第54話 路地裏の魔法使い(3)
りんごをかじりながら、五人はいろいろな話をした。
エリオとカヴィロ、シャルルはコルテにある学校のクラスメートだった。そこで絵を学び、卒業すると直ぐに家を借りてアトリエを作った。もちろん三人の共同アトリエだ。
そして今は、新鮮な風景や目線、知見を広げるために島を周りながら絵を描いている。
「で、カルヴィに滞在してる最中、たまたまコイツに出会ったってわけ」
ぺしっと音を立てて、カヴィロがアダムの頭を軽くはたいた。「いってーな!」と喚くアダムを無視して、カヴィロはりんごにかぶりつく。
「皆さんはアダムのことを助けてくれた恩人なんですね」
「正確に言うとエリオがな」
ぽつ、とシャルルが呟く。
「エリオさん?」
「えっ、俺、そんな大したことしてないってば」
はぐらかすように笑うエリオに構わずシャルルは続ける。
「正直なところ、はじめはアダムのことを乞食だと思っていた」
シャルルは芯だけになったりんごを仔猫の前でぶらつかせた。しばらくにおいを嗅ぎ、ペロリとひと舐めしたところで、仔猫はどこかへ走り去っていった。
「俺もだよ」
続けたのはカヴィロだった。
「ミモザが孤児院で暮らしてるのは分かったよ。だけどなぁ、アダム、お前本当に孤児院で暮らしてるのか? 靴はどうした?」
アダムはじっと己のつま先を睨みつけていた。むき出しの爪が黄土色に濁っている。少年が本当は路地裏に住んでいるのではないかと、三人は未だに疑っているのだ。
「あの――」
ミモザが何かを言いかけたが、アダムの手がそれを制す。間を置いて、俯いていた顔が上げられた。アダムは力いっぱい笑っていた。
「本当だよ。俺は乞食じゃなくて、ちゃんと孤児院に住まわせてもらってる」
作り物みたいな笑顔だ、とエリオは思った。袋の中のりんごのような、既製品じみた笑顔。
「俺が言うこと聞かなかったから、親父を怒らせちまったんだ。そん時俺も頭に血がのぼってたから、靴も履かずに孤児院を飛び出してさ――そうしたらなんか、帰りずらくなっちまって」
だからそんな同情めいた視線を寄越すのはやめてくれと、アダムはもう一度声を出して笑ってみせた。隣に立つミモザは俯きがちだったから、どんな表情をしているのか分からなかった。
その後、三人がアダムの家出について触れることはなかった。他愛もない話で盛り上がり、その中で少し孤児院についての話を聞いた。
教会の入り口には〈エンジェルボックス〉という箱が設置されていて、その箱には様々な理由から親の手を離れなければならなかった赤ん坊が投函されるという。
「エンジェルボックスは一度途絶えた文化だったの。設置してあるから捨て子が増えるんだ、って世間からは思われていたみたいです」
鶏が先か、卵が先か。
箱をなくしても捨て子は減らなかったということだろう。親なし子の住処が、教会から路頭に変わっただけで。エリオは腕を組んで低く唸った。
「だけどそれは表向きの理由で、本当はそんなに沢山の孤児を受け入れる資金がないから、ボックスの設置を取りやめたんだって意見もあるんです」
俯いたまま、アダムは意味もなく絵の具のチューブを弄っている。胸のところで両手を組んで、ミモザは話を続けた。
「お父様は――エドガー・オーズ牧師様は、我が身を削ってエンジェルボックスを復活させた、尊敬すべき人なんです。だって私たち、牧師様がいなければここまで生きてこれなかったもの」
最後の方は、祈るようなか細い声だった。
しばらくしてミモザは孤児院に帰っていった。どうもセントフローラの一日のスケジュールは過密らしい。やることが多いので、普段はなかなか自由な時間もない。だからこうして外でたくさん話ができて良かったと、去り際にミモザは笑った。
少女が姿を消した後の路地裏でアダムは再びキャンバスに向き直った。本人曰く「今描いてる絵が完成するまで帰れないだろ」そうだが、まだ孤児院に顔を出す踏ん切りがついていないようにエリオには見えた。
――だって私たち、牧師様がいなければここまで生きてこれなかったもの。
ふいに、少女の言葉を思い出す。彼女や或いは今目の前で一心に筆を動かす少年も、かつてはエンジェルボックスに投函された小さな赤ん坊だったのだろうか。
小さな体に、どれだけの荷物を背負っているのだろう。
そう思ったら堪らなくなって、エリオはやにわにキャンバスを取り出した。パレットに思い思いの絵の具を捻り出し、無心になって筆を動かす。
「なんだ、どうしたんだよ」
「インスピレーションでも降ってきたか」
二人の言葉には耳も貸さず、エリオはキャンバスに食らいついた。
こみ上げる悔しさが筆を突き動かす。荒々しさを増した筆捌きが絵の具の隆起を生み出していく。
悔しい。
もどかしい。
何もできない自分が情けない――。
「なぁ、エリオ」
「――え?」
気がつけばすぐ側にアダムが立っていた。
「画家はおうちゃくものになっちゃいけねェんだろ? エリオ、今雑に塗ってたぞ」
「あ……」
ハッと息を呑んでエリオは我にかえった。
目の前のキャンバスは塗りたくられた絵の具で溢れかえっている。イメージになる前の感情が、生地にぶつかって潰れていた。グレー、緑、青……そこからは何のイメージも伝わってこない。原始的な感情が渦巻いているだけ。
それは絵なんかじゃない。
ただの、色の暴力だ。
「ああ、そうだよなぁ。ごめんごめん、ありがとう」
キャンバスはすぐさま新しいものと取り替えた。
悔しさや悲しさを形に変えることの出来る人間がいる。しかし自分にはそれが出来ない。今この瞬間、エリオは悟ったのだ。自分はそれらとは真逆の感情を――つまり、喜びや感動を形にするのに長けているのだと。
「アダム」
「あ? なんだよ」
「今度は丁寧に描くよ」
「? ああ、うん」
汚れた筆が油の中で揺れる。
アダムやミモザを見ていて驚いたのは、まだ幼いのに口を噤むことを知っている事だった。自分の幼い頃を思い出してみる。おそらく、もっと自由気ままに、なにも考えずに生きていたはずだ。
彼らは己の保身のために言葉を選んでいるのではない。
自分以外の誰かの為に、その術を身につけたのだ。
なんとなくエリオはそう思った。
彼らが時折見せる冷めた表情の裏側に、一体何が潜んでいるのかなんてエリオには分からない。過去から背負ってきた荷物の重さを今更量ったところで、荷物の中身が軽くなるわけでもない。
だったらもう未来に願うしかないのだ。
今度は丁寧に白い絵の具を塗り込んでいった。一筆一筆に願いを込めて。希望を込めて。
絵は数日の後完成した。絵を渡す為に、いつもの路地裏にミモザも呼び出した。
「本当に行っちまうのかよ」
「短い間だったけど、楽しかったよ」
ジワジワと蝉が泣き叫ぶ、暑い夏の日だった。
それぞれが思い思いに別れの挨拶を交わす。その間じゅうアダムはずっと口先を尖らせていた。こういう時は子どもっぽいんだなぁと、少し和やかな気分になる。
いつまでも不貞腐れたままでいるアダムに、エリオはやれやれといった風にため息をついて、用意していたキャンバスを裏向きにして差し出した。「?」と首をかしげるアダムに、エリオはにこりと笑いかけた。
「貰ってくれる?」
「これって、エリオがずっと描いてたやつ……」
「そ。完成するまで見ちゃダメって言ってた絵。完成したから君たちにプレゼントしようと思って」
ひっくり返してみて、と視線で伝える。先ほどの不機嫌さはどこへやら、二人はクリスマスプレゼントの蓋を開ける時みたいにわくわくと瞳を揺らした。
ゆっくりと表を向くキャンバス。一面に淡いベージュ色をした背景が広がっている。その真ん中には――そこで、二人はあっと声を上げた。
「私たちを描いて、くれたんですか……?」
エリオは優しく微笑んだ。二人は再びキャンバスに視線を戻す。そこには少年と少女か肩を寄せ合い立っていた。その顔に、溢れそうな笑顔をいっぱい浮かべながら。
「――アダム、大丈夫?」
「え、あ、あれ、なんで……」
ミモザが心配そうにアダムの顔を覗き込んだのは、彼の右目からぽろっと涙が溢れたからだ。
アダムはひどく驚いて、ごしごしと何度も目元を擦った。
「いつかきっと、心から笑える日がくる」
思わず口から零れた言葉に、自分でも驚いた。そんなエリオに視線を向ける二人。一瞬口を噤もうか迷って、しかしエリオは続けることにした。
「この絵みたいにさ――だって俺は魔法使いだからね」
夏の訪れとともに現れた魔法使いは、太陽によく似た笑顔を路地裏に残していった。
幼い修道女と少年の背中が寂しげな影を落とす。大人たちは年相応の控えめな笑顔を作る。名残惜しさを少しだけ忍ばせ、手を振り別れを告げて――そんな路地裏の風景に、ザザ、とノイズがかかった。古びた映画のフィルムみたいに景色がずれて、彼らの表情が、景色がうまく見えない。
あんなにうるさかった蝉の音もいつの間にか消えていた。
映像は早送りのコマのようにどんどん進んでいく。町を発った三人が足早に島を駈けぬける。やがて仲間が増え、一人、二人とアトリエに住まう人数が増えた。
映像はどんどんスピードを増していく。エリオが誰か――おそらくアトリエの仲間の――女性と手を取り合っている。次の瞬間、女の腕の中には赤ん坊が抱かれていた。
オレンジ色の髪の男が嬉しそうに赤ん坊の名前を呼んで笑っている。父親の顔をして笑っている。
ガシャンと音を立てて、映像が切り替わった。
一面黄色のひまわり畑。その上をものすごい勢いで流れていく白い雲。狂った秒針のように空を登り下りする太陽と月。花畑は黄色と緑を繰り返し、空は何度も夏を過ぎ冬を越えた。
少女は心の中でそっと呟く。
あなたは私に何を見せたいの――と。
その瞬間、ザアッと強い風が吹いた。少女の朝焼け色をした髪の毛を煽り、遠い空へと抜けていく。
風が止んだ時、ニノンはひまわり畑の丘の真ん中に立っていた。
なだらかに下っているひまわりのじゅうたんをぼんやりと眺めていると、下りきった先の所に誰かが一人で立っているのが見えた。それは綺麗なオレンジ色の髪の毛の男で、背を丸めて俯いているようだった。
泣いているのかもしれない。
そう思った時には既に、ニノンは黄色の海を掻き分けて丘を下っていた。
遠くの空から微かな蝉の声が聞こえる。
なんて寂しい場所だろう。懸命に前へと進みながら、ニノンは思った。孤独の草原。終わらない夏。出口のない迷路。腹の底からじわじわと這い上がってくる焦燥感に蓋をして――そうしてふいに、男の声を聞いた。
正確に言うとそれは声ではなく、男の感情そのものだった。
大それた野望なんてない。有名になりたいわけじゃない。
自分が描いた絵がエネルギーとなって人の世を回していくことも大切だけど、それよりもっと原始的な方法で、人を救いたい。
例えば誰かの悲しみに寄り添うような形で。
例えば誰かの忘れてしまった小さな幸せを探す手助けを。
『俺は、そんな画家になりたかったんだ』
男の声が幾重にも重なって空から降り注いだ。するとどういう訳か、今まで黄金色だったひまわりが墨でも塗りたくられたかのように真っ黒に染まり始めた。
「エリオさん!」
ニノンは懸命に男の名を呼んだ。早くしないと真っ黒いひまわりで溺れてしまう。それなのに、丘のふもとに佇む男に声が届かない。
黒いひまわりは津波のように広がって、やがて全ての黄色を呑み込んだ。
*
「――ってことがあってさ。それから俺は絵を描くように……ニノン、具合が悪ィのか?」
気付けばいくつもの心配そうな視線が顔色を覗き込んでいた。
「あっ、ううん、大丈夫だよ」
流れ込んできた映像や言葉を口に出してしまおうかと一瞬迷ったが、止めた。花畑にいた彼が誰かに伝えたくてメッセージを発したのか、それとも彼の心に閉じ込められた感情が知らぬ間に溢れてしまったのか、ニノンには分からなかった。
アダムは腑に落ちなさそうに眉を潜めていたが、すぐに引っ込めて「とにかくさ」と会話を元に戻した。
「エリオは挨拶を交わした程度の知り合いなんかじゃねんだよ。尊敬する、大事な人なんだ」
真っ直ぐすぎる視線を受け止めきれなかったのか、ベルはアダムの手元のグラスに視線を落とした。氷はすっかり溶けて、ミルクと水が二重の層を作っている。
「あなたがただの知り合いじゃないってことは分かったわ」
ほっと一同が溜息をついたのも束の間、ベルは「でも」と眉間にしわを寄せて唸った。
「あなたたちはエリオには会えない」
「どうして!」
「さっきもあの人たちに言ったけど、会える状態じゃないの」
「それは、どういう意味で――」
何かの病気なのかもしれない。言葉を詰まらせながら、アダムは思った。きっと感染する病気なのだ。だからどこかに隔離されていて、娘のコニファーとも会えていないのだ。きっとそうだ。
「いないからよ」
「……いない?」
暗い影を落としたままのベルの瞳が、アダムに現実を突きつける。
「彼はもう何処にもいないのよ」
 




