第56話 軋轢
暑さに滴る汗を拭うこともせずにぼうっと座り込んでいると、ふとした瞬間不思議な感覚に囚われることがある。
例えばまとわりつく蒸し暑さに苛立つ気持ち。背中を流れる汗の不快感。そういったものが本当に突然、蜃気楼だったかのように心から消えてなくなるのだ。
蝉の鳴き声は遠のき、真夏の部屋は何故だか気温を失くし、世界から色が消える。やがて自分が今どこにいるのかさえ分からなくなる。
幼い頃、ルカはそれを『時が止まった空間』だと認識していた。突然現れるその空間では、面倒くさい悩み事も、煩わしい問題も考える必要はない。ただぼうっとしているだけで良いのだ。
今まさに、ルカは時の止まった世界に囚われていた。壁に掛けられた様々な飾りが視界から姿を消す。空間がシンプルになっていく。
刷毛を動かす手はぶらんと足の間に落ち、視線はキャンバスを通り抜け、まばたきすることすら忘れて――
その時、カランカランと錆びたカウベルが響き渡った。
ハッと目を見開いて音のした方に顔を向ける。ちょうど水差しとグラスを手に、ニノンがベルの家から戻ってきたところだった。
「おまたせ。お水持ってきたよ」
「ああ――ありがとう」
ルカは重たい頭をゆっくりともたげて、辺りを見渡してみた。
三つの輪が少しずつ重なった不思議な形の掛け時計。大きな島の地図に、プッシュピンで留められた大量の絵の具ラベル。おそらく使い終わったチューブから剥がされたものだ。隣にはロイヤルブルーやイエローで塗りたくられたヴェネチアンマスク。どこかの町で貰ってきた謎のチラシ。プロヴァンス風の濃い色をした幾種類もの布地。壁に貼り付けられたありとあらゆる雑貨はすっかり元の位置に収まっている。
「ベルさんがお水にレモンのスライスを入れてくれたんだよ」
ニノンは腕と胸の間で器用にグラスを挟みながら後ろ手でドアを閉める。
「夏にはこれがいいって」
ぺらぺら喋っていたニノンは、こちらを見るなりうっと眉をひそめ、次いで「すっごい汗」と驚きに目を円くした。そういえば身体中汗でベトベトだ。ルカは首筋を流れる汗を手の甲で拭った。
窓のすぐ向こうにうるさい蝉の鳴き声が戻ってきていた。
ここはかつてエリオたちがアトリエとして使っていた家で、今は誰も住んでいない。予定通り翌朝に手渡されたカヴィロの絵を修復する為に、ベルに頼んで鍵を開けてもらったのだ。幼馴染というだけあって、ベルの家からここまで数十メートルしか離れていない。作業するにはちょうど良い場所だった。
「水分取らないと倒れちゃうよ」
「ちょうど倒れそうだった」
「ええ? ダメだよルカ。ほらこれ飲んで」
並々と水の注がれたグラスを受け取りながら、ルカは礼を言った。
夏にぼうっとなるあれは、別に時が止まっているわけではない。熱中症間際。単純に水分が足りていないだけなのだ。
だから暑い日にはこまめに水分を取るようにと、ルカに教えたのは学校の体育教師だった。
そうやって、日常に潜む不思議は呆気なく解明されていく。
虹のふもとには宝物なんて眠ってやしないし、家の裏に茂るマキの森にはどこか別の世界に通じている道なんてない。地底に人は住んでいないし、海を越えたところで地図にない町なんてきっと存在しない。
ただ、ルカにとって、科学的な理論によって露呈された現実は決して滑稽なものなんかではなかった。世界の真理を知っていくことに別段寂しさを感じることもなかった。昔からそうだったからだ。
幼い頃からずっと、ルカは周りより大人びていた。ダミアンたちが学校で夢だの冒険だのと熱く語る姿を窓際でぼうっと眺めているような、そんな子どもだった。
『お前がいるとつまんねーんだよ』
そういって肩を押されたこともある。スカしていると難癖をつけて、彼らは幾度もぶつかってきた。その度にルカは、飛んできた虫が顔にぶつかったような態度を示してみせた。
『悔しいわ』
唇を噛み締めて呻くのはいつも隣村のマリーだった。『ルカは悔しくないの』と訊かれたこともあったが、その時どう返したのかはよく覚えていない。頷いていないことだけは確かで、マリーとは優しい人間なんだなぁとひたすらに感心していた記憶がある。
『別にどうってことない』
それは嘘なんかじゃなく、本心だった。ちっとも悲しくなんかないし、悔しくもなかったのだから。
どこか自分の住んでいる世界は彼らと違うような、他人事のような気がしていたから、心が傷つくこともなかったのだろう。
「ルカ?」
気がつけばニノンがこちらの様子を心配そうに覗き込んでいた。はっと我に返り、手元に残っていたレモン水を一気に煽る。
「なんでもないよ」
そう言って曖昧に笑ってごまかそうとしてみたけれど、目の下の筋肉が上手い具合に笑顔を作れているのか分からなかった。
――どうして今更、昔のことなんか。
「気にしてる?」
ぽつりとニノンが呟いて、確かめるような視線を寄越した後、こちらが口を開くより先に「よね」と結論付けた。
「別に……」
やんわりと否定したつもりだったのに、思ったよりもぶっきらぼうな声になってしまった。横顔を振り返ってみたが、ニノンは気にする風でもなく、脱脂綿をちぎっては爪楊枝にくるくると巻きつけて器用に洗浄用のめんぼうを作ってくれている。
ルカは言葉を続けるのをやめた。代わりに、静かに深く息を吐いた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
*
「アダム、お前もサロン・ド・コルシカに出展してみろよ」
まだ間に合うからと、カヴィロが上気分で提案したのは今朝のことだ。
「はあ? 俺が? ムリムリ、絶対無理」
アダムは顔の前で大げさに手を振った。
「無理じゃない。お前には才能あるんだから。なんてったって俺たちの愛弟子だしな」
「ばっか、才能なんかないっつの! そうやってからかうの、いい加減やめろよな。もう俺はガキじゃねんだぞ」
「んな事言ったってな、シャルル」
「昔の面影が残っているからどうにもな」
今でも下絵は雑なのか、とか親父と喧嘩はしてないか、とか口々に言っては笑い合う二人に、アダムはじっとりとした視線を投げつける。
「お前ら、なんでそんな呑気に――」
言いかけて、アダムは口を噤んだ。先に続く言葉はきっとエリオについての出来事を指していたのだろう。彼は思い直して空気を呑み込み、その不味さに顔をひしゃげさせている。彼らは同僚の死について何も知らされていないのだ。
不思議そうに首をかしげるカヴィロの視線から逃れるように、アダムの目線は宙をさまよっていた。気まずげにもごもごと口を動かしながら、なんとかごまかそうとしている。
「何?」とカヴィロたちが大げさに耳を近づける。くぐもった声が少しだけはっきりとしたものに変わった。
「絵画を高エネルギーに変えられるなんてチャンスを掴むのは一握りの人間だろ。なのに、二人はどうしてそんなに情熱的でいられるんだ。こんな、今でさえ」
語尾を強めて、アダムは言い切った。
時間と労力を掛けた結果、小銭程度しかバックされないなんて事はごまんとある。正直言って会社に勤めてこつこつ真面目に働いたほうが稼ぎがある場合も多いだろう。
いわば芸術家なんて、その辺の博徒と同じだ。
俯いて黙りこくってしまったアダムに、
「今の流行りを知ってるか?」
とカヴィロが唐突に訊ねる。
え、と口を開けつつも、指折り数えながらアダムは列挙する。
「鮮やかな色彩……風景画……喜びを表現した人物画?」
最後の言葉は自信なさげにか細く発せられた。
彼に相槌を返しながら、カヴィロは布で包まれたキャンバスをどっかりとルカの腕に落とす。どうも、と視線を送ると、相手からもよろしく、と視線を返された。意外と大きい依頼物だ。両腕をぐうっと伸ばしてやっと持てるくらいには横幅が広い。
「AEPの原理は未だ解明されてない。だから俺たちは手探りで高エネルギーに代わる絵を描かなきゃならない。砂漠の中から砂金を見つけるみたいにな」
細かい砂粒の中に紛れる黄金の輝きを想像してみた。ひとすくいした後、手の隙間からサラサラと砂をこぼす。顔を上げれば一面肌色の柔らかなじゅうたん。
どうあがいても見つけられそうにないな――ルカは想像の中でさえ一粒を探すことを早々に諦めた。
「はたして本当に砂漠に砂金なんか埋もれているのか?」
「あ? そりゃ埋もれてる可能性があるから探すんだろ」
カヴィロは大いに頷いた。
「それが大事なんだ」
「んん?」
アダムは見たこともない生物に遭遇したような顔をして首をひねった。
「「ある」と思って探すのと、「無いかもしれない」と思って探すのとでは圧倒的に発見率が変わってくる」
「何が言いてェのかさっぱり分かんねーよ」
僅かな苛立ちにアダムが片眉を上げた。
「つまり」
一歩踏み込んで、シャルルが言葉のバトンを繋ぐ。
「新たな高エネルギー条件を見つけたということだ」
「――なんだって?」
その反応に気を良くしたのだろうカヴィロが、ずかずかと家の中に足を踏み入れ――途中でベルの「勝手に入らないで、警察を呼ぶわよ!」という金切り声をものともせず――窓を勢いよく開け放った。ぐるんと一同に向き直り、自信たっぷりの笑顔を浮かべる。巻き上がるカーテンを背に仁王立ちする姿はまるで、恐れを知らないライオンのようだ。
「エリオのひまわりの花畑、ジャン=マルクのポルト湾海峡、モーリスの道ゆく人々、最近で真新しいのは確か連作で、レナルドの星の降る村。高い還元率を叩き出している絵は挙げ始めたらキリがないが、これらの絵画にはとある共通点があるのさ」
「共通点?」
カヴィロは深く頷き、強い光を込めた瞳でもって一同を見据えた。
「すべて、コルシカ島で描かれたものだ」
――コルシカ島で描かれた。
蝉の音が遠のいた。空気が息を潜める。室内に驚きが満ちる。
そして、静寂。
だが次の瞬間にはもうアダムが何かを口にしていた。ニコラスもそれに加担する。彼らのやりとりをぼんやりと眺めながら、ルカはひたすら頭の中で考えを巡らした。
還元率の良し悪しにこだわらないルカでさえ、その傾向には流行り廃りがあることを自覚している。エネルギー還元率の変動が機械の調子によるものなのか、もっと別の要因なのか、詳細は誰にも分からない。
ただひとつ言えるのは、一〇年前に高エネルギーに代わった描写方法が今でも通用するとは言い切れない点だ。逆に言えば、価値がないと謳われる描写方法が将来陽の目を見る可能性だってあるということだ。
高還元条件が描写方法だけに留まらず、今やモチーフにまで及んでいたとは驚きだった。
修復家を生業とする手前、仕事を終え手を離れた絵画がどれほどのエネルギーになったかなんて、ルカには知る由もなかったし、大して興味もなかったのだ。――そう、興味がなかっただけで、世の中は確実に進歩しているのだ。
これからはもっと高エネルギーを獲得する為の傾向や条件について、詳細が明らかになっていくだろう。不確定事項が減り、効率化が進む。描写方法やモデル、モチーフはどんどん体系化される。
もやもやと頭の中で渦巻いていた灰色の靄がぎゅっと凝縮して、これから目にするであろう世の中の景色を形作ってゆくのを、ルカは感じた。
コンピューターからの指令で動く絵筆。キャンバスに迷いなく入れられる一線。いくつものアームが寸分の狂いもなく色を置き、霧を吹き、ナイフが絵の具の山をカットする。きっちり同じ時間乾燥させ、完成した絵画はナノレベルで誤差を検知され、規格外品は跳ね除けられ、廃棄される。
ベルトコンベヤーに乗って流れてくるのは同じ模様の絵画ばかりだ。
淘汰されるマイノリティ。
未視感との決別。
背筋がゾッとする。
――ゾッとする?
そこでルカは、自身について首をかしげた。垣間見えた未来のビジョンが、何かとてつもなく恐ろしい光景に映ったのだ。物事が効率的になるのは良いことだ。何もおかしくなどないのに。
――本当におかしくないのか?
ぼかしのかかった視界の先で、カヴィロが大口をあけて笑い、鼓舞するようにアダムの肩をばしんと叩いた。アダムはというと、肘で男の体を押し退けつつも口元は緩まないようにと力が入っている。どうやらまんざらでもなさそうだ。
「条件にうまく焦点を合わせることができるかが鍵なんだよ」
掛け合いの中からそんな声が聞こえてきた。シャルルが短い言葉を続け、アダムが何か返す。また笑い声。
日常に潜む不思議が呆気なく解明されていくのと同じように、絵画に潜む美しさのメカニズムもまた、呆気なく解き明かされてしまうのだろうか。
絵画とは、そんなに単純なものなのだろうか。
ちく、ちく、と目に見えない細い針が、内側の膜から何度も心臓を突き刺した。思わずルカは顔をしかめる。心臓の底に沈んだ泥のような感情をすくい上げて、その正体を確かめようと目を凝らした。
悲しい、違う。侘しい、違う。怒り、それも違う。悔しい、惜しい。抵抗心。世の中を動かす目に見えない力への、抗いの気持ち。
心臓の中でどろどろと渦巻く感情に名前をつけきれなくて、ルカは思わず唸った。
ふと隣を見ると、真剣にどこでもない場所を見つめるニノンの横顔があった。
自分も今、ニノンと同じような顔をしていたのだろうか。
彼女の瞳の先にもまた、未来の風景が広がっているとしたら。そしてそれを彼女はどう思うだろう。
そんなことを考えていたら、どろどろとした感情は鎮まって、いつの間にか心に穏やかな風が吹いていた。広い草原に一人寝転ぶことが寂しいことだとは思わない。思わなかった。それは、隣に誰かがいることで得られる安心感に触れたことがなかったからだ。
こちらの視線に気がついたニノンは「顔に何かついてる?」と照れくさそうに笑った。
「ついてないよ」
「じゃあどうかしたの?」
「ううん。見てただけ」
「な、なにそれ」
ニノンはうろたえながら口の中でもごもごと何かを言った。肝心のルカは、すっきりとした表情で布地に包まれた手元の絵画を眺めるばかりだ。少女の赤く染まった頬にさえ気付いていない。
話がひと段落ついたのか、ほどなくしてカヴィロたちはベルに追い出されるようにして家から出て行った。
「俺、サロン・ド・コルシカに出展してみようと思う」
アダムがそんなことを言い出したのは、それからすぐのことだった。
「あれっ、アダム自分で嫌だって言ってたのに」
「気が変わったんだよ」
アダムは膝の上にコニファーを乗せて、ゆらゆらと上半身を左右に揺らしている。コニファーは両手に持った人形を動かしながら「気が変わったんだよ」と低めの声で繰り返し真似てみせた。
「こんな滅多なチャンスも無ェ。せっかく学んだ技術だし」
唐突だ、と思ったのはきっと、ルカが先ほど彼らの会話をろくに聞いていなかったからなのだろう。アダムは膝の上の少女を嬉しそうに抱きしめた。
「きっとアンタの師匠も喜ぶでしょうね」
喜ぶのだろうか。
「あいつの為じゃねェよ。何事も行動しなきゃ始まらないって思っただけさ」
ルカの頭を疑問が埋めていく間、会話はどんどん進んでいく。
「それもそうだね。で、出展する絵は?」
ぐらぐらと心臓でうごめく感情が喉元までせり上がってくる。
「ああ、今から準備する。モデルは決まってんだ。ベルとコニ――」
「やめた方がいい」
口をついて出た声は、思いのほか大きかった。
「……は?」
どうしたんだよ急に、とアダムは冗談っぽく笑ってみせた。ルカはもう一度繰り返す。
「『出展しない方がいい』って言ったんだ」
アダムの顔から笑顔が消える。
不穏な空気を感じ取ったのか、コニファーがぎゅっと人形を握りしめた。アダムはコニファーを膝から降ろし、手でベルの方へ行くよう促した。
「おいルカ、そりゃどういう意味だよ」
真剣な眼差しを据えて、アダムがこちらに歩み寄ってくる。
「そのままの意味だよ」
言いながら、抱えていた絵画を机の上に置く。視界の隅で、ベルがコニファーを抱えて部屋を出ていくのが見えた。
迫るアダムの眉間にひとつ、しわが刻まれる。
「俺の絵じゃ勝ち目がないって言いてんだろ? んな事なんざ自分でもハナっから分かってんだよ。だけどよ、やってみなきゃ分かんねェことだって世の中にはきっとたくさんあるはずなんだ」
二人は鼻先がつくほどの距離で視線をぶつけ合った。
「やってみようって勇気出したばっかなんだぜ。応援ぐらいしてくれよ」
なぁ、と凄まれて、ルカは一瞬上体を反らせた。
それでも――
「応援はできない」
「……あ?」
「アダムに展覧会は向いてない」
迷いなくルカは言いきった。琥珀色の瞳に浮かぶ瞳孔がギュンと小さくなる。体に衝撃。アダムが胸ぐらを掴んだからだ。
「ちょっとアダム、何やって――」
制裁に入ろうとしたニノンを遮るように、アダムが唸る。
「お前になにが分かるってんだよ」
「アダムちゃん、やめなって」
「指図される筋合いなんか無んだよ」
掴まれた襟首の生地が首に食い込んで痛い。僅かに呻き声をあげると、一瞬アダムの瞳が揺れたのが分かった。ルカは息を潜めた。怒りを込めきれていない瞳の中に、深い悲しみを見つけてしまったからだった。
「それでも俺は、反対だ」
模索するように、数秒間互いに見つめあった。だけどそこからはもう何も得られなかった。
「……ッ」
チッと小さく舌打ちすると、アダムは拳にいっそう力を込め、胸ぐらを押し返すように掴んでいた手を離した。衝撃でルカはよたよたと数歩後ろによろけこむ。
「ルカ!」
叫びながらルカに駆け寄るニノン。そんな少女にナイフのような鋭い視線を突き刺して、アダムはくるりと背中を向けた。
「アダム、ねぇ、どこ行くのアダム!」
「るっせーな」
ニノンの叫びも虚しく、アダムは乱暴に開け放ったドアの向こうへと姿を消した。
 




