もある。


 そこで、あれ、とルカは思った。

 洗浄を施したにもかかわらず、絵画は未だ全体的にくすんだ色をしていたのだ。

 一見すると何の変哲もない町角の風景なのに、どうしてこの絵を見ていると寂しさに胸がざわめくのだろう。



『修復を行う上で必要になるのは『技術』だけではないよ』


 事あるごとに光太郎が口酸っぱくそう助言していたことを、ルカはふと思い出した。

 光太郎だけではない。言葉じりは違ったが、祖父の光助からも同じような事を何度か言われたことがある。丸太小屋の小さな工房。まだ祖父がクロードを連れて帰ってくるよりもずっと昔。男手三人で修復業を営んでいた頃の情景が蘇る。


『技術だけでなんとかなるなら機械にでもやらせておけばいいのさ。僕たちはね、画家の心に寄り添った修復をしなくちゃ』


 キャンバス生地を引き伸ばしていた手をとめてルカは顔を上げた。しばらく父親の言葉について考えてみた。画家の心に寄り添う――うんと難しい顔で一点を見つめていると、光太郎は音も立てずに隣にしゃがみ込んだ。膝の上に腕を乗せ、その手をぶらぶらとさせている。指先は黒い汚れにまみれてひどい有様だ。


『どうしてその構図だったのか、なぜそこにその色を置いたのか、ある部分だけ執拗に描き直しているのはなぜなのか』

 光太郎はこちらに顔を向けた。珍しく真剣な表情をしている。

『形には全て理由があるんだよ。画家にとっての理由、意味がね。それらから目を逸らして作業するほうがずっと楽ちんだけど……』

『楽ちんじゃなくていい』


 無意識のうちに言葉が口をついて出ていた。楽をしたいだなんて、ルカは一度たりとも思ったことなどなかった。光太郎は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を作った。


『いいかい、ルカ。これだけは覚えておくんだよ。絵画はね、画家の心の結晶なんだ。結晶に当たって反射する光を美しいと思おうが、眩しいと思おうがそんなものは見る人の勝手だ。だけどね、眩しいからって他人が勝手に結晶を削るようなことはあっちゃならない。たとえ形を変えることで、光を美しく感じる人が増えるとしても』


 言いながら、光太郎はルカの頭をぽんぽんと撫でた。子ども扱いされているように感じて僅かに眉をひそめたら、光太郎は喩えが難しいとでも思ったようだ。『つまりね』と彼はオーバーハンドで続ける。


『修復っていうのはそれだけデリケートな仕事なんだよ』


 つまるところ、手を加えすぎるなということだろうか。「これだけは」と前置いた割に随分と盛り沢山な内容だったが、そこには突っ込みを入れず、ルカは素直に頷いておくことにした。


『経験と(おご)りは捨てることだ』


 突然、祖父が口をひらいた。ルカは驚いて奥の机に目をやった。石像のようにひっそりと作業を進めていた祖父だったが、ルカの視線に気付き、首をもたげてこちらを見た。そしてぼそぼそと呟いたのだ。


『それらを捨ててでも修復を完遂できるほどの技術を身につけろ。そして、絵画(あいて)に誠実であることを忘れるな』



「誠実であれ……」


 経験に囚われないやり方を、ルカはいつだってあの小さな工房の中で教えられてきた。考えるのをやめないこと。疑問を追究する努力を怠らないこと。


 綺麗になったはずの絵画がくすんだままなのはどうしてなのか?


 ルカは画面の手前を行く女性のワンピースからピンクの顔料をメスで削りとった。それらをXRDと呼ばれる特殊な機械にかけてしばらく待つ。やがてジージーと音をたてながら結果がプリントアウトされ、べろんと機械の出口から飛び出した。グラフ上には心電図のように波打つ黒線が示されている。見ると幾つかの点で突沸したように黒線が跳ね上がっていた。これで顔料の組成が分かるのだ。

 跳ね上がった黒線の先を目で辿る。空気に触れて劣化した時に生まれる顔料の成分とは違う、全く別の成分が多く検出されている。それが意味するのは――


「やっぱり……酸化してない」


 色のくすみは劣化によるものでは無かった。つまり、()()()()彩度の調整された絵の具で描かれていたということだ。なぜそんな描写方法をとったのか、ルカには今ひとつ理解できなかった。


 一旦考え始めるとその他の部分も気になってくる。

 例えば楽器の男。この男の影にだけわずかに青い顔料が混ざっているのだ。まわりの人々はそのかぎりではない。

 他にも、例えば構図。タイトルは『町角』と銘打っているにもかかわらず、まずはじめに男に目がいくように構図が切り取られている。明らかに歌う男が主役の絵なのだ。


 行き詰まりを覚え、苦し紛れに机に放り出されたままになっていたパンフレットを手繰り寄せた。依頼された絵画と共に、包みの中に同封されていたものだ。表紙の写真には豪勢な建物を背にカヴィロとシャルルが写っている。よそいきの笑顔が妙に浮いていて変な感じだ。

 ルカは何とはなしにページをめくった。これによると、カヴィロとシャルルはパリで〈共同アトリエ〉を経営しているようだ。実質的には、アトリエとは名ばかりの『絵画の教室』だ。高エネルギーを獲得する為のプロセスを講義形式で受講し、実技に移っていくというプログラムらしい。

 そんなアトリエの長が、はたして高エネルギー獲得条件の一つとして確立されている『鮮やかな色彩』に反した絵画を描くだろうか?


「何と睨めっこしてるの?」

「!」

 背後からいきなり声を掛けられ、ルカはびくりと肩を揺らした。

 振り返るとニノンが眉をひそめてこちらを覗き込んでいる。そんなに驚かないでよ、とでも言いたげな目を向けられる。


「だってルカ、私が入ってきたのに全然気付かないんだもん」

「ああ、ごめん。考え事してた」

「そうだと思った」


 掛け時計の針は六時二〇分を指したまま、窮屈そうな形で止まっている。ここが長らく空き家になっていたせいだろう。実際は午後二時を過ぎた頃だという。ニノンが持ってきてくれたサンドイッチを頬張りながら、ルカはうんと首をひねった。


「――もしかして、それを直して欲しいんじゃない?」

 ことの経緯を聞き終えたニノンがぽつりと漏らした。『それ』とはくすんだ色彩のことだ。

「ほら、カヴィロさん、昔に描いた絵だって言ってたじゃない? 今みたいにそこまで条件を意識して描いてなかったのかも」


 一理あるとルカは思った。おそらくだが、これは彼らがコルシカ島を旅してまわっていた頃、立ち寄った町の風景から着想を得て作製した絵画だ。


「サロンに出す絵でしょう。だったら尚更じゃない? 当選の条件にはきっと『鮮やかな色彩』が含まれてると思うし」


 その通りだ。きっとカヴィロはそれを求めている。だけど、とルカは思う。


「でもそれは――修復の度を超えてるよ」


 色を変えるなんて『修復』じゃない。立派な『加筆』だ。作業の手がなかなか進まないのは修復家としてのプライドを捨てられないからではない。それがモラルに関する問題だからだ。

 釈然としない気持ちを紛らわすように、手元の依頼書に目を落とした。作生年月日欄。カルヴィにてアダムが彼らと出会ってから数年経った年数が記されている。そう、ちょうどエリオの名が世に知れ渡った時期ぐらいじゃないだろうか。


「じゃあやらなくていいと思う」


 悶々と考え事をしていたから「えっ」と間の抜けた声が出てしまった。ルカは顔を上げてニノンを見つめ返す。


「ルカの思う通りにすればいいんだよ。自分の心の声をはじめに信じてあげられるのは、自分しかいないでしょう?」


 ニノンは優しく微笑んでいた。そんな彼女を見ていたら、ふっと目が覚めたみたいに視界がクリアになった気がした。新鮮な風がふわっと頭の中に吹き込んでくる。

「思う通りに、か」

 そうか、そうだな――ルカは心の中で何度か確かめるように呟いて、最後にひとつ頷いたのだった。



 *



 午後三時を過ぎた頃、ようやく修復は完了した。ルカがカヴィロに一報をいれると、ほどなくして男が一人、家を訪れた。今日はシャルルと一緒ではないようだ。


「さすが噂の修復家は仕事が速いな」

「いえ、それほどでも」


 謙虚だな、なんて笑いながらカヴィロは机に置かれた絵画を覗き込んだ。額縁ごと絵画を包んでいるよれた布に手をかけ、丁寧に剥がしていく。そんな彼の一挙一動をルカの真剣な眼差しが見つめる。ゆっくりと露わになる横長の絵画。布が全て取り払われた瞬間――カヴィロの表情が石のように固まったのが分かった。


「なんだよ、これは」


 僅かな怒気を含んだ男の声に、ルカは「やっぱり」と思った。カヴィロは愕然とした表情で手元の絵画を見つめている。こうなることは想定内だった。


「確認させてもらうが」

 しばらく黙っていたが、やっとのことでカヴィロは言葉を絞り出した。

「本当に修復したのか? あまり変わってないように見えるんだが」

「もちろん。修復工程は全て終了してます」

「そうか。じゃあ質問を変えよう。お前、自分の仕事に自信は?」

「あります」

 すかさず答えると、カヴィロはハッと鼻で笑った。

「なるほど。つまり修復してもこれが限界ってことか。さぞぼやけて見えたろうな、こいつは還元率の低そうな絵だって」

 視線を逸らした男の顔を、それでもルカは見つめ続ける。

「俺は依頼を受けた通り、描かれた当初の姿に絵画を戻しただけです。加筆の依頼は受けてない」

「加筆だと?」


 カヴィロは手にしていた梱包用のボロ布を側のソファに放り投げると、ぐっとこちらに詰め寄った。迫る相手の背は高く、一気に視界が陰る。


「ち、ちょっと、二人とも……」

 慌てて仲裁に入ろうとしたニノンをルカは手で制した。もごもごとまだ口の中で何か言っていたが、やがてニノンは大人しく引き下がった。その様子を視界の隅で確かめてから、ルカは静かに口を開く。


「修復を行う上で『補彩』――つまり失われた色を修正する作業や或いは消えてしまった部分に手を加える工程は必ず出てきます。修復に携わったことのない人たちが、修復と聞いてまず思い浮かべるのはこれらの作業だ」


 欠けてしまった空洞にどんな顔料が存在していたのか。薄れてしまった人の顔は笑っていたのか、怒っていたのか。物が消えてしまった以上、修復を施すといってもそれは想像の域を出ない。


「でも俺は、その工程こそが一番難しいと思っています。補彩や補正は想像と予想でしか進められないからです」

「それがなんだって言うんだ」


 間近にある男の瞳がさざ波の立った水面のように小刻みに揺れている。それはライオンのように噛み付いて、ルカの視線を離さない。ルカはくっと胸をはった。


「ずっと考えてたんです。この絵に込められた意味を。リル=ルッスの町角と言いながら、この絵の主人公は楽器を奏でる男だ」

 カヴィロはじっとこちらを見つめたまま黙っている。

「絵画を調べているうちに気付いたんです。ぱっと見ではあまり分からないけれど、男の影には青い顔料が混ざっていました。どうしてこの男の影にだけ青い絵の具を混ぜたんです?」

「それは、」と呟いてから、先に続く言葉を探してカヴィロの視線が宙を彷徨った。


「ここからは想像の話です。多分、カヴィロさんは無意識だったんじゃないですか。道を行く人の服の色だってそうだ。劣化でくすんだ訳じゃなく、もともとああいう色をしてたんです。絵画には、特に色彩感覚にはその人の心の状態や感情が色濃く反映されます。例えばあなたは町角で男を見かけてこう思った――売れない音楽家の淋しい日常だと」

「……だったら、なんだよ?」


「その男に共感したんだ」


 孤独を抱いてなお、自分の進みたい道を歩む男に。

 或いは感銘か。それとも羨望(せんぼう)か?

 ぴたりと窓からの風がやんだ。それと同時にカヴィロの瞳が見開かれた。


「何かを感じたからこの絵を描いたんですよね。長い時間をかけてこんな巨大な絵画を完成させるほどの衝動が、カヴィロさんの中に確かにあったんだ。だったら俺にはそれを塗り替える資格はないし、頼まれたって手を加える気はありません」


 言い終えた瞬間、止まった時が動き出したかのように、夏の風が再びカーテンの裾を揺らした。痛いほどの沈黙があたりを埋め尽くす。身動き一つ取るのすら忍びなく、ニノンは慎重にごくりと唾を飲み込んだ。


「そうか、分かったよ」


 やがてカヴィロはぽつりと呟いた。力ない手つきで絵画に布を巻きつけながら、彼は何か大事なものを捨ててしまったような顔をした。しかし絵画を抱えて背を向けてしまったので、表情はすぐに見えなくなった。


「約束通り金は払う。後日払いに来る」

 感情の消えた声だった。

「だが、礼は言わない」


 はっきりと言いきって、カヴィロは玄関のドアノブに手を掛けた。

「カヴィロさん」

 ニノンは咄嗟にその背を呼びとめる。こちらに背を向けたまま、カヴィロは立ち止まった。


「共感を呼ぶ絵を描けるって、才能だよ。あなたの絵は誰かの孤独に寄り添える。それって『誰かを救える』ってことなんだよ」

 彼女の訴えに、男は何事かを呟いた。じっと耳を澄ましていると、カヴィロは肩越しに振り返り、今度ははっきりと声を発した。


「誰かの孤独に寄り添ったところでなんになる? そこに価値はあるのか?」

「価値――」

 男の冷めた視線がナイフのように突き刺さる。反論を待たずにカヴィロは「無いだろ」と結論付けた。

「画家も絵画も評価されないんじゃあ存在しないのと同じなんだよ」

「そんな……」


 言いかけたニノンの言葉を振りほどくように、カヴィロは玄関から出ていった。音を立てて閉まった扉を見つめながら、二人は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。


 再びの沈黙。重たい空気に抗うように、窓の外では蝉の大群が一際騒ぎ立てている。地上に這い出してわずか七日の時しか跨げない小さな虫。だからこそ必死に己の命と戦っている。

 人もきっとそうなんだろうとルカは思った。

 皆、目に見えない何かと戦っている。


 アダムは――アダムは一体何と戦っているのだろう。


 ふいに、おどけたように笑う彼の姿が脳裏をよぎった。真夜中まで語り合った日が昔話のように遠い。もうあの日みたいに笑い合うことはできないのだろうか。それはとても悲しいことなんじゃないかと、ルカは思った。


「――え?」


 瞳を伏せて考え込んでいたら、突然ニノンに腕を掴まれた。狼狽えている間にもぐいぐいと腕を引っ張られ、二人はそのまま家の外に出た。


「どうしたんだよ、ニノン」

 ついにニノンは振り向いて、ルカの両手をぎゅっと握った。なおも歩みを止めない少女に「?」とルカは首をかしげる。


「今からルカにとっておきの場所を教えてあげる」

「とっておきの場所?」

 唐突な提案だ。なんのことかまるで分からない。だけど、ニノンの瞳が宝石みたいにキラキラ輝いていることだけは分かった。


「そう。私、素敵な場所を見つけちゃったんだ。だから一緒に見に行こう?」

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