第51話 消えた黄色の村
「誰がパパだって――俺が? あはは、まさか」
なぁ、とアダムは軽い笑顔を三人に向ける。
が、返ってくる視線が非難と軽蔑の入り混じったものばかりだったので、アダムはぎょっとする。
「はあァ?」
堪らずあがった抗議の叫び声が、ざわつく町なかに響いた。道行く人々がチラチラと視線を寄越し、そのまま足早に去っていく。アダムは口を引き結んで控えめに咳払いをした。
「ちょっとした冗談よ」
地面にバラけた絵の具を拾いながら、ニコラスは苦笑をもらす。
「えっ、パパじゃないの?」
「違うに決まってんだろ!」
驚いて首をかしげるニノンに、アダムが心外だとでも言わんばかりに叫ぶ。ルカは苦笑いを浮かべながら、ニコラスと共に散らばった絵の具を拾い集めた。
アダムの足に抱きついたまま、幼い少女が首を伸ばして大人のやり取りを興味津々に聞いている。
「えー、でもムキになるのが怪しい」
「怪しくねェわ!」
探偵の真似ごとでもしているのだろう。渋い表情で顎をさするニノンを無視して、アダムは抱えていた紙袋を足元に降ろした。そのまま少女と目線が合うところまでしゃがみ込み、小さな肩を手のひらで包み込む。
「お嬢ちゃん、顔よく見てみな? 俺はアダムっての。君のパパじゃねェ」
ほら、とアダムは己の顔を突き出してみせた。
俺みたいな若い年のパパがいるもんか! とでも言いたげな、引きつった笑顔を浮かべながら。
分厚い瓶底によく似た翠色の瞳が、眼前の少年をまじまじと見つめ返す。
「な?」と念を押すアダム。
少女は満面の笑みを向けて――
「パパ!」
嬉しそうに少年の首元に縋り付いた。
「でえっ」
反動でアダムの上体ががくんと下がる。
ふわっと鼻を掠める甘い香り。子ども特有の温かな体温。柔らかい皮膚の感触。周りから見れば、それはまるで離れ離れになっていた親子が――というより兄妹が――再会した感動のワンシーンのように映ったのだった。
「アダムちゃん、やっぱり隠し子……」
「違う、誤解だ!」
「パパ、怒っちゃだめ」
「あ? ああ、うん――じゃなくて!」
ぐしゃぐしゃとオレンジの髪を掻きむしり、アダムは長い溜息を吐いた。こてんと首をかしげる少女。そこでついに観念したのか、アダムは幼い体を抱き上げた。
「仕方ねえ、家まで送ってやるよ。名前は?」
あれ、とルカは思った。どうやら目の前の少女を、アダムはただの迷子だと強引に決めつけたようだ。
パパと呼び慕う男に抱きかかえられて、少女はくすぐったそうに笑った。
「あたし、コニファー。お家はあっち」
おもちゃみたいな小さな指が、どこかよく分からない空中を指す。大通りの両脇には小路地が入り組み、似たような煉瓦造りのアパートメントが建ち並んでいる。
「あ、どれ?」
指先を辿って眉を歪ませるアダムに、コニファーが「ちがーう」と頬をむくれさせた。
「みゅあしおるだよ」
舌足らずな言葉を呑み込むのに数秒かかった。
しばらくして「ああ」と頷いたのはアダム――ではなく、ニコラスだった。
*
遠くから、かと思えば近くから、そこかしこで蝉がわんわん鳴いている。先ほどよりも鳴き声がまろやかに聞こえるのは、きっと空が広いせいだ。
農村ミュラシオル。この村は本当に小さな農村で、人で賑わうヴィヴァリオにひっそりと寄り添うように存在していた。
縦にも横にも広がる青空。スタンプみたいにくっきりと連なる岩山。そのたもとには真緑のじゅうたんがゆるやかに波打ち、波は視界の端から端まで続いている。
一体何の畑だろう、とルカは首を傾げた。
「おかしいね」
ニコラスは顎をさすった。男を見上げるニノンの瞳が、何が? と言っている。
「ミュラシオルは夏になると、一面ひまわり畑になる〈黄色の村〉だって聞いてたんだけど」
「黄色?」
ニノンとルカは、互いの顔と前方に拡がる景色を交互に見合わせた。
「どっちかと言うと、緑?」
「確かに」
ルカがひとり頷いていると、隣から鼻で笑う音が聞こえた。
「お前ら本気か?」
え、と振り向けば、そこには水を浴びたように煌めいたまん丸の瞳があった。彼の声は震えていた。それは馬鹿にしたような響きじゃない。抑えきれなかった興奮が声色にじわりと滲んでいる、そんな響きだ。
「ミュラシオルっつったら、現代の巨匠の生まれ故郷だぞ」
この大自然の中でたくさんの作品が生まれたのか、とか、あの山が何々の作品のモデルかぁなどと一人でぶつぶつ呟きながら、とにかくアダムは興奮しきっている様子だった。
「現代の巨匠って――」
そうニノンが問いかけた時だった。
「コニファー!」
突如、背後から怒りにまみれた怒号が轟いた。五人は肩をびくっと揺らし、揃って後ろを振り返る。緩いウェーブのかかった髪を乱しながら駆け寄ってくるのは、まだ年の若い女だった。
「知らない人についてっちゃだめって、いつも言ってるでしょう。どうして言う事が聞けないの」
「でも、パパが」
「パパがなに!」
「パパ、見つけたんだよ」
怒りをはらんだ鋭い視線がアダムを射る。
「ど、どうも……パパです」
勢いに気圧されて、アダムは思わずへらっと笑った。その瞬間、女はカッと目くじらを立て、アダムの腕から少女を引き剥がすように奪い取った。
「え――え?」
アダムが口をぽっかり開けていると、女はコニファーを力いっぱい抱きしめながら、腹に溜め込んだ苛立ちを一気に口から吐き出した。
「このっ、人さらい!」
言うや否や、女は少女を抱きかかえたまま家の中に駆け込んで、バタンと扉を閉めてしまった。
「人さらいって……俺、さらったのか?」
驚きに目をまるくするアダムの肩を、労いの気持ちを込めてニコラスが叩く。『人さらい』ではなく『人違い』の間違いなのになぁと、ルカも彼の横顔に哀れみの視線を送った。
結局四人は、刺すような日差しに体力が奪われる前にヴィヴァリオへ引き返すことにした。
舗装のされていない土道は照り返しこそ無いものの、急勾配はなかなかのキツさだ。一歩踏み出すごとに額から汗が噴き出して止まらない。
「どうしてあの子はアダムのこと『パパ』って呼んでたのかなぁ」
「そんなの俺が一番知りたいね」
釈然としない気持ちをぶつけるように、アダムは足元に転がる小石を蹴飛ばした。
坂道の上に広がる岩山の帯が陽炎に揺れている。いよいよ天に近付いた太陽が、容赦なく大地を照りつける。
口を開くのも億劫な暑さだ。揺らめく空気をぼうっと眺めながら四人が坂道を登っていると、ふいに道のてっぺんに二つの人影が現れた。溶けたプラスチックのようにゆらめく影は、こちらに向かうにつれて、次第に輪郭をくっきりとさせてゆく。
「ねぇねぇ、さっき言ってた『現代の巨匠』って?」
「ああ、お前知らないもんな」
アダムは独りごちて、ふと空を見上げた。孤高の王族鷲が一匹、弧を描きながら海のような空を泳いでいた。
「エリオ・グランヴィル」
少年の琥珀色の瞳が、懐かしさにすっと細められた。
「今この世で最も有名な画家さ。数いる有名な画家たちの中でも、エネルギー還元総量がズバ抜けて高い――」
俯きがちの男が二人、四人の傍を通り過ぎた。アダムはハッと目を見開き思わず振り返る。気怠そうに坂道を下ってゆく男の背中。
その瞬間、昔の記憶が洪水のように頭になだれ込んできた。まだ孤児院で暮らしていた頃の、突然訪れた特別な数日間の記憶――
「ちょっとアダムちゃん、どこ行くんだい」
気がつけば、アダムは地面を蹴って駆け出していた。
勢いをつけすぎて止まらない両足に急ブレーキを掛け、そのまま男たちの前に回り込むと、アダムは両手を前に突き出して「ストップ、ストップ!」と声を荒げた。
「なぁ、カヴィロにシャルルだろ! 俺だよ俺!」
期待をはらんだ瞳が、二人の男を交互に見つめる。男たちは探るようにしばらく少年を睨めつけていたが、やがて何かを思い出したのか「あっ」と小さく声をあげた。
「アダムか?」
緩やかにウェーブがかった髪の男が呟いた。
「今思い出したのかよ!」
「悪い。なんせチビの頃のお前しか記憶にないから」
許せよ、と今度はストレートヘアの男が微笑みながら答えた。
久々の再会だったのだろう。嬉しそうに言葉を交わす三人は、放っておいたらこの炎天下でも平気で数時間は立ち話を止めそうにない。それはさすがに困ると、ニコラスは慌てて口を挟んだ。
「あんたら知り合いなのかい?」
はた、と会話が止まる。
「そうだよ」
と、アダムは子どものように無邪気に笑った。
「毛がくるくるパスタみたいな方が〈カヴィロ・アングル〉。サラサラな毛の方が〈シャルル・ド・シスレー〉。二人とも画家やってんだよ」
「おいおい、随分雑な説明だな。パスタは無いだろ、パスタは」
言いながらも、カヴィロは嬉しそうに毛先を指に巻きつけた。
「お前はこんなところで何してるんだ」
観光か、とシャルルが落ち着いたトーンで尋ねる。
「んー、まぁ色々あって。今はこいつらと一緒にコルシカ島を旅してんだ」
親指でくいっと指され、ルカたちは順に頭を下げて軽く挨拶を交わした。
「ところでさ」
各々の挨拶が終わるタイミングを見計らっていたのか、アダムはおずおず口を開いた。
「今日は、エリオは一緒じゃないのか?」
エリオ――それは、先ほど彼が口にした巨匠の名だった。アダムの期待とは裏腹に、目の前の男たちは無表情のまま口を開こうとしない。
しばらくの沈黙の後、カヴィロは声帯を絞るようにして言葉を返した。
「今からあいつの家に向かうところなんだ」
言いながら、カヴィロは薄っすらと微笑んでさえいるのに。彼の声色にはどうしてこんなにも気まずさが滲んでいるのだろう。
「お前たちも来るか」
アダムはざわつく心を抑え込んで、明るく頷いた。
「何の御用かしら」
扉が開いた途端、女は氷のように冷たい言葉を浴びせた。画家二人を除く四人は目をまるくするしかなかった。カヴィロは「エリオの家に行く」と言っていたのではなかったか。だったらどうして今、アダムを人さらいと罵った女が扉の向こうからこちらを睨みつけているのか。
「ベル、久しぶり」
「本当にね」
ベルと呼ばれた女は、カヴィロの挨拶をばっさりと切り捨てた。カヴィロは平然を装ってつづける。
「エリオに会いたい」
「無理よ」
「どうして」
「会える状態じゃないわ――分かってるくせに。用件だけ聞く」
扉の奥の方からトタトタと小さな足音が聞こえた。ベルの長いスカートの傍からひょこりと小さな顔が覗く。
「サロンに出す絵画は順調なのか」
「……分からないわ。もしかしたら、今回は出展できないかも」
コニファーはスカートの裾を掴みながら、満面の笑みで手を振った。アダムの頬が思わず緩む。小さく手を振り返せば、ベルにスカートでさっと少女を隠されてしまった。
「アダムが来ていると伝えてくれ」
沈黙が続く二人の間を割いて、シャルルが口を開いた。
「『アダム』?」
「こいつだよ」夏というには白すぎるシャルルの親指が、オレンジ色の髪の少年を指す。「エリオに言えば分かる」
空の高いところで二羽の王族鷲が翼を広げそらを飛ぶ。そこから離れて旋回する一羽の王族鷲。
――ピーヒョロロロ。
笛のような鳴き声が、まるで誰かを呼ぶように夏空に高く響いていた。