第57話 月と太陽
あれから数日経ったが、二人は未だろくに言葉も交わしていない。
それでも日中はまだ良い。絵を描いたり修復をしたり、各々が手持ちの作業に追われているからだ。問題は陽が地平線に沈んでからだった。
エリオの家からルカが戻ってくると、アダムはわざわざ「シャワーを浴びる」だとか「コニファーと夜の散歩に出かけてくる」と御託を並べ、図ったように席を立った。声をかけようと伸ばしたルカの手は、そこでいつも行き場をなくして力なく引っ込められるのだった。
そんな事がしばらく続いたある日。
「面倒だね」
痺れを切らしたニコラスがついに口火を切った。ちょうど朝食の片付けを終え、ルカが家を出ていった時だった。
「見てるこっちまでギクシャクしちゃうよ。小さい子の方がもっと上手に喧嘩するだろうね」
ニノンは相槌代わりに苦笑いを浮かべた。
確かに今、アダムとルカの間にはありえないほどごわごわした空気が充満している。あのなんとも言えない気まずさを思い出しながら、ニノンは机の上に置かれた柳編みのかごを漁った。詰め込まれているのはたくさんの使い古された軍手である。この後ベルや、ベルの両親と共に、畑にはびこっている雑草を引っこ抜くことになっている。夏草の除去は相当体に堪えるそうで、今朝方ベルは羊のチーズを取り分けながら「今年は人手が多くて助かるわ」と漏らしていた。
「……引っ込みがつかなくなっちゃったのかな」
ニノンは思いついたように口に出してみた。言葉にすれば余計に、そんな気がしてくるから不思議だ。
「特にアダムちゃんは神経が尖ってたかもね」
隣で軍手をはめながら、ニコラスは難しそうな顔で言う。
「ほら――お師匠のこともあって」
ニノンは頷いた。そうだと良いなと思う。
「きっととっさに手が出ちゃったんだ。だから、アダムも本当はあんな風に大声出したりしたくなかったんじゃないかな」
コルシカ島を北上している間に、四人は季節をひとつ跨いだ。繰り返す昼と夜をいくつも過ごした。
そうして今、また一つ季節を越えようとしている。
共にいるニノンやニコラスが見たところ、彼らは決して不仲ではなかった。
むしろ逆だ。月と太陽のように真反対の性格をしていた。だからこそなのか、不思議と馬の合う二人だった。
アジャクシオやヴェネチア、他にも旅の道すがら立ち寄ったホテルなんかで、二人が夜中まで語り合う姿をニノンはしばしば見掛けていた。
あれはいつの事だったろうか。たしか、ルカとアダムとニノンの三人で〈虹のサーカス団〉に潜入していた頃だ。あの時、ニノンは就寝の挨拶をしようと隣の部屋に向かったのだ。ノックしようと手を振りかざした時、扉の向こうから微かに話し声が漏れていることに気がついた。
ニノンはふと思い立ち、彼らの会話にそっと耳を澄ましてみた。一体どんなことで盛り上がっているのか、少しばかり興味があったからだ。
『……だから……わざと青を……』
『パレットナイフで……そう思うよな! ほら、ここの質感が……』
詳しくは分からなかったが、絵画について色々と話しているようだった。
熱く語るアダムに、笑いながら相槌をうつルカ。
ニノンはそっとドアを開けて二人の様子を覗き見た。ベッドに胡座をかいて、アダムもルカも楽しげに笑っている。
ベッドサイドに置かれた小さなランプは薄ぼんやりと二人のひざ小僧を照らすばかりで、辺りの闇を払うことはない。むしろそれらはいっそう深さを増していると言うのに、その闇でさえキラキラと光って見えた。
――綺麗だな。
漠然とそんなことを思ったのを、ニノンは今でも覚えている。
まるで一枚の美しい絵画に出会ったような感覚だった。その煌きは彼らにしか作り出せない。今を生きる彼らにしか。もっと言えば、夢を抱く人間にしか。
二人があまりに楽しそうに笑うから、ニノンは彼らをほんの少しだけ羨ましいと思った。
「ルカもねぇ、なんであんな言い方したんだか」
ニコラスはしゃがみ込み、ビニールの上に並べられた小型の草刈り鎌をいくつか手に取った。
「やけに引き下がらないというか」
確かに、とニノンも思う。普段よりも幾分か冷静さを欠いていたような気がする。
「いつものルカならあんな……」
あんな言い方しないのに。そう続けようとして、ニノンは口を噤んだ。
一体何を指して『いつも』だなんて言おうとしたのだろう。彼は自分の意見を胸の内にしまっておくような性格ではない。普段寡黙に見えるのは、ただ単に興味の対象が少ないからだ。
アダムと言い合いになった時、珍しく意地を張っているように見えたけれど、本当はそうではなくて……。
――アダムは、ルカにとって必死になるほど大切な存在なんだ。
「あんな?」
と、首を傾げながら、ニコラスが続きを促してきた。
「ううん、なんでもない」
誤魔化すように笑って、ニノンはもう一度かごの中に手を突っ込んだ。いくつか軍手を引っ張り出してみると、どれも洗濯縮みによって不恰好に歪んでしまっている。まるで今の二人を表しているようだ。
「私、草刈りのお手伝いが終わったらルカのところに行ってくるね」
「そうかい」
と言って、ニコラスは腰を上げた。
「ちょうど私もね、アダムちゃんと話そうと思っていたところさ」
ニノンは頷き、軍手に指を通した。カシカシに乾いたそれは、はめてしまえば案外綺麗に手の形に馴染んだ。
この軍手みたいに、何事もなかったかのような顔をして、二人の仲が元通りになればいいのに。
きっと明日になれば「なんでお前らが心配してんだよ」とアダムは笑い飛ばすだろう。その隣では当たり前のように、ルカも微笑んでいるはずだ。
きっとそうに違いない。
*
ベルの家はとにかく大きい。二階には部屋が実に六つもあって、うち一つは子供部屋だ。それ以外の五つは特に使われることもなく、ガラクタ置き場になったりしている。
アダムはアトリエとして、大きな窓が二つもついた、比較的物の少ない部屋を充てがわれた。
部屋のど真ん中で腰を下ろし、胡座をかいた真ん前にスケッチブックを広げ、アダムはじっと紙の表面を見つめていた。
時折、窓から風が吹き込んでは頬の横に垂れるオレンジ色の髪を揺らす。やがてアダムは思い出したかのように鉛筆を動かしはじめた。キャンバスの同じところに同じような線が重なっていく。もはやそこにアダムの心はなかった。考えるために見つめ、考えるために手を動かしていた。誰に見られているでもないのに、何かしなくてはというおかしな強迫観念に駆られながら。
『それでも俺は、反対だ』
ふいに、凪いだ少年の声が耳元で蘇る。
海よりも深い青の瞳。突き刺さりそうなほどの、けれど静かな視線。胸ぐらを掴んだ己の拳。力を込めすぎて指の第二関節から抜けてゆく体温。
黒い髪の少年は追い討ちをかけるように続ける。
『アダムに展覧会は向いてない』
思い出すだけでアダムの肺にはいくつも穴が空きそうだった。
ルカに否定された。その事実だけが頭の中をぐるぐると回って、剥き出しの大事な何かに細かい擦り傷を残していく。軽く受け流せば良かったのかもしれない。
だけどそれが出来なかったのは、彼が決して軽んじた発言をする男ではないと知っていたからだ。
それは同時に、否定の言葉に一切の嘘偽りがないことを証明していた。
「分かってんだよ……俺だって、それくらい」
それでも、諦めずに夢を追いかけることがなにかに繋がるとしたら――そんな淡い希望を知らぬ内に抱えていた。彼らと共に過ごす内に、抱えることができるようになっていた。そのことに気付いて、アダムは絶望した。
苦渋に顔を歪めた時、ぼきっと手元で嫌な感触がした。アダムは折れた鉛筆の芯を、苛立ちまぎれに手で払い除ける。砕けて飛び散った黒鉛が延びてキャンバスが汚れる。
あっと思ってそこに目をやると、何が描きたいのかよく分からないままの中途半端なスケッチが広がっていた。心臓を逆なでされたような嫌悪感に苛まれ、アダムは握ったままだった鉛筆を部屋の隅へと投げつけた。
「くそッ」
なにも上手くいかない。肺に溜まった鉛の空気を吐き出すと、アダムは胡座に肘をついて、手で顔をぐしゃぐしゃとやった。
こんなにも苦しいのは親しい人間と喧嘩してしまったからではない。
苛立ちや悔しさ、悲しみが心を満たしているんじゃない。
三人が、自分にとって大切な存在になっていたことに気付いてしまったからだ。
心を満たしていたのは、無意識の内にそれらを受け入れてしまった自分の弱さや浅はかさに対する、どうしようもない怒りと情けなさだった。
「とんだ大バカ野郎だな……」
呟いてみて、さらに虚しくなった。行き場をなくした両手を組んで額にぶつける。ごつ、ごつ、と何度も何度も。
「もうこれ以上……大切なものなんて作っちゃいけねェんだって…………」
懺悔するようにひとり呟く。その時だった。
「どうして?」
背後でいきなり声がした。「うぇっ」とひしゃげた声をあげながら、アダムは勢いよく振り向いた。
すぐそこで、膝立ちの少女が首を傾げてこちらを見つめていた。
「こ、コニファー! いつから、ここに」
驚きすぎて声がひっくり返ってしまった。そんなアダムの様子を前に、コニファーはにひひ、と笑ってみせる。
「パパは大切なもの作っちゃいけないの?」
「え、いや」
「コニーはたからものいっぱいもってるよ」
「ああ、うん」
「たからものもってるのは、ダメなことなの?」
きょとんと首をかしげる幼い少女の瞳が訴える。アダムは押し黙るしかなかった。返す言葉が見当たらなくて――代わりに腕を伸ばして少女を抱き寄せる。胡座の上に少女はすっぽりと収まった。
「なぁ、コニファーの持ってる宝物について教えてくれよ」
少女の小さな頭に顎を乗せながらアダムが尋ねた。
コニファーは「うんとねぇ」と首を捻る。話題が逸れたことに気付いていないようだ。
「となりの町でかってもらったキレイな石でしょ、ベルにもらったヒマワリのタネでしょ、ぬいぐるみのテディちゃんと、あときゃぷてんがお手紙といっしょにおくってくれるちっちゃな貝がらと」
コニファーは指折り数えながら宝物を列挙していく。「きゃぷてんって誰だ?」と思いながらもアダムはうんうんと頷いた。
「それから、パパが描いてくれたおっきな絵」
パパ――エリオが描いた絵。ふと気になり、どんな絵なのかと尋ねてみたら、コニファーは上を向いて嬉しそうに答えてくれた。
「ヒマワリの花畑の中にいるコニーとベルの絵だよ!」
「コニファーとベルを描いた絵?」
母親ではなく、ベルとコニファーを?
と、アダムは内心首を捻る。そうだよ、とコニファーは嬉しそうにもう一度頷く。
アダムの知る限りでは、エリオの作品にヒマワリと人物が共に描かれたものは一枚もない。AEP雑誌はこまめにチェックしていた方だし、エリオの作品は他人よりもかなりの精度で把握している自信があった。
だとすればコニファーの指す絵画とは、未発表のものなのではないだろうか。
「その絵は今もコニファーが持ってるのか?」
巨匠の手掛けた未発表の絵画がエネルギーに還元されずにまだどこかに眠っているとなれば、世間は大騒ぎになるだろう。だがアダムにとってはさして興味もない話題である。
ただ、尊敬する師の未だ見ぬ作品を一目見たい。その思いだけが、アダムの胸を内側からじわじわと焦がしていく。
「んーん。コニーはもってない。パパのおへやにあるよ」
「部屋だって? 行こう、コニファー。今すぐ行こう!」
言うが早いかアダムはコニファーを脇に抱えて立ち上がった。
だがすぐに「ムリだよー」と非難の声が脇の下からあがる。
「パパの部屋入るの、駄目か?」
「ダメじゃないよ?」
「だったら――」
「でも、おへやにはカギがかかってるもん」
鍵……。アダムは口の中で繰り返す。彼の家は今ルカが修復作業場として使っている。鍵は開いているはずだ。
アトリエとは別に、エリオの部屋があるのか?
「カギがみつからないから、パパのおへやにある絵もみれないままなの」
難しい顔をしたまま突っ立っていたら、コニファーがそう教えてくれた。
「そうなのか……」
アダムは眉尻を下げた。淡い期待はもたげかけた頭をしょぼつかせ、ゆるゆると垂れ落ちていく。
「パパのたからものは?」
落ち込んだ様子を察知したのか、今度はコニファーが話題を変えた。「んー」と間延びした相槌をうって、アダムは再び地べたに座り込む。
「俺にはそんなもの必要ないの。大人だから」
「オトナだから?」
「そう」
嘘だ。
そうじゃないと、心の中で声がする。
「宝物を入れるポケットには別のもんがたっくさん入ってて、もうこれ以上入らないんだよ」
なのに口からはするすると嘘の言葉が溢れてとまらない。
「ポケットにはなにがはいってるの?」
「いろいろだよ」
「パパの好きなもの?」
「好きなものも、そうじゃないものも」
ふぅん、と分かっているのかいないのか、コニファーは曖昧に頷いた。
ぬるい風が吹いて、シースルーのカーテンを揺らす。白塗りの壁にベージュの木床。アダムは瞳だけをぐるりと動かして視線を移ろわせた。
やけに広い空間。物も少なければ色も少ない。窓は開け放たれ、外界に通じているように見えるが、そこから飛び出す勇気もない。目下には散らばる描きかけのエスキース。部屋の隅に転がる、芯の折れた鉛筆。
まるで自分の心みたいだと、アダムは思う。
たまらなくなって、アダムは膝のうえに乗せたままの少女をぎゅっと抱きしめた。小さな体からはマキの森のハーブと太陽の匂いがした。島の誇り高き険しい山々の自然のにおい。孤児院に残してきた妹たちとはまた少し違う、コルシカ島のにおいだった。
「パパ?」
アダムはそのまま目を閉じる。懐かしい故郷の香りに顔を埋めると、瞼の裏側に光が見えた。淡い光の立ち込める向こう側から、ぼんやりとした人影が二つ、こちらに向かって手を振っている。
親の肌を知らないアダムにとって温もりをリアルに想像することは難しい。だがこうして風に混じるマキの森の香りに、時折肉親の影を見ることがあった。そしてその影を抱き、夢想に浸るのだ。
顔も声も何ひとつ覚えてはいないが、そこで微笑む二人――つまり、本当の母親や父親――からもきっと似たような匂いがしたのだろう。
ゆるく振っているその手は、エンジェルボックスに投函する直前まで我が子を大事に抱いていたのだろう。
もう、それだけが宝物でいい。
いつか失くしてしまう不安定なものを宝物にするなんて馬鹿げている。
別れる為に出会うなら、出会いなんて必要ない。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、下から伸びてきた小さな手がアダムの両頬を挟んで捕らえた。
「つらそうな顔してる、パパ」
覗き込んでくる翡翠色の瞳が心配そうに揺れる。
アダムはへらっと力なく笑った。
「俺さあ、大事な友だちと喧嘩しちゃったよ」
腕に収まる小さな少女が純粋すぎて、しがらみや意地、己の中に溜め込んできたたくさんのものが体から溢れてしまいそうになる。
「パパ、泣いてるの?」
「泣いてねェよ」
涙の源泉などとうの昔に枯れてしまったのだ。
アダムは明るく笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
「かなしいの?」
「…………ああ。かなしいよ」
哀しいんだよと、もう一度口の中で繰り返す。それがまるで拗ねた子どものようで、アダムは言いながら自分で可笑しくなった。闇の深い夜、ベッドの中で人肌を求めて枕を抱きしめるみたいに、一回り以上も幼い少女に温もりを求めた。
そんな気持ちを知ってか知らずか、コニファーの手のひらがアダムの左頬に触れた。つたない動きで何度も頬を撫で、慰めようとしてくれている。アダムは頭を素直に垂らしたままでいた。
「仲直りできる、まほうのことばをおしえてあげる」
ふいに少女がそんなことを言った。
ん、と瞼を押し上げ視線を落とす。アダムはそっと耳を傾けて、続く言葉を待った。
「ごめんね、っていうんだよ」
ベルが教えてくれたの、とコニファーは笑った。
「覚えとくよ……ありがとな」
どういたしまして、と笑うコニファーに目が眩みそうだった。
そんな単純なこと、いつから自分は出来なくなってしまったんだろう。
単純だけど大切で、明快だけど簡単じゃない。
アダムは眉を下げて情けない笑顔を浮かべた。
膝の上から飛び出して、コニファーは床に放りっぱなしのままになっていたスケッチブックへと駆け寄った。ページはパラパラとめくられ、真っ白な紙が出てきたところでその手は止まった。両手をめいっぱい広げてスケッチブックを掲げながら、「ここにパパのにがおえ描いていい?」と訊ねるコニファー。
「ああ、いいぜ。思いっきりかっこよく描いてくれよ」
満面の笑みでアダムは言った。自然と笑顔が溢れたのは、この少女に感化されたからに違いない。
子ども部屋のクレヨンを取ってくると言って、コニファーは部屋を飛び出していった。
すぐに静寂が訪れ、やがて窓の外から蝉の声が聞こえてきた。がらんどうの部屋から見る窓の向こう。切り取られた空の青さは思った以上に鮮やかだった。
生きる為に捨ててきたたくさんのものを想う時、もうアダムの心に痛みは生まれないけれど。
「お前はそのまま大きくなれよ」
見えなくなった小さな背中に、一人呟いた。
子どもたちの中に残ったままの『素直さ』や『純粋さ』に触れるとどうしてもそう願わずにはいられない。それがいずれ失われるものだとしても。
アダムは腰を上げた。部屋の隅まで歩いて行って、朽ち果てた鉛筆を拾い上げる。折れた芯の奥を覗いてみたら、まだ黒い芯は続いていた。
アダムは思い出したようにその辺に放っておいたペンケースからカッターを取り出して、鉛筆の先を削いだ。刃を斜めにあてて、一回、二回。くるりと向きをかけてもう二回。さらに向きを変えて……。
芯は簡単に顔を出し、鉛筆はすぐに元通りの形になった。
「……描くか」
鉛筆を上に向け、削った部分を確かめるように眺める。折れた鉛筆みたいに、きっと何度だってやり直せる。アダムは自分にそう言い聞かせた。己が諦めない限り、夢は決して終わらないのだと――その時、希望を根こそぎ葬り去ろうと、暴力的な記憶が視界に殴り込んできた。アダムは呻き声を上げてこめかみを押さえる。
『テメェには才能なんかねぇっつってんだろうが、糞ガキ!』
金の指輪をいくつも嵌めた汚らしい指が、オレンジ色の髪を鷲掴みにする。
『ごめ――ごめんなさい――牧師様』
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、それでも歪めてアダムは必死に懇願する。やめてくれと何度叫んでも、男は更に掴む力を強めるばかりで一向に手を離そうとはしない。
『謝罪の言葉なんざ聞き飽きてンだよ、この穀潰しめッ』
やめろ、やめてくれ――頭皮が破れそうだ。
『勝手に金を使ってまたゴミを生み出すつもりか?』
言葉にならない喘ぎ声が幼いアダムの喉の奥から漏れた。うるさいと腹を殴られ、息が止まる。床に崩れ落ちると、男はピカピカに磨かれた黒い革靴で腹の同じ部分を蹴り込んだ。うずくまる隙さえ与えずに、何度も何度もなじるように踏まれ、蹴られた。
すぐ側で誰かが何事かを叫んでいる。その訴えはもはや悲鳴に近かった。やめろ、とか死んじゃうだろ、といったような言葉だったのかもしれない。その時のアダムは痛みに耐えるので必死だったから、何を叫んでいるのかはっきりとは分からなかった。
滲む視界に一瞬映った真っ白な髪。すぐにそれが覆いかぶさってきて、視界は真っ暗になった。彼が庇ってくれている。
アシンドラ……。
暗がりの中でアダムは必死に身を縮こまらせた。ぎゅっと瞼を閉じても流れ落ちる涙。
――金を使ってまたゴミを生み出すつもりか?
身体の痛みなんてどれだけだって耐えられる。
だけど、痛いのは身体なんかじゃなかった。
本当に痛かったのは、ぐちゃぐちゃに踏みにじられた心だった。
「失せろ……クソ親父……!」
恐ろしく低い声でアダムは唸った。深く呼吸を繰り返す。しばらくすると、あたりはたちまち味気ない部屋の空気に戻っていた。心の波も穏やかさを取り戻していた。
忌々しい記憶を無理やりねじ伏せて、心の奥深い穴の更に奥へと閉じ込める。穴に蓋を閉じてしまえばもう汚らしい罵倒の声に苛まれることもない。そうやって、生きていくうちに己を守る術を身につけてきたのだ。アダムは真っ直ぐ上を向いたままの芯先を睨みつける。
もうあの頃の無力な子どもではない。
自分が本当に描きたいものとはなんだったのか。
答えはいつでも胸の中にあったのに、今までその想いと直面する勇気がなかった。
でももうそんなことも言ってられないのかもしれない。逃げるだけの日々は終わりにしなくちゃいけないのかもしれない。小さな女の子に貰った勇気を無下にはできない、とアダムは強く思う。
自分の描きたいものを描けるようになりたい。
子どもたちの素直さを守るための絵を。
子どもたちの純粋さを育てるための絵を。
そして――誰もが夢を捨てずに生きられる未来を。
無形の思いを形にするために、アダムはスケッチブックを手に取った。