第53話 路地裏の魔法使い(2)
「……なんか増えてるし!」
両手いっぱいにパンを抱えて戻ってみれば、路地裏の男は三人に増えていた。こぼれかけたパンを慌てて抱え直すアダムに、「おかえり」とエリオが朗らかに笑いかける。
あれから男たちは毎日のように路地裏に顔を出した。
「俺に絵の描き方を教えてくれよ」
アダムが唐突に、そんなことを言いだしたからだ。
エリオは二つ返事で承諾した。嫌な顔一つしなかった。捨てられた仔猫を毎回拾ってくるような、バカの付くほどお人好しな男のことだ。カヴィロとシャルルは今更友人の言動に驚きやしなかったが、渋い顔で精一杯反対を示した。
しかし、やがて二人も少年の真っ直ぐな瞳にほだされたのか、気がつけば「下地の色は……」「ここはナイフを使うんだ」と率先して口を挟むようになった。
彼らは純粋な気持ちにほだされただけではない。
アダムの成長には目を見張るものがあったのだ。
まるでカラカラに乾いた鉢植えの土が水を吸い込むように、道具の使い方を覚え、デッサンの基本を身につけた。数日前に初めて筆を握ったとは思えないほど、驚異的なスピードだった。
だから教育が始まって何日目かの昼中、思わずエリオは「どこかで絵の勉強を?」と尋ねたのだ。アダムは首を横に振ってそれを否定した。
「俺、学校行ってねーし」
ちょうどアダムは路地裏の風景をデッサンしているところだった。鉛筆を縦に持ち、片目を瞑りながらパースを計る。そうするとかっこよく見えるからと、教えたのはカヴィロだ。
「アダムはここに住んでるの?」
「んな訳ねェじゃん。死んじまうよ」
キャンバスに夢中になっている少年には、あの日路地裏の隅で野垂れ死にそうになっていた面影などこれっぽっちも見当たらない。服は汚れていたし、靴も履いていなかった。頬には生傷。てっきりカルヴィのストリートチルドレンだとばかり思っていたが、どうも違うようだ。
「俺ん家はセントフローラだよ」
人知れずエリオが安堵のため息をついていると、アダムは顔も上げずにポツリと呟いた。
「セントフローラ?」
地名か、通りの名だろうか。エリオとカヴィロは揃って首をかしげる。少し離れた所で、シャルルがパンの欠片片手にしま模様の子猫と戯れている。
「この辺でいっちばんでかい、ピンク色した教会だよ。コロンブス大広場を一本入ったとこのさ。見たことあんだろ? そこの孤児院に住んでる」
「ああ……」
ピンク色の建物でピンときた。熟した桃のような濃いピンク色で壁一面を塗りたくられた、バロック形式の教会が、確かに広場のすぐ近くに建っていた気がする。奇抜な建物だなぁと眉をしかめたから、三人はその建物のことをよく覚えていた。
「こんなところにずっと居て、孤児院の人に心配されるんじゃないの?」
「心配だって?」
そこでようやくアダムは顔を上げた。おどけたような、びっくりした表情をしている。かと思えば鼻で笑って、
「ないない、ぜーったいない!」
と言い放った。
「いや、心配するだろ普通。仲間と喧嘩でもしたのかよ」
その傷、とカヴィロは自身の右頬をつつきながら尋ねた。
「ああ、これ」
アダムはつまらなさそうに呟いて己の口元に目をやった。右頬には出来たばかりのかさぶたと、紫色の内出血が痛々しく咲いている。
「クソ親父にやられた。喧嘩とか、そんな対等なもんじゃねーよ」
「親父って」と、エリオが慌てて訊き返す。
「孤児院の――牧師が君に手をあげるのか?」
アダムは一瞬、ひどく冷めた視線を何処か遠い場所に投げかけた。何十年も生き抜いたような大人びた横顔は、次の瞬間には消えていた。
「俺が男だからな」
え、と訊き返そうとしたけれど、アダムはすぐにキャンバスに向き直り、再び筆を動かし始めた。
「あー、デッサンもうこれでいいや。はい終わり。次色塗っていいよな!」
無理やり話題を切り上げて、アダムは足元に置かれた麻袋をがさがさと漁り始めた。取り出したのは使い古しの油絵の具。アルミチューブの尻部分は無駄なく丸められている。青、黄、茶と手当たり次第に掴んでは、バラバラと石畳の上に放り出した。
――随分下手なはぐらかし方だなぁ。
エリオは思ったが、それ以上詮索するのはやめた。
理不尽な出来事に遭遇した時にはいつだって、心の中が言い様のないやるせなさともどかしさでいっぱいになった。
そんな時は自分に言い聞かせるのだ。
真相も理由も知らないくせに、部外者のくせに、と。
そうすることで気持ちの泉に栓をすることを覚えた十代の終わり。大人になったと言えば聞こえは良いが、それが何の解決にもならないことをエリオは知っている。だからと言って、いくらもどかしさを胸に滾らせたところで意味がないこともちゃんと分かっている。
正直な気持ちを吐き出せないのは、本当の自分を晒して傷つくのが恐いからだ。
口に出す前に頭の中で意見を淘汰するのは、常識のボーダーラインから逸脱した瞬間、人が孤独になることを知っているからだ。
結局は祈ることしかできない。願いは体の内側をぐるぐる回って、永遠に放出されることはない。
やはり自分は偽善者なのだろうか。
「だから、お前そこを面倒くさがったら駄目だって」
ぼんやりと考えに耽っていたエリオの耳に、呆れたようなカヴィロの声が飛び込んできた。
「いいじゃん別に、どうせ絵の具を乗せたら消えるんだろ、下絵は!」
「あのなぁ。そういうことじゃなくて……」
カヴィロの吐いたため息の塊が、蒸し暑い空気に混じって消える。側から見れば言うことを聞かないペットと、手なづけるのにあくせくしている飼い主のように見える。
「俺は早くキャンバスを色でいっぱいにしてェんだよ。エリオだってそうだろ、パンの絵描くの、すげー速かったもんな!」
いきなり同意を求められ、油断して笑いそうになっていたエリオは慌てて可笑しさを呑み込んだ。そうしていつものゴミ箱からやれやれと腰を上げると、不貞腐れている少年の顔を優しく覗き込んだ。
「あのな、画家が一番やっちゃいけないのは『横着者』になることさ」
「おうちゃく?」
「面倒くさがるってこと」
「めんどくさがってなんか……おい!」
言っている途中でエリオがアダムの頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。
「やめろ、子ども扱いするな!」と、アダムが喚く。
「いや、子どもだろう」
すかさずシャルルが指摘する。
「子どもじゃねぇ!」
「じゃあガキだ」
意地悪い笑みを浮かべてカヴィロも加勢する。
なんて大人気ない大人たちだろう――思わずエリオは吹き出した。それを見てバカにされたと思ったのか、アダムは顔を真っ赤にしながら「ばかやろう!」と腕を振り回す。
「こら、筆持ったまま暴れたら服に絵の具が――あれ?」
ふと、視線が少年の背後、路地裏の入り口を捉えた。誰かがこちらをじっと見つめていたのだ。華奢な背丈から見るにまだ子どもだろう。表情は影になっていてよく見えないが、両手に紙袋を抱え、修道女の制服に身を包んでいる。小さなシスターだ。そう思い至った瞬間。
――べちゃっ。
嫌な音。嫌な感触。あ、とエリオが思った時には既に、白いワイシャツの腹辺りに茶色の絵の具がべっとりとへばりついていた。
「…………!」
四人の視線が茶色い染みに集中する。みるみる青くなっていく少年の顔。
アダムがうまく言葉を発せないでいると、大通りの入り口に突っ立っていた修道女がつかつかとこちらにやって来た。やがて少女はアダムを守るようにエリオとの間で立ち阻むと、怯えを押し込めた強い瞳で見上げてきた。
「あの、ごめんなさい。この人、悪気はなかったの」
「ミモザ!」
驚きの声をあげて、アダムは少女の背中を見つめた。
「許してあげて……お願いします」
つつけば弾けてしまいそうなほど緊張した声で少女は懇願する。力いっぱい握り締められた紙袋には、シワが寄ってしまっている。エリオは困り果ててまた眉を下げた。
そんなに恐い大人に映ったのだろうか。路地裏に少年が一人、それをぐるりと三人の男たちが取り囲んで――確かに、少し恐いかもしれない。
「いや、あの……大丈夫だよこれくらい。どうせ元から汚れてる服だし」
少女の警戒を少しでも解こうと、エリオはへらっと笑いながらワイシャツをぴらぴらやった。
「ミモザちゃん、だっけ。アダムの知り合い?」
エリオは腰を曲げて優しく尋ねた。少女の表情が警戒から困惑に変わる。ぬるい風が吹いて黒い修道服の裾をなびかせた。
知り合いだなんて、愚問だ。この子も孤児院に暮らしている一人なんだと、喋っている最中に気がついた。
「そうそう、この子も俺と同じでセントフローラに住んでんだ。ああミモザ、この人たちはさ、なんつーか……そう、俺の友だちなんだ。ここで絵の描き方を教えてくれてんだよ。良い奴らだぜ」
アダムは首を交互に振りながら忙しく説明をする。
「絵を?」
「うん。油絵な」
「孤児院を追い出されてからずっと?」
「そう。いや、もう戻ろうと思ってたけど」
最後、アダムは笑ってごまかした様だった。その途端、少女は崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまった。
ぎょっとして俯いたままの少女を見つめる。泣いてしまったのだろうか。ややあって「……良かった」と泣きそうな声が微かに聞こえた。
「あの、ミモザ」
突然の事にアダムがうろたえていると、ミモザはすっくと立ち上がり、彼に詰め寄った。瞳には薄っすらと涙の膜ができているように見える。
「お金も食べ物も何も持たずに家を出て行っちゃったから、私ずっと心配で。だってアダム、全然帰ってこないんだもの。……でも良かった、無事で」
そう言って、ミモザは本当に嬉しそうに笑った。
「――悪かったよ、心配かけて」
アダムはバツが悪そうに頭を掻いた。
首をゆるく振って、いいの、と言葉なく答えるミモザ。そうして目尻に追いやられた涙を拭いつつ、少女は抱えていた紙袋の中身を広げて見せた。袋の中にはニスを塗ったようにつるりとした、真っ赤な実がたくさん詰め込まれていた。
「お腹空いてない? りんご、たくさん持ってきたの」
作り物みたいなりんごを片手に、ミモザは緊張から解き放たれた笑顔で振り返った。
「皆さんも良かったらぜひ」
 




