第46話 悲劇のはじまり
まだこのホテルが大勢の人で賑わい、毎週末のようにガーデンで盛大なパーティーが開かれていた頃――。
かつて〈コルシカ街道〉と呼び親しまれた道沿いで、一人の画家が活動していた。
世の中に溢れる無名の画家たちは、パトロンでもいない限り大抵貧しい。この男も例にもれず、貧しい画家の一人だった。毎日道端で絵を描き、通りゆく人々がたまに情けで落としていくお金で食い凌ぐ。そんな生活を繰り返しては、いつか己の名が知れ渡ることを夢見ていた。
そこへ現れたのが、当時のマーカブラホテル支配人だった。
支配人は無名画家の描いた絵をいたく気に入り、男の才能を手放しで褒め称えた。
そして、路上に並べられたすべての絵画を買いあげたうえで、画家にある相談を持ちかけた。
――私のホテルの一室を貸し与えよう。そこで絵を描かないか。
――食事も画材も、必要なものはすべて用意する。君は絵さえ描いていればいい。
つまり、パトロンになろうと提案したのだ。
突然のことにうろたえる画家を見下ろしながら、支配人は笑みを浮かべて条件を付け足した。
――その代わり、ホテルに飾る絵を描いてほしい。
未来への道が切り開かれたように感じた画家は、内からこみ上げる喜びに尻込みした。けれど、震える両手をぎゅっと握りこみ、何度も何度も力強く頷いた。
こうして、支配人は画家のパトロンになったのである。
「パトロンってなに?」
「金銭面の支援をしてくれる人のことだよ。絵描きってのは色々と金がかかるんだぜ。絵の具とかキャンバスとか、とにかく画材が高いのなんの。それに、絵が売れなきゃそもそも金になんねえからな」
ニノンの問いに答えるのは、だいたいアダムの役目だ。ニノンは「なるほどー」と相槌を打ち、すぐになにかを思いついたように「あ」と短く声を上げた。
「じゃあ、私たちのパトロンはニコラスってこと?」
「いつから私があんたらのパトロンになったって?」
ニコラスがぎょっとして否定する。ルカはアダムとともにこっそり噴き出したが、思えば三人だったころは確かに財源が干からびていた。早々に食い逃げという前科を成し遂げたほどだ(厳密に言えば、意図的に食い逃げしようとしたのはアダムだけ)。ニコラスが同行してから財布に潤いが戻ったのは事実だけれど、それはパトロンではなく単なる穀潰しである。
「こんな金のかかるパトロンなんて御免だよ」
ニコラスが迷惑そうに溜息を吐いたとき、遠くで咳払いの音がした。
はっと顔をあげれば、片眉を上げ、確かめるようにこちらを見つめる視線と目があった。続きをお話してもよろしいでしょうか、とその目は訴えている。
ルカはどうぞ、と軽く頭を下げた。
*
油のにおいが染みついた一室で、画家は思う存分絵を描いた。
彼は人間を描くのが好きだった。同時に、得意としてもいた。道ゆく他人の日常、そこに潜む喜びや悲しみや怒り、そういったものを切り取ってキャンバスに閉じ込める能力に長けていた。
たまに支配人のリクエストにより、りんごやミルク瓶などを並べた静物画や、名も知らない花の生けられた花瓶、あるいは支配人や家族の肖像画を描いたりもした。
ホテルの壁には画家の絵がたくさん飾られた。それらは宿泊客の目に留まることとなり、やがて画家は無名から脱し、気がつけば人気を博する画伯へと登りつめていた。
しかし、幸せは長続きしなかった。
「エネルギーショックが起こったのです」
ああ、と誰ともつかない声が雨音に混じって消えた。
「彼の人気が絶頂のときでした」
世界を襲ったブラックアウトは人々の生活をめちゃくちゃにした。
生活だけではない。エネルギーショックは人々の倫理観を蝕み、理性を奪っていった。残された食糧、薬、衣類を奪い合う人々。絶えない暴動。寒さに凍え倒れゆく隣人。動かなくなったそれらを眺める、哀れみすらこもっていない眼差し。
人間は、協力という言葉を忘れ、ただの獣と化した。
暗黒の年月が過ぎる間――画家の眼は地獄を見つめ続けた。
ほどなくしてAEPが世界に供給され、人々には平穏な日常が戻ってきた。
しかし、画家にはもうそれまでの絵は描けなくなっていた。
ありふれた幸せを捉えることへの興味が失せてしまっていたのだ。
暗黒の時代は彼の心に深く根を張り、終わらない地獄を描かせ続けた。
「終わらない地獄って……?」
いよいよ雲行きの怪しくなってきた話に、アダムは眉をひそめる。
ジーノは片眉を持ち上げ、頷いた。
「それはそれは、うら恐ろしい絵です。エネルギーショック以前の彼が描いた絵画とは似ても似つかない、まるで別人が描いたもののようでした」
うら恐ろしい絵。
ルカの脳裏には真っ先に、夢の中で目にした血濡れの絵画が思い浮かんだ。しばらく黙りこんでいると、男の落ち窪んだ瞳が意味ありげにルカへと視線を寄こしてきた。
「のちに、彼の連作にはこのような名が付けられました――〈死の舞踏〉と」
「死の、舞踏……」
それは、なぜか聞き覚えのあるタイトルだった。たしかにどこかで聞いた、あるいは目にしたようにルカは思う。
でも、どこで?
霧がかった水平線の上の小舟を探すように、ルカは記憶の海に目を眇める。
死の舞踏。
終わらない地獄。
恐ろしい死の絵画――。
そこで、ルカはある記憶に思い至った。
道野修復工房には、美術に関する書籍が詰めこまれた書棚がある。その内のどれかに、同じタイトルの作品群が掲載されていたのだ。何百年も昔、ヨーロッパにペストと呼ばれる死の病が蔓延した時期に生み出された、死の圧倒的存在を具現化した絵画のことを指した言葉。それが、死の舞踏。
「おや、ご存知なのですか? 死の舞踏――ラ・ダンツァ・マーカブラを」
ルカが口を開くより先に、アダムが嫌そうな顔で「知らねぇな」と呟いた。
催促するように、ジーノの視線がニコラスからニノン、ルカへと移る。ルカは逡巡したのち、静かにかぶりを振った。
本で見た〈死の舞踏〉は何百年も昔の作品だ。ジーノの語る画家はせいぜい五十年前に活躍した人物。だったらその男の描く〈死の舞踏〉とは無関係だ。
「(でも、この話……どこかで……?)」
ジーノの口から語られる話は初めて聞くはずなのに、なぜだか既知感がある。それに、ルカは話に中に出てくる連作を知っているような気がしてならなかった。
「画家は〈死の舞踏〉を描き続けました。そんな彼に起こった悲劇の続きをお話しましょう」
ジーノはもったいぶった口ぶりで話を再開した。
その後、画家の描く〈死の舞踏〉が世に受け入れられることはなかった。
理由は簡潔。AEP還元率が著しく低かったからである。一方で、彼の昔の作品は軒並み還元率が高く、依然として価値のあるものが多かった。
当然、当時の支配人は画家に声を荒げて抗議した。
――ただちにその気味の悪い絵を描くのを止めろ!
それでも画家の筆が止まることはなかった。
まるで悪魔に取り憑かれたかのように、四六時中キャンバスに向かい、真っ暗な絵を描き続けた。
狂っている、と支配人は吐き捨てた。画家を称賛していた周囲の人間も、画家の異様な執着心を気味悪がり、蔑み、いともたやすく遠ざかっていった。
しかし、狂っていたのは画家だけではなかった。
平穏な日常を取り戻した気になっていた人々の心は、少しずつおかしくなっていたのだ。わずかなズレがやがて歯車の噛み合わせを狂わせるように、目に見えない瘴気は人間の心をひたひたと静かに、そして確実に歪ませていた。
そしてある嵐の夜。
支配人は虚ろな瞳でもって画家の部屋へ赴いた。
室内を満たすテレピン油のにおいを掻っ切るようにして、扉が開いたことにも気付かない男の背後にずんずんと迫る。
無意味な絵画。価値を無くした男。決裂した関係。支配人の虚ろな瞳が、憎しみの赤色に染まる。
――この部屋にあるのは無駄なものばかりだ。
突如聞こえた支配人の声に画家が振り向いた瞬間、室内に一発の発砲音が鳴り響いた。
護身用の拳銃から放たれた弾丸は、画家の胸を突き抜けていた。
やつれた画家の目が、驚きにまるく見開かれている。
支配人は続けざま、痩せぎすの身体に二、三発、銃弾を撃ち込んだ。飛び散る鮮血。絵の具のように鮮やかな血潮が、パタパタと支配人の真っ白なシャツに水玉模様を作りだす。
描き途中だったキャンバスと共に、画家は床に崩れ落ちた。止め処なく流れる鮮血が、キャンバスを汚していく。
支配人は力が抜けたようにへたへたとその場に座り込んだ。それから、床に転がって動かない男に這う這うの体で近付くと、彼の顔をそっと覗き込む。
画家の顔には苦痛の表情など一切浮かんでおらず、それどころか口角が不気味にねじ上がっていた。支配人はゾッとした。すると、奇怪な笑みを浮かべていた画家の顔は、しだいに憎しみに苛まれ、やがて悪魔のような恐ろしい顔に変貌したのだ。
彼はまだ死んでいなかった。
支配人はぎょっとして後ずさり、「ひいっ」と情けない声をあげた。
――どうして誰も見て見ぬ振りをするのだ?
叫ぶ度、男の口からはヘドロのような血塊が吐き出される。
――世界が暗闇に閉ざされたあの期間、人はみな死の恐怖を感じていたではないか。
――なぜ理解されない!
血にまみれてなお画家は膝を床につき、立ち上がろうとした。ブツブツと何事かを呟きながら、憎しみに血走る両眼で支配人を睨みつける。
支配人は震える両手で再び銃口を画家に突きつけた。カチャリ、と撃鉄が下がる音が緊迫した空気に震える。
画家は命乞いをするでもなく、薄っすらと笑みさえ浮かべて、最期にこう呟いた。
――世界のすべてを呪ってやる。
――逃がさない。お前たちを逃がさない。
呪詛を吐いた瞬間、弾丸が画家の心臓を貫いた。
飛び散る血飛沫は呪いの印となり、部屋中の壁を、男を、そして絵画を汚した。
画家は死んだ。
そして、一枚の血塗られた絵画が遺された。
「――それからというもの、このホテルでは怪奇現象が起こるようになりました。おそらく、その画家の霊が今でもホテルを徘徊しているのでしょう」
「か、怪奇現象って……。そういう話で盛り上がろうって余興、だよな?」
案外面白いんすね、ジーノさん、と笑いながらもアダムの顔は青ざめている。隣で両肩を抱きすくめているニコラスの顔も同様に青い。
「客足がみるみるうちに減っていったのも、ある意味画家の呪いだったのかもしれません」
そう語るジーノの顔には、この場の雰囲気に不釣り合いな笑顔が浮かんでいる。その表情も、この状況も、なにもかもが奇妙だ。自身の経営するホテルが閉館するというのに、どこか他人事のように淡々と悲劇を語るなんて。
「その画家の名前って……」
「おや?」
ジーノは片眉を持ち上げてルカのほうを見た。
「心当たりがございますか」
悪夢の中で目にした血濡れの絵画。そのキャンバスの端に書き記された画家のサインを、今やルカは実際に目にしたかのようにありありと思い出せる。たかだか夢で見た光景だ。自分でも馬鹿げているとルカは思う。それでも、確認しなければという思いの方が勝った。やはり、このホテルはどこかおかしい。
「モーリス・カーロ。それが画家の名前だ。違いますか?」
一際大きな雷がどこかに落ちて、真っ白な光が室内をカッと照らす。
ジーノは頷かない。代わりに、口をにたりと三日月のように歪ませた。
「なぁ、おいルカ」
アダムに強く肩を叩かれ、ルカは目の前の支配人から無理やり視線を逸らした。
「とりあえずメシ食っちまおうぜ。冷めるだろ」
「え? だってこれ――」
「いいから食えって」
もともと冷めているのはアダムだって知っているはずだ。強張る表情で強引に会話を終わらせたアダムは、ほかの二人にも発破をかけて、味わうに堪えない夕食を一気に飲みくだす。
ルカには彼が焦っている意味がよくわからなかったが、いつも以上に真剣な表情をしていたので大人しく言うとおりにした。味のしないパサついたパンを頬張り、冷えたスープでそれらを流しこむ。
ごちそうさまの挨拶もそこそこに、ルカはアダムに引きずられるようにして強引にダイニングルームを後にした。
「アダム、ちょっと待って。痛いって」
手首を掴む力には容赦がない。
おまけに抗議の声にも耳を貸さず、アダムはただひたすらに足を動かし、どこかへ向かっている様子だった。
「急にどうしちゃったの?」
堪え兼ねたニノンが、小走りで後を追いながら尋ねる。
「出るぞ」
「え?」
「ここのホテルから、一刻も早く出るんだ」