第49話 ラ・ダンツァ・マーカブラ(後)
「なんだって?」
三人は一斉に首を回し、ジーノを――モーリス・カーロと呼ばれた人物を凝視した。
モーリス・カーロは何十年も前にこの部屋で殺されたたはずだ。パトロンである支配人の手によって……。
男は肩を小刻みに震わせながら、喉元からくっくっと笑い声を漏らした。彼の手に握られた重たそうな拳銃が、蜃気楼のように揺らめいている。
「ご名答。私はこのホテルで殺された悲劇の画家、モーリスカーロだ。だが、私の正体が分かったところでどうなるというのだ? くく……どのみちお前たちはこのホテルから逃げられやしないのだから」
モーリスはふんっと鼻をならし、コツコツと足音を響かせて絵画に近づいた。
「この絵を修復してくれた礼はせねばなるまい。さて……最後に言い残したことがあれば聞き届けてやろうか」
皺だらけの指が、愛おしむようにキャンバスの縁をなぞる。
「そうやって独りよがりになって、また逃げるの?」
「……なに?」
ニノンは怯むことなくモーリスを睨みつけた。アダムやニコラスが、青ざめた顔で口をパクパクさせている。
「自分の絵が認められないのはすべて世の中のせいだと思ってる。でもそれって、本当?」
「なんだと……。あれだけもてはやしておきながら、エネルギーにならないと分かった瞬間に紙クズ同然の扱いを受けた私と、私の絵画の気持ちがお前にわかってたまるか!」
あまりの剣幕に、空気がビリビリと感電したように震えた。
ニノンはぐっと足を踏ん張って耐える。
やがて激昂の表情が崩れると、モーリスは「わからないだろうな」と自虐めいた笑みを浮かべた。
「現代を生きるお前たちにはわからないのだろう。芸術に触れる感動を忘れてしまった、哀れな人間共よ」
芸術に触れる感動を忘れてしまった。
その言葉が、どうしようもなくルカの心臓に突き刺さる。
絵画修復家が修復を施すのは、絵画のエネルギー還元率を上げるためだ。けれどそこに侘しさが付きまとうのも事実で、それは手間ひまかけて修復した絵画に対する、単なる『情』なんだと思っていた。
しかし、絵画を目にした時に心に広がる何かがあるのも、ルカにとっては事実だった。絵画だけじゃない。レヴィの丘の上で朝焼けを見たときだってそうだ。
この世界には心動かされるものがたくさんある。
それを感動と呼ぶのなら、少なくとも自分はモーリスの言う感覚を忘れてはいないはずだった。
なのにどうして「忘れていない」と、胸を張れないのだろう。
「ううん、わかるよ」
思考の渦に呑み込まれそうになっていたルカを、少女の凜とした声が引き戻す。
「私には記憶がないの。なにも覚えてない。だからこそ知ってるんだよ。強い気持ちが込められたものには、誰かの心を動かす力があるってこと。それは明日かも、十年先かも百年先かもわからないけど。きっといつか届くって、私は知ってる」
どこまでも澄んだ水のような声に、ルカはそっと耳を澄ました。
先入観の檻の先にある景色が、あの紫の瞳には見えているのだろうか。
「誰かの心を動かすだって?」
両の目玉が今にも窪地からこぼれ落ちそうにかっ開かれる。
「ならばいま現に! 世界はそんな実体のない物事に価値を見出しているのか? 答えは『ノー』だ!」
「世界は変わるよ!」
ニノンは勢いよく立ち上がった。
「私たちが修復してみせる。何かを感じてそれを形にしたものに、価値がないはずない……そんな悲しいことってないよ」
「そんな絵空事、私はとうの昔に諦めて――!」
「もう一度信じてよ! 形ないものに価値を願った昔の自分を思い出して。モーリスさん、私たちとの約束は、決して目には見えないけれど、それでも私たちを信じて。大丈夫、後悔はさせないよ」
まるで雲間に射す光のような言葉の帯。途方もない話をしているはずなのに、彼女の語る未来に、どうにかすれば手が届きそうだなんて。そう思えるのは何故だろう。
たなびく桃色の髪。
全てを射抜く紫の瞳。
その姿がコルシカ島の英雄ディアーヌと重なって、ルカは思わず目を瞬いた。
次の瞬間にはもう、そこには見知った女の子の姿があるだけだった。
もう一度目を瞬いて、いつもの少女の顔がそこにあることを確かめた。隣ではアダムが、今にも泣きそうに表情を歪めている――それが何故だかルカにはわからない。視線はすぐ下に移る。大鎌が、拳銃と同じようにゆらめいている。
今しかない、とルカは思った。
咄嗟に床を蹴り、駆け出す。それに気づいたニコラスが瞬時にニノンを抱き上げ、揺らめく大鎌をすり抜ける。いつもの顔に戻ったアダムも身を翻し、呆然とするモーリスを置き去りにして、揃って壊れた扉の穴を飛び出した。
誰もが逃げることに必死になりすぎて、ヴァネッサが初めて微笑んだことにも気付かなかった。
停電が復旧したにもかかわらず、飛び出した先の廊下は真っ暗だった。だが、四人はがむしゃらに暗闇を駆け抜けた。背後でバリンッとガラスが割れる音が聞こえる。
ザンザン、ビュウビュウ――激しい音を立てながら、夏の嵐がホテルに入り込んでくる。
そこかしこから喚き立つうめき声。特に背後からおぞましい声々がうねりながら追いかけてくる。息を切らせながら、アダムが背後を振り返る。そこにいたのは――。
「が、が、ガイコツ!?」
薄暗い廊下に素っ頓狂な叫び声が木霊する。
背後から追いかけてきていたのは、まるで画廊に並ぶ絵画から飛び出してきたような、黒いマントを身につけた骸骨たちだった。それも、通路を埋め尽くすほどの数である。大鎌を振りかざし、弓矢を構え、不協和音を撒き散らし、狂ったように踊りながら、『死』は四人との距離を確実に縮めてゆく。
『私に、お前たちを信じろと言ったな?』
壁一帯から拡散されたような、何重にも重なったようなモーリスの声が、そこかしこから響いてくる。
「ああそうだぜっ。なんてったってこっちには腕利きの修復家がいるんだからな。あんたの怨みはいつかどこかで晴らしてやるさ。だから命だけは見逃してくれ!」
「アダム、なに勝手なこと言って――!」
口を尖らせ言いかけたルカの言葉を、モーリスの不気味な笑い声が呑み込んだ。
悪魔が奏でる不協和音のような狂った笑声は、うわんうわんと廊下じゅうに響き渡る。
『ならば、私のことを忘れるな!』
左右にずらりと並ぶ絵画が、廊下が、ぐにゃりぐにゃりと揺れている。
通路の向こうから激しい風が吹きすさぶ。
「だめだ、追いつかれる……っ」
差し迫る骸骨の群れ。頭が割れるほどの不協和音。
『そして踊り狂え――ラ・ダンツァ・マーカブラ!』
高らかな宣言と共に、嵐のような豪風が四人を襲った。
息が出来ない。目が開けられない。
耳をつんざくような金切り声と、ワルツのような軽快な足音。
恐怖と戦慄が、激しくリズムを刻みながら通り過ぎてゆく――。
*
「……おい、おーい」
ゴンゴン、と窓ガラスを叩く音が聞こえてルカは薄っすらと瞼を開けた。強烈な眩しさに思わず目がくらむ。
痛む頭をさすりながら首をもたげると、黄色いヘルメットを被った見知らぬ男が、車のサイドガラスからこちらを覗き込んでいた。
どうも、と軽く頭を下げながら、視線は男の向こう側に移る。背後に生え揃う糸杉の隙間から、清々しいほどの青空が見え隠れする。あの嵐が嘘のような快晴だ――。
「あ、あれ?」
そこまで考えて、ルカの体はすべてのスイッチが一斉にオンになったようにわっと飛び起きた。振動でビートルが揺れ、眠りこけていた三人も奇妙な声を発しながら、びっくり箱の人形のように飛び起きた。
続けざまに車内を飛び出せば、蒸し暑い夏の空気が全身をむっと包み込んだ。
わんわんと虫の叫び声がそこかしこから鳴り響いている。
「どうなったんだ、逃げだせたのか?」
空を見上げながら、半信半疑でアダムは呟いた。
「どうやらそうみたいだね」
ニコラスも疑った口ぶりで答える。頭上に広がる真水色の空が、逆に不気味なくらいだ。
「でも私たち、どうして車の中で寝てたんだろう。今までの出来事は夢だったのかな」
「全員が同じ夢を? まさか。それも怖えだろ」
口々に言葉を交わしつつも、明るい日差しに誰もがホッと胸を撫で下ろした。
一同は、そこでやっと側に立つ男の存在に目をぱちくりとさせた。
「おじさん、だぁれ?」
ニノンが尋ねる。それは向こうだって聞きたいことだっただろう。熊のような男は、黄色メットの下でつぶらな瞳をぱちぱちさせた。
「お前たち、こんなとこでなァにしてんだ」
間延びした声で男は問いかける。
「あの、俺たち、この辺にあるホテルに泊まっていて……ここは、一体?」
説明しようと思ったが、どう言葉にすれば良いのかわからなかった。
まごつくルカの言葉を一掃するように、背後から馬鹿でかい笑い声が聞こえてきた。
「やぁ、サンディさん」
男は黄色いヘルメットの唾を押し上げ、声のした方へ笑いかける。背後を振り返ると、同じく黄色いヘルメットを被った屈強な男が、大股でこちらに向かってくるところだった。
「おぅおぅ、ホテルってェのはそいつのことかい?」
サンディと呼ばれた男は、立てた親指で自身の右手側をくいくいと指した。
「そいつ……?」
ルカたちは示された先を視線で辿った。糸杉が鬱蒼と生い茂る森の中に――何故かそこだけは太陽の光が届かずどろどろとした空気が漂っているように見える――男の言う『そいつ』を見つけて、あっと声を漏らす。深緑の葉陰の中、溶けるように、今にも崩れ落ちそうな廃墟が佇んでいたのだ。
「これは、マーカブラホテル、ですか?」
ルカの声が僅かに震える。
壁をびっしりと覆い尽くす蔦。窓ガラスはバリバリに割れ、看板が掲げられていたはずの場所には腐食した骨組みだけが残っている。人がいた痕跡など微塵も感じられないほどの朽ち果て様だ。
ということは、昨日まで宿泊していたホテルは――恐ろしい考えに至って、一同はゾッとした。
「マーカブラ? なんだァその不吉な名前は」
サンディは口を開けて豪快に笑った。
「ここは〈グランノーブルホテル〉っていってよォ、かつて五つ星ホテルだったところだぞ」
アダムは「は?」と訝しげに眉をひそめた。
あの男が口にした名前は確か〈マーカブラホテル〉だったはずだ。
難しい顔をしている面々を見て思うところがあったのか、サンディは片眉を上げて「なるほどなぁ」という顔をした。
「お前さんたち、もしかして幽霊ホテルに泊まったのかい?」
「ゆ、幽霊ホテル!? おっさん、なにか知ってんのかよ」
目を丸くして迫るアダムに、サンディはにやりと笑ってみせた。
「まぁ、この辺じゃあ有名な噂話だからなァ。おおい、アレ持ってきてやれ」
そう声を掛けると、熊のような男はのんびりと返事をしながら、側に止めてあったトラックに向かい、一冊のファイルを抱えて戻ってきた。
「ほれ。これだよ。グランノーブルホテルで起こった殺人事件について書かれているだろう」
四人は顔を寄せ合い、広げられたファイルのページを覗き込んだ。見開きページいっぱいに、切り取られたたくさんの新聞記事がスクラップされている。小見出しにはでかでかと〈悲劇の五つ星ホテル〉の文字が躍り、その後に続く細かな文字の羅列と共に、複数の写真が掲載されていた。
「あっ!」
声を上げたのはニノンだった。
被害者として掲げられていた男の顔に見覚えがあった。骸骨のような落ち窪んだ目元に禿げ上がった頭。画家のモーリス・カーロだ。
そしてその隣に並ぶ、もう一人の被害者の写真。
「そんな……ヴァネッサちゃん」
それ以上言葉を続けることができなくて、アダムはモーリスの隣に掲載された写真をじっと眺めた。白黒の枠の中で、赤毛のショートカットの女性が微笑を浮かべていた。
「もう何十年も前の事件だそうだ。当時のホテルのオーナー、えー、何だったかな」
「ジーノ・トワイニングね」
ニコラスが助け舟を出すと、サンディはポンっと手を叩き「そうだそうだ」と頷いた。
先ほどの切抜きに写真こそ載ってはいなかったが、容疑者として本文に見知った名前を見つけていたのだ。モーリスが偽名として選んだのは、皮肉にも自身を殺害したかつてのパートナーの名前だった。
「なんでもトワイニング氏と画家の間でいざこざがあったとか。勢い余って殺しちまったらしい。ヴァネッサって子はよォ、画家の世話係だったみてぇだな。たまたま食事の準備に部屋へ訪れただけだったのさ。画家の体から血ィ吹いてんのを目撃しちまったんだねェ。口封じだったのか、氏の頭がイカれちまってたのか定かじゃねぇが」
なんにせよ、尊い犠牲には違いねェ。と、サンディは苦い顔を廃墟に向けた。
殺人容疑でオーナーが逮捕されたあと、ホテルは次の経営手がなかなかつかず、ほどなくして廃業になったという。
後を追うようにして新街道が開通すると、人々の話題はすぐにそちらに逸れていった。
やがて、忌まわしい事件の話を口にする者もいなくなった。
何者かが廃墟となったホテルに忍び込み、墓荒らし同然に絵画を盗み出す事件が頻発したのはここ最近の話らしい。
モーリスが語っていた内容と同じだ。ルカは耳を傾けながら、昨晩の出来事を思い出していた。
「だがそれもよォ、しばらく経つと新聞にゃ『盗難』の見出しよりも『交通事故』の見出しの方が多くなっちまってな」
「どういうことですか?」
ルカが問うと、サンディはぼりぼりと頭を掻いて眉間にぎゅっとしわを寄せた。
「同じ頃、失踪事件も頻繁に起こっているんだ。そいつらはどういう訳か一週間経った頃に、旧街道の糸杉の森の中で見つかるのさ。スクラップ状態の車の中でなァ。おそらく猛スピードで大木に突っ込んだんだろう」
失踪者が発見される前日はいつだって、旧街道一帯は嵐に見舞われた。激しい雨風に視界を奪われ、運転を誤ってしまったのだろうとサンディは言う。
「しかもだ。車の中からは決まって盗難品の絵画が発見されるってんで、世間は『幽霊ホテルの呪いだ』なんて騒ぎ立てたのさ」
サンディは大袈裟に肩を震わせた。きっと噂話だと信じているからこそ、こんなにも演技めいた口調で話せるのだろう。
四人は軽々しく相槌を打てずに、曖昧な表情を浮かべた。噂話で片がつく話ではないことを知っていたからだ。絵画を盗み出す人間をホテルに閉じ込めては、片っ端から手を下す。その一部始終を、身をもって体験したのだ。
だが誰も、それを口にする気にはなれなかった。
「で、あんたらは一体ここで何をしようってんだい? まさか事故を起こす前にコソ泥を捕まえようって訳でもないでしょうに」
ニコラスは腕を組みながら、黄色いヘルメットの二人組をじろじろと眺めた。灰色の埃っぽいツナギはよく見るとペアルックのようだ。警察官にしては少々お粗末な服装をしている。
「そんなモンでねぇよ」
熊のような男がゆったりと首を横に振る。
「俺たちホテルを解体しにきたただの工事業者でさ」
「工事? ホテル、潰しちゃうの?」
驚くニノンに、男はうんうんと何度も頷き返した。
「もう随分前から要望があったらしいんだけど、どういうわけか、工事をしようとすると決まって嵐に見舞われるのさァ。いつも中断ばっか続くもんで、しまいにゃどの工事業者も匙を投げちまったんだァ」
「そんな時呼ばれたのが何を隠そうこの俺、サンディだったってェわけよ」
「おっさんが?」
「おうよ」と胸を張る姿に、アダムが冷たい視線を投げかける。そんな事には気にも留めず「いつだって晴れ男、それがサンディたる所以ってもんよ!」と男は鼻息を荒くした。
「嵐が晴れたのって、画家が成仏したからなんじゃねーの」
二人の男に背を向けながら、アダムはヒソヒソとニコラスに話しかけた。
「もしくは、本当に彼が晴れ男だったのかもね」
「あ? だったら俺たちが事故に遭わずに済んだのは、あのおっさんのおかげってわけ?」
「そうなるわね」
なんだそれ、とアダムは唇を尖らせた。
「生きて帰って来れたんだしよかったじゃない。ね、ルカ――どうしたの?」
ニノンにそう声を掛けられて、ルカは踏み出していた一歩をそのままに、首だけで振り返る。
「ちょっと、ホテルに忘れ物」
「忘れ物?」
何か忘れたっけ、とニノンが窓ガラス越しに車内を覗き込む。ルカはかぶりを振った。
「ホテルが壊される前に行ってくるよ」
そう言い残し、今にも崩れそうな廃墟の中へと消えていった。
しばらくしてルカが目当てのものを抱えて戻ってくると、アダムは嫌な顔を隠しもせずに、サッと車のトランク前で両手を広げ、通せん坊をした。勘の鋭い男だ。
「だめだめだめ。ぜーったいダメだからな」
「まだなにも言ってないよ」
「たった今! お前の言いそうなことは、超能力者みたいに、手に取るようにわかったの!」
アダムは言葉の端々に力を込めて非難した。
ルカが抱えているのは、ホテルに飾られていた連作〈死の舞踏〉だった。
「モーリスさんはもういないよ」
「信用できねえ。俺は呪いとか幽霊とか、もうこりごりだもんね」
無理だ、の一点張りな小心者の男を見兼ねたニコラスが、至極真面目な顔で人差し指をぴんと立てた。
「アダムちゃん、あれは幽霊なんかじゃなかったのよ」
「じゃあなんなんだよ」
「妖精よ」
「妖精だ?」
「そう。絵画の妖精。それでいいじゃないの」
へぇ、と感嘆の声を漏らしたのは、隣で聞いていたニノンだった。
「へぇー、じゃねぇっつの。ンなわけあるかよ――おいルカ、勝手にトランク開けんな!」
ルカはいそいそとトランクに抱え込んでいた絵画を詰め込んで、「アダム、ありがとう」と真面目に礼を言った。
*
木葉の隙間をぬって風が吹く。
ルカはすんと息を吸った。蒸し暑い風に、まだ少し湿ったにおいが残っている。激しい嵐の名残が溶け込んでいるかのようだった。
ヴェニスの町を出た時からずっと、自分たちは画家の執念によりこのホテルに誘われていたのだろう。
――世界は変わるよ!
ふと、あのときモーリスに告げたニノンの言葉を思い出した。
今自分が立っている世界では見えない“真実”が、すぐ側で眠っている気がする。
生まれ故郷から一歩踏み出した今、コルシカ島を巡っていけば、見えてくる景色も変わってくるだろうか。
そうであればいいと、ルカは思う。
他愛もない話題に興じているニノンの横顔をぼんやりと眺めていると、その顔がこちらを振り返った。「なに?」と照れたようにはにかんだので、ルカもゆるく笑顔を返した。
「お前さんたち、まさかとは思うが……盗っ人、じゃあねぇよなァ」
サンディの疑いの目が、トランクの中に積み込まれた絵画の束をじろりと射抜いている。
「依頼されたんです」
「依頼?」
ええ、とルカは頷く。
「保護してほしいって頼まれたんですよ」
ご本人に、という言葉を、ルカは心の中だけで付け足した。
サンディが何か言いたげに口を開いたので、アダムはトランクから一番上に積まれた絵画を引っ張り出して、慌てて二人の眼前に突き出した。
「ほら、これ、AEPになんか還元できないような絵だぜ。ンなもん盗ってどうしろっつーんだよ」
二人はほぉ、と納得したのかしていないのかよく分からない相槌を打った。
しかし、やはり怪しさを拭い去れなかったのだろう。男たちは眉根を寄せて、四人を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺め倒している。なにしろ幽霊ホテルに忍び込む物好きなんて、ここ数年絵画泥棒ばかりだったのだ。疑うのも無理はない。
「お前さん、一体何者だ?」
訝しげに尋ねる男へ、ルカは静かに視線を向けた。
もうじき崩れ落ちてしまう廃墟と化したホテルが背後に見える。跡形もなく消え去った後には、きっと緑がその空間を埋め尽くして、ホテルが建っていた名残も消し潰してしまうだろう。
だが、このホテルで画家が胸に秘めた想いや人々の感情は残された絵画に宿る。
たとえ時の流れと共にキャンバスが色褪せようとも、修復すれば何度だって蘇るのだ。
「コルシカ島の、しがない絵画修復家です」
バタンとトランクの閉まる音が、快晴の空へ抜けていった。
〈第七章 マーカブラホテルへようこそ・完〉
 




