第52話 路地裏の魔法使い(1)
招き入れられた家の中は干し草のような懐かしいにおいがした。どこか青っぽい、山奥の素朴なにおいだ。
お邪魔しますと小さく挨拶をしながら、ルカたちは並んでダイニングテーブルの椅子に腰かけた。奥のキッチンでは老夫婦がこちらに背を向けて立っている。コニファーが駆け寄ると、女は腰を屈めてグラスがいくつも乗っかった盆を手渡した。
「こぼさないようにね」
「わかってるよー」
言ったそばから駆け出す少女。その小さな背中を、サンタクロースのような白ひげを撫でつけながら初老の男が危なっかしそうに見守っている。
「はい、あげる。グランマから!」
少女の目線と同じ高さの机の上に、ゴトゴトと音を立ててミルクの入ったグラスが並べられた。ニノンが白い液体にぷかぷか浮かぶ氷の塊を覗き込んでいると、それは羊のミルクに栗の花から採れる蜂蜜をたっぷり溶かしたものだよと、初老の女が奥のキッチンから教えてくれた。
「コニファーちゃん、お手伝いしてえらいね」
少女に顔を近づけてニノンは微笑む。
「うん。コニーね、えらい子だからいーっぱいおてつだいするの」
いーっぱい、と言いながらコニファーは小さな両手を懸命に引き伸ばした。きっと頭の中では地球よりも大きな尺の「いっぱい」が浮かんでいることだろう。やりすぎてよろける少女に、アダムは「危ねェなあ」と苦笑を漏らす。大きな手が小さな背中を支えると、少女はそのまま少し上体を反らして、満面の笑みを頭上に向けた。
「いい子にしてたらパパは帰ってくるって約束してくれたもん。だから帰ってきてくれたんだよね、パパ」
「あのなぁ、コニファー。俺はさ、」
お前のパパなんかじゃない。誤解なんだとはっきり言ってやろう――アダムのそんな意気込みも、翡翠色の瞳が放つ真っすぐな光の前にいとも容易く崩れ去ってしまった。
「またパパのお顔描いてあげるね」
「お顔?」
うん、とコニファーは嬉しそうに頷く。
「あたしね、パパの髪の毛ぬるのだいすきなの。だって、パパの髪はあまーいパンプキンの色だもん!」
「パンプキン――」
脳裏に懐かしい男の姿が過る。
アダムが言葉に詰まったのは驚いたからだった。かつて自分と同じ髪色の男に、出会ったことがあったから。
詳しい状況は分からないが、コニファーの父親は訳あってこの家にはいないのだろう。そして、コニファーは父親の帰りを健気に待ち続けているのだ。
アダムは自身を通して父親の影を求める少女の眼差しを受け止めるしかなかった。こんな時、どんな言葉を選べば正解なのか分からない。
「俺は……」
その先に何を続けたら良いのか分からなくなって、アダムは気まずさを空気と一緒に呑み込んだ。
その時、少女の頭上からベルの腕がぬっと伸びてきて、そのままコニファーの体をくるりと反転させた。
「コニファー、グランマたちとおやつ食べておいで。今日はグランパ特製のアイスだから」
「アイス!」
と叫んで、コニファーはうさぎのようにぴょんぴょん飛び跳ねた。やがて少女は老夫婦に連れられてダイニングから出て行った。
「ベルちゃん」
「ちゃん付けしないで」
椅子に腰掛けながら、ベルはアダムの呼び掛けをぴしゃりとはね退けた。アダムは気まずそうに眉尻を下げる。
「ベル――は、コニファーのお母さんなのか?」
返答はない。探るような視線から逃れるように、ベルは机の上で組んだ己の手の甲を一心に見つめている。
「じゃあ質問を変える」と、アダムは矢継ぎ早に続ける。
「コニファーの父親はエリオか? エリオ・グランヴィルなのか?」
――同じ色の髪だな。
そう笑いかけてくれた日のことを、アダムは昨日のように思い出せる。
出会った頃のエリオは今みたいに巨匠だなんて呼ばれていなかった。年の割にはあどけない笑顔を見せる、普通の青年だった。
ややあってベルは顔を上げた。その瞳にはどす黒い色が滲んでいる。ともすれば恨みすらこもりそうな鋭い視線がアダムに突き刺さる。
その視線はすなわち、肯定の印だ。
「あなたたち、一体なんなの? いきなりやって来て詮索して……何が目的よ。――ううん、分かってるわ。あなたたちもエリオの絵画が目当てなんでしょう。知り合いですって? 一言挨拶を交わした程度で友人になれる今日だものね」
反論を許さない棘のある言い方だった。言い淀むアダムの肩に、ニコラスの手がそっと置かれる。
「この子ね、アダムちゃんって言うんだけど、あの女の子にパパと勘違いされてしまったのよ。ヴィヴァリオのストリートでね。迷子なんじゃないかって、私たちはただの親切心でここまで送り届けただけなのさ」
「私たち、この村が巨匠の故郷だってことも知らなかったくらいなの。下心があってこうしてお話してるわけじゃないよ」
ニノンは心配そうに彼女の顔を覗き込むと、そっと続けた。
「ねぇベルさん、何か困りごとがあるんだよね?」
彼女の瞳の濁りが一瞬揺らぐ。
ベルは何かを口ごもり、しばらくしてぽつりと呟いた。
「あなたたちには分からないわ。ううん、話したところできっと誰にも分からない。だって人間はみんな、孤独な生き物だから」
ミルクの中で氷がカランと音を立てた。汗をかいたグラスを置いて、アダムは小さく息を吸った。
「じゃあ俺が、今から昔話をする」
「――は?」
いきなり何を言い出すのかと、ベルは眉をひそめて目の前の少年を見た。
「俺は昔の話をするのがあんまり好きじゃねんだ。だから今から少しだけ話す」
ますます訳が分からない、とでも言いたげなベルの顔を見やりながら、アダムは続ける。
「あんたに心を開いてやるって言ってんだ」
「心って、そんな、口先だけで言われたって……」
「アダムは本気で言ってると思うよ」
随分と口を閉ざしていたルカが、彼女の言葉を遮るようにぽつりと言葉をこぼした。
ベルの視線が青い瞳に移る。
「以外と真面目で、人助けが好きだから。こう見えて」
「そうそう、普段はチャラチャラしててせこくて怖がりなんだけどね」
「あと女タラシね」
「お前らなあ、一言二言余計だっつの!」
吠えるアダムを見て、ルカが少し笑う。つられてニノンとニコラスも笑う。ふんっとそっぽを向いて、アダムはむず痒そうに鼻先を擦った。
「そういうわけだから、教えてやるよ。もう十年以上も前の話だけど――俺が孤児院で暮らしていた頃の話をさ」
孤児、とベルは口の中で小さく呟いた。
「故郷の港町カルヴィで、俺は初めてエリオたちに出会ったんだ」
*
コルシカ島北西部に位置する港町・カルヴィに、今年も初夏が訪れた。
白壁の建物が迷路みたいに入り組む路地裏。白壁といってもよく分からない汚れがこびり付いて灰色になってしまっているから、正確に言えば白くはない。
そんな薄汚い壁際に、座り込む一人の子どもがいた。
少年はうつむき、むき出しのつま先に付いた土汚れを指で弾いている。
カルヴィに吹く風はいつもどこかべったりとしている。海で潮をたっぷりと含んでくるからだ。潮風が細い路地を縫うように吹いて、少年の頬に出来たばかりの傷口を疼かせる。
それが妙に悔しくて、自分の弱さがやるせなくて、少年は建物に切り取られた水色の空を睨みつけた。
汚れひとつない青空が浅はかに見えてくる。これっぽっちも綺麗に思えない。目に見える全てが憎しみの対象に変わる。
「こんな汚ねェ世界、ぶっ壊れちまえばいいんだ」
あらん限りの嫌悪を込めてそう吐き捨てた時、ふいに少年の視界が陰った。
「そんな物騒なこと言うもんじゃないぞ?」
呑気な声が頭上から降ってくる。少年は声のした方をじろりと睨みつけた。
「……誰だよお前」
「俺? 俺はエリオ・グランヴィル。エリオって呼んでいいよ。きみは?」
エリオと名乗った男は綺麗なオレンジ色の髪をなびかせながら笑った。
同じ色だ、と少年は思った。
同じだけど違う。男の髪色が太陽の光をぎゅっと集めたオレンジなら、自分は腐り落ちて地面で潰れているオレンジだ。
そんな、世の中に満ち溢れる不公平が憎くてたまらない。
「なんで俺がお前に名前教えなきゃなんねェの」
男は間抜け面を晒しながら、んー、と首をかしげる。そして臆することなく少年の側にしゃがみ込むと「俺が知りたいから」と言って、口の端をニッと持ち上げた。
――馴れ馴れしい男だな。
はじめは気味悪がっていた少年だったが、一向に腰を上げようとしない男につい根負けした。嫌味ったらしく溜息をついて、
「……アダム」
とだけ呟いた。
「アダムかぁ。良い名前じゃん」
「なにが良い名前だよ。適当なこと言いやがって――」
喋っている途中、腹からきゅるきゅると余計な音が鳴った。アダムはぎくりと肩をこわばらせ、意味もないのに咄嗟に腹を凹ませた。
「ぶっ」
と、エリオは堪えきれずに吹き出した。
「わ、笑うな!」
「ごめん、腹減ってカリカリしてたのかと思うと……くっ」
「悪ィかよ!」
「いや、悪かないよ」
エリオは笑いを噛み殺した。
「人間おなかが空けば腹もなる。俺もなるしね」
「お前の腹がなったって俺はちっとも嬉しくねーよ」
「あはは、そりゃそうだな」
エリオは立ち上がると、今度はすぐ側にあった蓋付きゴミ箱にどっかりと腰を下ろした。
「アダム、魔法使いって信じるか?」
「はぁ?」
大声を出した途端、乾燥していた口の端が切れた。ビリッと痛みが走ったが、アダムは目の前の男にばれたくなくて、「そんなのいるわけねーよ」となんでもない風を装った。
エリオは何故か嬉しそうににんまりと口角を上げる。
「じゃあさ、俺が魔法使いだって言ったら?」
「気味の悪いペテン師」
「なるほど」
「それか、頭のイカれた放浪者だ」
「難しい言葉知ってるじゃん」
言いながら、エリオは担いでいた大きな鞄から何か四角いものや、紐で縛られた沢山の棒のようなものを取り出した。最後に出てきたのは折りたたまれたイーゼルで――もちろん、アダムはそれが何なのか分からない。訝しげに男の様子を伺うばかりだ――男は路地裏にイーゼルの脚を開けて立たせると、小さな無地のキャンバスを乗せた。
「頭のイカれた魔法使いが、今からアダムのお腹を満腹にしてみせよう」
自信たっぷりに微笑んだエリオは、手にしたパレットに絵の具をひねり出した。ぽかんと口を開けたままその場に立ち尽くすアダムを余所に、エリオはキャンバスに絵の具を塗りたくる。
まるで魔法使いが杖を振って魔法をかけているみたいだった。絵筆が踊る。パレットナイフが滑る。真っ白なキャンバスに色が咲く。
「はい、できた」
「わ……スゲェ。これ、お前がいま全部描いたのか」
「『お前』じゃなくて『エリオ』な」
キャンバスの中には石窯から出てきたばかりのパンがごろごろと積み重なっていた。寄り添うように置かれたりんごは血のように赤い。
それはアダムが今まさに食べたいものばかりだった。どうしてエリオは分かったんだろう――だけどそんなことはどうでもいいか、とアダムは思った。
この小さな一皿をいつまでも眺めていたかった。
どのパンよりもパンらしい、どのりんごよりも価値のあるりんごを。
「……って、これただの絵じゃんか。腹なんか膨らまねーよ!」
またしても相槌のようにきゅるきゅると腹が鳴る。
エリオは、今度は笑わなかった。代わりに、くいっと路地裏の先を指差した。
「あのおじさんに話しかけてみな」
「は? なんで」
路地裏を抜けた先の表通り、彼の指した指の先には中肉中背の男性が立っていた。男は半袖を捲り上げ、手のひらで空気を仰ぎながら暇そうに欠伸をしている。
なんで、ともう一度アダムの視線が訴える。エリオは「いいから」と言ってアダムの背中を押した。不服そうに口をへの字に曲げたまま、アダムはしぶしぶといった態度で男の元へ向かった。
しかし少年は血相を変えてすぐに駆け戻ってきた――その手に沢山の小銭を掴みながら。
「エリオ! エリオ!」
「はは、良かったな。これで腹いっぱいパンでもりんごでも食べられる」
「……! い、今から買ってきていいか?」
「ああ、たっくさん買ってきな」
こみ上げる笑いを我慢して呑み込んだような、引きつった表情でエリオを見つめた後、アダムは弾かれたように表通りへと駆け戻っていった。
*
絵画を発電所に送るには、登録料とそれなりの手数料がかかる。だから駆け出しの貧しい画家や、あるいは画家志望の若者なんかは、路上で絵を描いて売ったりしている。
表通りに突っ立っていた男はバイヤーだ。もしくはギャンブラーの方が正しいかもしれない。価値のありそうな絵画を見つけては安値で買い上げる。ガラクタ同然の絵画が高AEPに変われば儲けもの。そんな博打を打つ者達なのだ。
油瓶の中で使い終わった絵筆を洗いながら、エリオは少年の消えた通りの先を眩しそうに見つめた。
腹はすぐに満たされるだろう。でもそれだけだ。上辺だけの満足で、少年の本当の願いではない。
だったらどうすれば良いのだろう?
ごちゃごちゃと訳のわからないことを考え始めたら、エリオは今自分の胸がどうしてこんなに灰色に染まっているのか分からなくなった。
「俺はさあ……本当は何を望んでいるんだろう」
生ぬるい風が吹く。そこに混じる磯のにおい。表通りから漏れる光を見つめたまま、エリオは背中の向こう側に声を投げかけた。ザリ、と背後で石畳を踏みしめる足音が二つ。
「世界一の巨匠の名だろ?」
「新しい描写技術の確立か」
男達が口々にそんなことを言った。
「またこんなところで絵なんか描いて」
パーマ掛かった髪の男――カヴィロが小言を漏らす。
「探したぞ」
もう一人の男――シャルルも、言いながら小さく溜息をついた。
「ごめん」
へらっと笑いながら、エリオは広げたままだったイーゼルを畳んで鞄に押し込んだ。二人も地面にばらけた絵の具を拾い集めたりして片付けを手伝った。
「ほんとお前、お人好し」
と、カヴィロが愚痴をこぼす。
「お人好しかなぁ」
「お前がお人好しじゃなかったら一体世界に何人お人好しが残ると思ってるんだよ」
無理やりな理論だ。エリオは困ったように眉を下げた。
「俺はさ、ただ」
――どこかの町の片隅で泣いている人たちが、少しでも笑える世界になったら良いなって、思っているだけだよ。
そう口にしようとしたが、エリオはそのまま言葉を呑み込んだ。世間から見ればそんな考えもただの『偽善』なのかもしれないと、少しだけ恐くなったからだ。
見上げた先には澄みきった青空が、細長い煙突みたいに白壁の建物に切り取られて続いている。
アダムが汚い世界だと睨みつけていた空が、エリオには美しく見える。同じ水色なのにこうも違うのだろうか。まるで違う世界にいるみたいだと、エリオは少し淋しく思う。
「みんなが幸せになる方法ってないのかなあ」
ぽつりと呟いたエリオの言葉は、思った以上に路地裏に響いたようだ。ぶっと吹き出して、カヴィロは口元を覆った。
「なんだそれ。お前、ヤバイ宗教の教祖にでもなりたいのか?」
「エリオに教祖は無理だろう。そもそも迫力が足りない」
「俺だって教祖にぐらいなれるよ」
「いや無理だろ!」
三人の笑い声を風がさらってゆく。
どこか遠い場所で鐘楼の鐘が鳴り響いている。ピョー、ピョー、と鐘の音に重ねるようにカモメが鳴く。
もう一度見上げた空は濁りのない青さで、どうしたって美しかった。美しくて、悲しかった。