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コルシカの修復家  作者: さかな
8章 孤独に咲くひまわり

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第55話 ベル

「何処にもって、そりゃ、つまり――」


 先に続く言葉を口にしたくなくて、アダムは縋るようにベルを見つめた。彼女は顔を背けたまま相槌も返さない。行き場をなくした視線が宙をさまよう。


「そ……んな訳ねェだろ、なぁ」


 随分とセンスのないジョークだ。それとも季節外れのエイプリルフールを楽しんでいるつもりなのか?

 アダムはそう言って、部屋に滞る湿りきった空気を笑い飛ばしてやりたかった。なのに、口からは水分が飛んでカラカラになった情けない笑い声しか出てこない。

 沈黙は、ベルの椅子を引く音によって破られた。彼女は言葉もなく窓際に立つと、観音開きの窓を開け放った。さめた風が吹きこんで、レースのカーテンを大げさに揺らす。


「あの人の有名な作品を見たことある?」

 窓の向こうに視線を向けたまま、ベルは唐突に問いかけた。

「あ? そりゃあるよ。ニュースとか雑誌なんかで……」


 ふらりと本屋に立ち寄った時にはいつも、必ず足を運ぶコーナーがあった。経済誌や科学誌なんかが並ぶ一角。そこに置かれているAEPの専門誌に、アダムはこまめに目を通している。専門誌にはエネルギー還元率の高い絵画が掲載され、どこがどう良かったのか、解説と分析が添付される。

 エリオの描く絵画はその専門誌の常連だった。


「ひまわり」

「――え?」

 思わず訊き返したアダムの言葉を素通りして、ベルは岩山の向こうに広がる空をじっと見つめた。


「エリオはひまわりの絵を描くのが好きだったの」

 と、少しの間の後、言葉が続いた。

「毎年ミュラシオルがひまわりで埋め尽くされると、子どもみたいにはしゃいでスケッチしていたわ」

「エリオの一番有名な絵画もひまわりの絵だったよな、確か」


 窓の向こう側に広がるなだらかな緑の丘。不安げな眼差しをその丘に向けるニノンの隣で、ニコラスは「やっぱりひまわり畑だったんだね」と呟いた。

 青い空の下、揺れる大きな葉。伸びる太い茎。てっぺんには固く結ばった大ぶりの蕾がついている。例年に比べて成長が遅いから、こんなに暑いのに畑は緑の波のままなのだ。未だ夏の空を知らない、眠ったままの地上の太陽。


「夏になるとひまわりを、秋には秋の絵を、冬には冬の絵を。次の年の春も、ずっとずっと絵を描いて、そうやって何年も過ごしてきたのに――昨年の夏、エリオは大好きなひまわりの中で消えていなくなってしまった」

「行方不明になったのかい?」


 ニコラスが首をかしげながら訊ねた。ベルは深くかぶりを振る。彼女は振り向いて、窓のさんに両手をつき、小さく息を吐いた。


「そうであればいいと思う。でも、きっとそうじゃないもの。だって、畑の中にエリオが被っていた麦わら帽子が落ちていて――」


 ふいに言葉が途切れる。さざ波のようにチョコレート色の瞳が揺れていた。彼女は少し躊躇した末に、「血がたくさんついていた」と付け加えた。


「な、なんだよそれ」

 アダムは(うめ)く。頭を鈍器で殴られたような衝撃が心を襲った。そんなの……と、吐息交じりの言葉を漏らす。そんなの、どうあがいたって最悪の結末にしか行き当たらないじゃないか。


「だから、もういないって言ってるじゃない」

 険しい顔をしていたら、ベルはもっと眉間にしわを寄せてそう吐き捨てた。

「エリオは何処にもいない。この意味が分かるでしょう? 彼は死んだ……ひまわりの中で、死んでしまったのよ。だから彼には二度と会えない。私も、あなたたちも」


「なぁ、それ、カヴィロたちは知ってるのか?」

 思わず腰を上げたアダムに、ベルの鋭い視線が刺さる。

「知らないに決まってる。彼らはエリオが、今でも病気で寝込んでると思っているもの」

「なんで……だって、あいつらずっと一緒でさ、俺が初めて会った時だっていっつも三人で――」

「知らないったら!」


 叫んでしまった後、ベルはひどく傷ついたような表情をした。しかしすぐに隠すように俯くと、「詳しく聞きたいなら本人たちに聞いたらいいでしょう」と苦しげに呟いた。


 声を掛けようと口を開いたけれど、何も言えなかった。ゆるゆると口を閉じて、腰を下ろす。アダムは何処ともつかない空間を見つめることしかできなかった。


 彼女はきっと何かを知っているのだろう。エリオに関すること。カヴィロたちに関すること。だけどそれを今この場で問いただすなんて、アダムには到底できるはずもなかった。

 スカートの裾をぎゅっと握りしめているベルの手は日に焼けて少し浅黒い。なのに随分と華奢に見えるのは、骨が浮くほどに痩せているからだろう。

 力の入る彼女の拳を見つめていると、視界に白いワンピースの裾が映った。アダムは視線を上げた。ちょうどニノンが窓際まで歩いていくところだった。


「コニファーちゃんはそのことを知らないんだね。だからお父さんが帰ってくるって信じてるんだ」


 太陽が傾いて、窓の外から強い日差しが射し込んだ。眩しくて思わず目を瞑ったら、瞼の裏側にオレンジ色が見えた。


「私にはあの子に事実を話す勇気なんてない。信じる事であの子が強くいられるなら、嘘も悪くないって思うもの」


(うそ)』。その二文字は細かいガラス片となってアダムの心臓に降り注ぐ。

 世界で一番嫌いな言葉だった。まるで鏡に映る自分を見せられている気分になる。自分は醜い人間だと思い知らされる。夢から覚めてしまう。思い出してしまう。現実を。

 だから、アダムはその言葉が嫌いだった。


 人目を気にしてアダムは小さく息を吐いた。そんな彼を、ルカは横目でちらっと伺った。だが気に掛ける素振りを見せることなくすぐに視線を外す。なんとなく、見てはいけないと思ったからだった。


「ベルさんは、コニファーのお母さんじゃないよね」


 アダムの喉に詰まった砂が消えた頃、ためらいがちに訊ねるニノンの声が聞こえた。そこまで必死になるのはどうしてなの、と。

 イメージを汲み取ったニノンでなくても薄々感づいていた事だった。コニファーとベルの顔立ちは全くと言って良いほど似通っていない。それに、コニファーはベルを一度も「ママ」とは呼ばなかった。


「私のこれはただのお節介。エリオがいなくなった時にね、コニファーは泣かなかったのよ。『パパは帰ってくるって言ってたよ』って言うばかりでけろっとしてるの。おかしいでしょう」

 ベルは首をすくめた。

「だからその時に私、ずっとあの子のそばにいるって決めたの。あの子が寂しくならないように。孤独に負けないように」


「ベルさん、あなたは――」

 言いかけたニノンの言葉を遮るように、ベルは初めて笑顔を見せた。


「ただの幼なじみなんだけどね。小さい頃からの、エリオの隣人。それだけよ」


 瞼を伏せるベルの背中越しに、陽射しが降り注ぐ。一瞬彼女の姿が神聖なる聖母に見えた。石段に腰掛け、慈愛の眼差しで全てを包み込む、母なる存在。


 気がつけばアダムは、頭の中のキャンバスにスケッチをしていた。雨ざらしの野に咲く一輪の花。或いは凛と生きる一人の女性。そのどれもに、決して折れることのない芯が通っていた。強さという名の芯が。

 マグマのようにドロドロとした熱い衝動が、腹の底から湧き上がってくるのを感じる。それは言葉となり、気付いた時には既に口から飛び出していた。


「ベル、良かったら俺の絵のモデルになってくれないか」


 唐突な申し出にベルはたいそう目を丸くした。脈絡もなにもないのだから、驚くのも当然だ。だけどアダムの心はもう決まっていた。

 この美しい人を描かなければと、強く思ったのだ。


「――ふふ」

 予想に反してベルは笑い声を漏らした。


「な、なんだよ。俺は本気だぞ」

「そう、そうね。ごめんなさい」


 口元に手を当てながら、ベルは溢れる笑い声を必死に抑えた。


「エリオも同じことを言ってたなぁって……それもあなたと同じで、思いついたようにね、いきなり言うんだから。画家ってみんなそうなのかしら」

「じゃあベルさんはエリオさんに絵を描いてもらったんだ?」

「まさか。恥ずかしくって断ったわよ」

 至極当然だと言わんばかりに、ベルの眉間にぎゅっとしわが寄る。

「そういうもんかしら」

 と、ニコラスは頬に手をあてて首をかしげた。


「小さい頃から一緒に育ってきたのよ。いきなりモデルになんて、嫌に決まってるじゃない」


 出会った当初を思えば、彼女の表情は随分と柔らかいものになっていた。ともすれば含み笑いすら零しながら、ベルは机の上のグラスを片付けていった。

 流しでグラスをすすぎながら「そういえば」とベルは零す。


「あなたたち、どうせエネルギー価格の高騰でしばらくこの付近に滞在するんでしょう。ヴィヴァリオのホテルは押さえてあるの?」

「まだ予約なんて取っちゃいないよ。何しろ価格高騰を知ったのが今朝のことだったからね。これから当たろうと思ってたところだけど」


 事の経緯を説明するニコラスの言葉を、ベルは振り向きもせずに「手遅れだわ」と一掃した。


「サロン・ド・コルシカが開催されるこの時期じゃあホテルなんてどこもいっぱいよ」

「げ、マジかよ」


 がっくりと肩を落とすアダムの隣で、ニノンは「サロン……?」と首をかしげた。


「年に一度コルシカ島で開催される『絵画の展覧会』だよ。サロン・ド・パリと合わせて世界の二大展覧会って呼ばれてる」


 うんうん唸っている少女を見兼ねて、ルカはこっそり耳打ちした。ヴィヴァリオの町中に飾られていた大量のフラッグは展覧会の宣伝だったのだ。通りが大勢の人で賑わっていたのも、ただの観光客ばかりという訳ではなさそうだ。


「価格の高騰が落ち着くまで家に置かせてあげてもいいわよ。部屋だけは無駄にたくさんあるから」


 ベルは四人に背を向けたまま口早に言った。そうして彼女は返答も待たずに、棚に仕舞ってある野菜を取り出し始めた。ニノンとニコラスは顔を見合わせて微笑んだ。

「サンキュ、ベル」

 呟いてから、アダムははっと我に返った。


「ちょっと待った――モデルの件、返事聞かせてくれよ!」


 慌ててキッチンに駆け寄ると、ベルは籠から取り出したじゃがいもをアダムの鼻先に突きつけた。

「な、なんだよ――イモ?」

 湧き上がる新鮮な土のにおいが鼻腔を突く。


「お手伝い。してくれたらね」


 そう言って、にこりとベルは笑ってみせた。



 *



 その日の夜になって、片田舎の家にまたしても訪問者があった。

 扉を開ければそこには見知った顔の男が二人、どっしりと佇んでいた。


「ち、ちょっと待て。今回はエリオのことじゃない」


 慌てて足を差し込んで、扉を閉められそうになるのを防ぎながら、カヴィロは訴えた。疑いの眼差しを向けたまま、それでもベルは力いっぱい扉を閉めようとする。そのうち「いって」と本当に痛そうな呻き声が聞こえてきた。


「道野琉海、お前に用事があるんだ」

「え……俺?」


 予想外の指名に、ルカは目を瞬いて扉の向こう側を見つめた。カヴィロが右手を上げてちょんちょんと手招きしている。


「なんですか?」

 濡れた手をタオルで拭きながら玄関先に立つ。

「急に悪いな。お前、絵画修復家なんだってな」

「そうですけど――どうしてそれを?」

「有名人じゃねェか、ルカ」


 いたずらっぽく茶々を入れてくるアダムを無視して、ルカは疑問をもう一度視線でぶつけた。何故この男たちは自分が修復家であることを知っているのだろう。

 首を捻っていると、シャルルがガサガサと鞄を弄りはじめた。取り出されたのは何か紙の束のようなもので――投げて寄越されたそれをルカは慌ててキャッチする。一冊の新聞だった。


「ローカルな島の新聞だが」


 シャルルに言われて視線を落とせば見出しには〈コルシカ新聞〉の文字。ローカルどころか、どの一家にも毎朝ポストに届くような、島の中では有名な新聞だ。中面を見ろ、とシャルルは新聞を顎でしゃくる。


「小さくだが、地味に載っていたぞ。『コルシカと日本のクォーター、若き修復家』。お前のことだろう」


「…………は!?」


 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。

「そんなわけ――」

 ルカは勢いよく新聞をめくり、該当のページを探した。きっと何かの間違いに違いない。新聞に取り沙汰される道理もなければ心当たりもないからだ。


 普段落ち着いている少年なだけに、慌てた姿が珍しかったのか「なんだなんだ」と興味津々に三人も集まってくる。やがてルカの手がぴたりと止まった。


「あらまぁ、しっかり載ってるじゃないの」

「これってヴェネチアのカーニバルじゃない? いつ撮られた写真だろう」


 口々に喋る彼らの言葉などまるで聞こえていないかのように、ルカは問題の記事を食い入るように見つめた。

 余った空白を埋める程度の小さなスペースだったが、確かに修復家についての記事が載っている。申し訳程度に添えられた白黒の写真はどう見ても盗撮で、道野琉海と思しき黒髪の少年の、ぼんやりとした横顔が写り込んでいる。


「おいルカ、これ、あのクソ女の仕業だ」苦虫を噛み潰したように吐き捨てて、アダムは記事の文末をトントンと指で叩いた。「著作権侵害で訴えてやろうぜ」


 〈ベッキー・サンダース〉。どう考えても見覚えのある名前だった。


「……やられた」


――クロードおじさん……。

 ものすごく悪い顔をしてタバコをふかす男が脳裏に過ぎる。途端に肩がずしんと重たくなり、ルカは盛大にため息をついた。


「落ち込んでるところ悪いんだけど、仕事を頼んでもいいか?」

「あ、はい――はい?」


 思わず顔を上げると、すぐ側にカヴィロの顔があった。男は大きな手でルカの肩を何度か叩きながら「修復の仕事だよ」と繰り返した。


「今描いてる絵とは別で、もう一点サロン・ド・コルシカに応募する予定なんだよ。昔描いた絵だ。だからそれをお前に修復してもらいたいと思ってな」


 仕事の依頼は普通なら泣いて喜ぶところだ。だが今のルカはそれどころじゃなかった。

 情報の乱用はやめてくれと、どうしてあの時もっと強く言わなかったのだろう。どうして後を追ってまであの女に念を押さなかったのだろう。静かな後悔がひたひたと心の中に侵入してくるばかりだ。極力目立たずひっそり生きる。それが自分の目指すところの理想的な生活なのに、と。


 ぐるぐる考えていたら、「頼むな」と笑顔を湛えたカヴィロに再び強引に肩を叩かれた。もう考えるのも面倒だ。断る義理もないのだし――ルカはなおざりに頷いたのだった。

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