第48話 ラ・ダンツァ・マーカブラ(前)
悲劇の画家、モーリス・カーロ。
彼はこの部屋で殺された。
ルカはニノンの肩から手を離し、ゆっくりと腰を上げた。そして、吸い寄せられるようにイーゼルの前に立ち、薄汚れた布に手を掛ける。
「ルカ!」
ニコラスに咎められるも、ルカはばさりと一思いに布を取り去った。ジーノの口の端が不気味に吊り上がる。
思ったとおり、イーゼルに鎮座していたのは血濡れの絵画だった。
しかし悪夢の中で出会ったそれとは、確実に違う点があった。付着した汚れがほとんど姿を消していたのである。わずかな血潮が残るその絵画に触れようとしたとき――ドン、と扉を激しく打つ音が響いた。
「やべえ、ヴァネッサちゃんだ!」
アダムとニコラスが必死になって封じている扉に、何度も衝撃が走る。
あ、と思ったときには既に、二人の頭の間に鋭利な刃物の先が突き出ていた。
――この光景……見覚えがある……?
緊張感が走る場面でさえ、ルカは奇妙な既視感に捉われていた。このあと、木製の扉はいとも容易く大鎌に突き破られ、その刃によってルカを除く三人は捕らえられる。執事の格好をした男は、いっそう口角を持ち上げ「修復を!」と迫るのだ。
ルカの脳裏を過ぎるいくつもの予感は、記憶と呼んでも差し支えないほどにリアルだった。
「も……もうダメだ!」
突き破られたドアから、死神のような雰囲気を纏ったヴァネッサが姿を現した。扉が破壊された反動で床に倒れこむアダムとニコラス、そして、顔が青いままのニノンの頭上で大鎌が振りかざされる。
ヴァネッサはうずくまる彼らの首元まで刃先を持っていき、そこでぴたりと動きを止める。「ひっ」と掠れた声が、誰かの喉からもれた。
「さて」
メイドが捕らえた人質に一瞥をくれると、ジーノは満足げに頷いてルカへと向き直った。
「わたくしとて、このような手荒な真似はしたくないのです」
「なァにが手荒な真似はしたくねえだ、このクソ野郎っ。いったい何が目的だ!?」
「おや。ご自身の立場がお解りになっていないようですね――ヴァネッサ」
ジーノが一言発した瞬間、ヴァネッサは手に握っていた鎌をぐいっと持ち上げた。
「やめろ!」
ルカが叫ぶのを分かっていたかのように、ヴァネッサはぴたりと手の動きを止めた。三人の首筋には鋭利な刃があてられたままだ。アダムは口を噤み、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「彼らには手を出さないでください。用があるのは……俺ですよね」
ルカは静かにジーノを見据えた。
すべて思い出したのだ。
「ええ、仰るとおり。わたくしめはただ、その絵画をミチノ様に修復していただきたいだけなのでございます。条件をのんでいただけるのであれば、彼らに危害を加えることはいたしません」
「……わかりました。お望み通り修復を――いや、修復の続きを進めましょう」
「は? 続きって、そりゃどういう意味だよ」
「そのままの意味だよ」
またしても「は?」と素っ頓狂な声がアダムの口から飛び出る。
「俺たちはもう何日もこのホテルにいるんだ」
「 何日もですって?」
今度はニコラスの驚いた声。ルカはこくりと頷いた。
「それで、同じことを繰り返してる」
落ち窪んだ瞳を見つめながら、ルカは確かめるように静かに呟いた。
まるで頭の中の霧が一斉に晴れ渡っていくように、ここに来てからの記憶がすべて蘇った。
旧街道で嵐に襲われ駆け込んだホテル。
用意されただだっ広い部屋で語る、旧街道の幽霊ホテルの噂話。冷めきった料理を食べ、ジーノから恐ろしい話を聞いたあと、長い長い画廊をヴァネッサに追われ、呪われた部屋に駆けこみ――そして今と同じ場面に遭遇する。
この部屋でルカはもう何日も何日も、血塗られた絵画の修復を強要された。
修復をしているといつの間にか次の日の夕食前になっていて、しかも前日の記憶はなぜか綺麗さっぱり頭からなくなっているのだ。
そうやって、同じような一日が何度も繰り返されている。
きっと、修復が終わるまで解放するつもりはないのだろう。
「そうだ――そうだよ。ああ、そうだった。俺たちずっとこのホテルにいたんだ。こんなの、まるであの噂話と同じじゃねえか……!」
青ざめた顔でアダムがぼそぼそと呟いた。彼が恐ろしさに肩を震わせたのは、なにも不気味な事実を思い出したからだけではない。七日七晩幽霊ホテルを彷徨い続けた若者の話が、あまりにも自分たちと被っているように思えてならなかったからだ。
「思い出されたのなら話は早い」
ジーノは見覚えのある黄色いリュックサックを丁寧な手つきでこちらに寄越した。
ショルダー部分を掴んで手繰り寄せると、ルカは訝しげな表情を男に向ける。
「俺は汚れてしまった絵画の為に修復するんです。人質なんて取らなくても、ちゃんとこの絵を元通りにしてみせる。だから、あの物騒な物を彼らから離してください」
リュックから筆や洗浄液を取り出しながら、ルカはヴァネッサの手元に視線をやった。刃越しに二人の男の怯えた表情と、青白いままの少女の顔が見える。
「ふふ。そのやり取りも幾度となく交わしましたね。ではわたくしも同じことを繰り返しましょう。『口先だけの言葉など信用しない』……と」
つまり、人質を解放するつもりはないということだ。
男を睨みつけたい衝動に駆られたが、ルカはそれをぐっと腹の底に押し込めた。代わりに洗浄液をたっぷり染み込ませた綿棒を画上で滑らせながら、その先っぽを一心に睨み続けた。湿った白色の綿があっという間に茶褐色に染まる。
「……あなたの、『危害を加えない』という言葉を、信用してもいいんですか?」
「ええ。彼らについては手出しはしません。安心して作業をお続けください」
なんて信用ならない言葉だろう、と、薄ら笑いを浮かべるジーノを一瞥しながらルカは思った。
だが、反抗の余地はない。人質を取られている以上、絵画を修復する道しか今のルカには残されていないのだ。
修復箇所は残り僅かだった。
少しの血痕を洗浄したら、あとは補彩をしてニスをかけるだけだ。
キャンバスに描かれているのは、やはり恐怖におののく群衆の姿だった。血痕を拭いとると、その下には黒いマントをたなびかせた禍々しい骸骨が、とぐろを巻く雲に向かって高らかに拳を突き上げている。
洗浄が終われば、次は補彩の作業だ。
じとりとこちらを見下ろしてくる視線を頭頂部に感じつつ、ルカはひたすら作業を進めた。
時間切れになれば――また記憶を消されて、やり直しだ。
勢いよく塗りたくられた黒い絵の具の層が、分厚さのせいでひび割れている。黒のひび割れは光の加減によってはかなり目立つため、慎重に補彩をしなければならない。
パレットになじりつけた補彩用の黒い絵の具をじっと見つめる。それは夜の色。闇の色だ。
五十年前の悲劇をルカは実際に体験したわけではない。
けれど、この絵を見ているだけで自分も闇にのまれた世界に立っているような気分になってくる。
光のない夜がどれだけ暗いのか、暖のない冬がどれだけ寒いのか、分かる気になる。
そうして気がつくのだ。死はいつでもすぐ隣にいるという事を。死とは、身分も貧富も関係なく、生を受けた瞬間から皆に等しく与えられるものなのだという事を。
「さて……今回も間に合いそうにありませんね」
刻一刻と迫るタイムリミット。ルカは額を伝う汗を拭い、焦りに蹴落とされそうになる集中力を必死で繋ぎとめる。
あと少し、あと少しで終わる。
不明瞭だったキャンバスが、次第に輪郭をはっきりと取り戻してゆく。
「残念です。これが7日目……あなたは修復に失敗しました」
夜の霞は形を保った闇に、逃げ惑う群衆は確かな恐怖に、大鎌を振りかざす骸骨は死に。
ハッと短く息を吸って、ルカは最後の一部分に色を置いた。
「修復……完了……です!」
モーリス・カーロの連作〈死の舞踏〉最後を飾る一枚、〈死の勝利〉の修復完了をルカが宣言した直後。
「――ルカッ、逃げろ!」
後頭部の向こう側でカチャリと鈍い金属音が聞こえたのは、アダムが叫んだのとほぼ同時だった。
「ご苦労様です、ミチノ様」
振り返った額にコツリと冷たいものが当たる。
それが銃口であることはすぐにわかった。
「ジ、ジーノさん……話が違うじゃないですか!」
ルカの瞳が動揺に揺れる。絵画の修復をすれば手は出さないと約束したはずなのに。ジーノはハンッと鼻で笑った。
「彼らの命は保証すると言いましたが、コルシカ島の修復家、あなたの命はここでいただきますよ」
「どうして――」
背後で、アダムやニコラスたちがやめろ、打つなと叫んでいる。
「あなた方が!」
ジーノはその弾糾を払いのけるように声を張り上げた。
「モーリスの盗まれた絵画を修復し、発電所へ送る手助けをしたことを、私は知っている!」
「盗まれた……だって?」
初耳だ。そんな事実があったことをルカは知らない。
「そうだ! このホテルの至る所に絵画のはまっていない額縁をたくさん見ただろう!」
確かに、ロビーの壁にも客室にもたくさんの額縁が飾られていた。
ある場所を、連作〈死の舞踏〉が並んだ画廊を除いては。ルカは相手をこれ以上興奮させないように、極めて冷静に頷いた。
「あれはすべて絵画が盗まれた跡だ。下等なクズ共が、このホテルに忍び込んでは価値のありそうな絵画をせっせと盗み出し、それを売って稼ぎを得ていたというわけだ。私はそんな目先の利益に囚われる不当な輩に復讐を誓ったのだ。もちろん、盗まれた絵画を修復し、発電所に送る為の助力をしたお前たちにも!」
荒々しい口調でまくし立てるジーノはもはや別人だった。歯をむき出しにし、悪魔のような形相で叫び、復讐に燃えている。
「忍び込んだ人間はたくさんいた。はじめは仮面を付けた奴らだった」
アダムがまさか、という顔をする。
「こんないわくつきのホテルに盗みを働く為に忍び込む輩がいるなんて、思いもしなかったよ。それからだ、ここにはまだ価値のある絵画が眠っているなんてまことしやかに囁かれはじめたのは。やがてこのホテルには、甘い話に誘惑されて入れ替わり立ち替わり盗人がやってくるようになったのだ。そこの若人、『幽霊ホテル』とかなんとか噂話をしていたな?」
ごりごりと骨の擦れる音を立てながら、ジーノはアダムの方に顔を向けた。その顔がまるで絵画に描かれた骸骨のような不気味さだったので、アダムは思わず「ひっ」と情けない声をあげた。
「あれは本当だ。私が殺した」
「こ、殺したって……」
「遊び気分でこのホテルに忍び込み、絵画を盗もうとしたのだ。そんな奴らを何人も見てきた。私はその度に手を下してきた。罪には罰を与えるものだろう?」
ジーノは天を仰ぎ、狂ったような笑い声をあげた。
そのとき、それまでぐったりとしていたニノンがゆるゆると首をもたげ、掠れた声を発した。
「誰の声だろうって、ずっと……考えてた」
「――ん?」
ぴくりと、ジーノの白髪だらけの眉が動く。
紫の瞳は凪いだ水面のように揺れることなく、どこでもない空間を映し出している。
「私、絵画に込められた気持ちを読み取ることができるの。あの画廊を通ったとき、モーリスさんの目に映る世界の風景がありありと伝わってきて、すごく恐かった」
確実に忍び寄ってくる死。
その毒に侵されてなのか、それともそれが本質なのか。笑顔を交わし合った隣人が豹変していく様が、己の心が蛆のわく路地裏の隅のように汚れていく様が、恐ろしくて堪らなかったとニノンは語る。
「モーリスさんは、たとえ世界に人々の笑顔が戻ってきたとしても、それはもう偽りの仮面としか見えなくなっていたんだ」
嘘で塗り固められた世界。
それは地獄よりも恐ろしい世界だった。
「死を思え。隣にある死を忘れるな、真実から目を背けるなって――誰かの声が何重にも重なって頭の中に響いてきて……だけど画廊を進むうちに、どんどん違う言葉が聞こえてきたの」
ニノンはジーノを力強く睨みつけた。
「それは、『認められたい』っていう執念だよ」
ぐりん、とジーノの目が見開かれる。
その口が、静かな怒りにわなないた。
「小娘が。なにを戯けたことを――」
「ずっと認められてきたんだ、次の連作だって目にすればきっと世間はあっと驚き賞賛するはずだ」
「やめろ、」
「なのにどうして見向きもされないんだ? どうして人は私の絵に、私に、道端に散らばるゴミくずを見るような目線を向けるんだ?」
「おいニノン、それ以上はやめとけっ」
アダムはニノンをぐいっと引き寄せ、口元を手で覆う。が、ニノンはその手を無理やり引き剥がし、なおも続ける。
「連作最後の一枚〈死の勝利〉にあなたが込めたのは、死の恐怖なんかじゃない。勝ったのは『死』なんかじゃない……『自分を認めてほしい』って気持ちだよ」
「だまれ!」
ルカの額に押し付けられていた拳銃の先が勢いよく標的を変える。
銃口が捉えた先には少女の強気な瞳。
「ニノン!」
ルカは咄嗟に叫んだ。
「大丈夫だよ。あの人は私たちを撃てない」
ニノンは大鎌の下からすっと腕を伸ばして男の手元を指差す。
「だって、あの銃はまやかしだもん」
「まやかし?」
アダムの問い返す声が裏返る。
「そうだよ。ねぇ――モーリス・カーロさん」