第43話 夏の嵐と不気味なホテル
紅色のビートルは、平坦なコンクリートの道をひた走っていた。
ルカが故郷レヴィ村を発った日、父親である光太郎は刺し傷に痛む腹をさすりながら、ベッドの上で謎の絵画の在り処を四カ所示してみせた。三つ目の絵画が眠る町〈コルテ〉へ行くには、コルシカ島の中央に連なる険しい山岳地帯を越えなければならない。
前方にそびえる岩壁はまだ遠くにかすんでいる。だが、それよりも手前に広がる真っ黒な影――深い森の方が、陰気なオーラを放ちながらビートルを通せんぼしているようだった。
「コルテまでどれくらい?」
ニノンが発した問いは、ボウボウと燃えるような音を立てて車内に飛び込んでくる風によってかき消える。後部座席に並んで座るルカの耳にかろうじて届いたくらいだから、運転席に座るアダムにはまったく通じていないはずだ。想定どおり、運転席からの返答はない。
仕方がないといったふうに、ニノンは背もたれから覗く肩を、ワイシャツ越しに突っついた。
反応はない。
今度はワイシャツを強めに摘まんでみる。
またしても反応がない。
「?」
ニノンはルカを振り返り、不思議そうに肩をすくめた。「やめろよ」とか「危なねえだろ」とか、いつもなら絶対になにか一言返ってくるはずなのに、今日の彼はどこかおかしい。
「アダム、どうしたんだろ」
そのまましばらく言葉のない背中を眺めていたが、ニノンはやがて窓の外に顔を向けた。溝を流れる濁った水のような、酷い色の空が広がっている。
「嵐がきそうだね」
図ったように、助手席に座るニコラスが口をひらいた。
「窓、閉める?」
「そうだね。じきに雨が降るよ」
促されて、ルカとニノンは両サイドのハンドルを回し、後部座席の窓を閉めた。
旅をはじめてからずっとこの車に乗っているせいか、もう誰も疑問には思わないが、このビートルという車は相当年季の入った型式に違いない。今どき窓の開閉が手動の車なんて、どこを探しても売っていないのではないだろうか。
「アダム?」
運転席側の窓が一向に閉まらないのを不思議に思ったニノンが、ふと声をかけた。ヘッドシートの向こう側で、オレンジ色の髪が風に煽られてなびいている。
「ア、ダ、ム」
「あ?」
「窓!」
「ああ」
寝ぼけたような相槌を打って、アダムは慌てて窓を閉めた。
やはり様子がおかしい。いつも口が開きっぱなしの男なのに、今やセミの抜け殻のようにうんともすんとも言葉を発しない。体調でも悪いのだろうかとニノンは心配したし、ルカも舞踏会で張り切りすぎて寝不足なのだろうかと考えを巡らせた。
ルームミラーに映っているアダムの顔を覗き込めば、顔色はそれほど悪くないように見える。ただぼうっとしているだけだ。放っておけば「いい天気だな」なんて呟きそうなほどに、その目はどこか遠いところを眺めている。
「運転、代わろうか?」
見兼ねたニコラスがため息混じりに申し出た。
仮面舞踏会が行われた夜。アダムはアシンドラという名の少年といざこざを起こした。あのときは大丈夫だと笑顔を見せていたけれど、笑って済ませるほど簡単な問題でもないことは、端から見ていたニコラスでも容易に想像できた。
ただ、その事実を知るのはニコラスだけだ。ルカもニノンも、アダムの心がなぜここにないのか把握できていないのは仕方のないことだった。
「別に、大丈夫だって」
アダムはぼんやりとした視線をフロントガラスの向こうに放り投げたまま、ハンドルを緩やかに切った。ビートルは二股に分かれた道を右側に進む。
「アダムちゃんの心配をしてるんじゃないのよ。事故にでもあったらニノンたちが可哀想でしょうが」
「はいはい……って、俺の心配もしろよ」
少しだけ、アダムに普段の調子が戻ってきたように見えた。
後部座席でルカとニノンがそっと視線を交わしたとき、周囲がザッと暗くなった。先ほど遠くに見えていた、黒い森に入ったのだ。今にも落ちてきそうな灰色の重たい空が、背の高い木々に阻まれてあっという間に見えなくなった。
「っし!」
アダムがなにか短く声を発し、訛った体を奮い起こすように肩をボキボキと鳴らした。かと思えば、ビートルはいきなりぐんとスピードを上げた。四人の体が後ろに引っ張られる。
「嵐がくる前にこの森抜けちまおうぜ」
「こら、片手運転はやめな」
「わァかってるって」
アダムはニコラスの小言を適当にあしらいながら、更にアクセルペダルを踏み込んだ。
四人を乗せた車が過ぎ去ったあと――森の入り口の少し手前、先ほどビートルが右に曲がった二股道に、嵐の訪れを告げる強い風が吹いた。
風に煽られて、地面に朽ち捨てられた木看板がカタカタと揺れて、くるりとひっくり返った。根元の木が腐り落ちて支柱からボッキリと折れているその看板には、剥げかけた赤いペンキで旧街道と書き殴られていた。
*
点々と雨粒がフロントガラスにぶつかりはじめたのは、森に入って間もなくのことだった。雨は一瞬の内に量を増し、まるで滝のようにガラスへと叩き落ちてくる。
「降ってきた!」
ニノンの声はどこか楽しげだった。
彼女が嵐を体験したのは一度だけだ。雨と言うには激しすぎるバチバチという音を聞きながら、ルカは故郷を発った前日を思い出していた。自分の運命が変わった日――すべての始まりの日。あの日もこんな嵐の夜だった。
なにが楽しいのかそわそわと体を揺らすニノンの隣で、ルカは己の薬指にはまった指輪をそっと撫でた。
「降ってきたあ、じゃねえよ、ったく。呑気なやつ……」
視界は最悪だった。思った以上に雨の勢いは激しく、弾丸のような雨粒がフロントガラスで弾けてひっきりなしに飛沫をあげている。
「ちょっとこれ、本当に大丈夫かい?」
ニコラスが思わず不安を口にする。
「いや、なんとかするしかねえけどさ……くっそ、この野郎」
左右に忙しなく動くワイパーがまるで使い物になっていない。車道の輪郭さえ溶け消えて、もはや目の前は絵筆を洗うバケツの中身同然に濁っている。そんななか、感覚だけでハンドルを切っているのだ。いくら運転に慣れているアダムでも、大丈夫なわけがない。
心配する三人をよそに、それでもアダムは肩に力を入れ、綺麗な形の瞳を細めて雨でぐちゃぐちゃの前方を睨みつける。が……。
「っあー! ダメだ、ぜんっぜん見えねえ!」
ついにアダムは根を上げた。助手席で慌てふためきながらニコラスがなにかを言っているが、車のボディを四方八方から叩きつける雨音に掻き消されて、よく聞こえない。
あわや森の木立にぶつかって大惨事かと思われたときだった。ルカの目が、荒ぶる景色の中に、ぼんやりと光るなにかを見つけた。思わず窓に額をぶつけ、ルカは目を眇める。
赤くて人工的な、ぐねぐねとミミズのようにうねる――。
「……ホテルだ」
そうだ。あれは多分、ホテルの看板だ。
「は? なんだって?」
アダムが耳の遠い老人のように大声で聞き返す。
「ホテルがある。ほらあそこ、右側の!」
そう言って、ルカは人差し指を窓の外に向かって突き立てた。
三人は揃って右側に首を回す。
「ホテルだあ!? このへんにそんなもん――」
「あった!」
あるはずないだろ、と続くはずだったアダムの言葉を、ニノンの叫び声が遮った。
今度こそ、全員の視界に確かな赤いネオンカラーが映り込んだ。
「とりあえず入るぞ!」
アダムは思いきりハンドルを切った。車内ががくんと揺れる。体が遠心力に持っていかれそうになる。ビートルは道路の窪みに溜まった水をばしゃんと跳ね上げながら、門らしき柱を猛スピードでくぐり抜けた。
*
「ごめんくださ――」
大きな扉を押し開いた瞬間、ニノンの言葉はぴたりと止まった。
建物内はどこかしこもみな真っ暗だった。ホテルにしてはいささか暗すぎるし、人の気配もない。
「すみません、誰かいませんか?」
ニノンの代わりに、今度はルカが呼びかける。
声は暗闇にやけに響いた。ということは、この部屋は天井の高い、相当大きな造りであることがうかがえる。例えば、洒落たホテルのロビーのような。
返事がないので、ルカはそのまま暗がりへとつかつか踏み入った。ずぶ濡れの靴が空気を含んでぐじゅぐじゅと音を立てる。
「おい――おいってば!」
びたびたに濡れた服の裾を摘まれて振り返ると、顔面蒼白になったアダムの顔が暗がりの中にぼんやりと見えた。
「まてよ、ルカ。やっぱやめよう」
「やめるって、なにを?」
いつもの自信はどこへやら、今アダムの声は捨てられた仔犬のように震えている。どうしてそんなに泣きそうな顔をしているのか。不思議に思っていると、アダムはルカの肩に手を回して、ぐっと顔を近づけてきた。そうして、やけに息を潜めてこう囁いた。
「噂の幽霊ホテルかもしれない」
「は?」
間の抜けた声がルカの口から漏れる。
「な――なに言ってんの、アダムちゃん。雨に打たれて頭でもおかしくなっちゃったのかい?」
次いでニコラスも変に明るい口調でおどけてみせる。
隣ではニノンが不思議そうに口をぽかんと開けている。あれはおそらく「幽霊ってなんだろう」などと考えている顔だ。
「ちがうって。俺、俺さ……」
ルカはアダムに腕を引っ掴まれ、入り口に向かって強引に引っ張られていく。反動でずぶ濡れの服や髪から水滴がぱたぱたと飛び散る。
「多分、道を間違えたんだ。旧街道の方に来ちまったんだよ」
「旧街道?」
「ほら、噂の――ああ、お前そういう話、興味なさそうだもんな。ニコラスも知らねえのか?」
「旧街道がなんだって?」
「だからさ、旧街道の幽霊ホテルって有名な心霊スポットが……」
アダムが恐々噂話を口にしはじめたとき、突如カッと視界が白く光った。
頭上から、バキバキと地を裂く轟音が鳴り響く。次いで、ビリビリと体を伝う地響き。
「ギャー!!!」
「……!?」
雷と同時に、三人のけたたましい叫び声が響き渡った。
ルカは耳をつんざくその音を背にこそ驚いたが、ぐっと足を踏ん張り、再び暗闇に戻った視界に目を凝らした。
一瞬の光の中に、なにかが――人影のようなものが見えたのだ。
おそらくこの場にいる全員が目にしたのだろう。背後からアダムの乾いた笑い声がした。
「俺やっぱ、頭がイカれちまったのかもしれねえ」
ふっと息を吹きかければ消えてしまいそうな、今にも死にそうな声でアダムは続ける。
「今そこに、人が」
アダムが力なく前方を指差した瞬間。
ボッ、と音を立てて目の前にあかりが灯った。
揺らめく蝋燭の火の裏側に、骸骨のような不気味な顔が浮かび上がる。
「げえええ!」
「ぎゃああ!」
アダムとニコラスは飛び上がり、情けなくも一番年少のルカにしがみついた。一節遅れて、ニノンもとりあえずといったようにその輪に混ざる。
がんじがらめにされてしまったルカは、身動きが取れない代わりに必死に目の前の男を凝視した。
洞窟のように落ちくぼんだ目元。縦長の鼻の穴。禿げ上がった頭のサイドには、申し訳程度の白髪がへばりついている。その顔に生気はない。
一言で言ってしまえばガイコツだ。目の前の男を表現するのに、これ以上ぴったりな言葉をルカは知らない。
幽霊など信じないタチだが、立ち込める空気が氷のように冷たくて、ルカは危うくアダムの噂話を信じそうになった。
「もし」
「え? あ、はい」
ぽつりと呟かれた言葉にふいをつかれ、ルカは歯切れの悪い返答をした。
「これはこれは、宿泊のお客様でございましょうか」
「え――はい?」
「申し訳ございません。暗くて足元が不安定でしたでしょう。少しブレーカーを弄っていたもので。すぐに電気を点けてまいります」
そう言って、男は蝋燭の灯りを頼りに、暗闇の奥へと消えてしまった。室内のランプが点灯したのはそれから間もなくのことだった。
明るさを取り戻した室内は、まさしくホテルのロビーといった風貌だった。フロア三階分は吹き抜けているであろう広々とした空間。真正面を控えめに陣取る、無人のフロント。右手にはどこか中世の宮殿を思わせる階段が、上階まで伸びている。
「……いい加減、重たいんだけど」
堪りかねてルカは呟いた。
「あ、わりい」
「ごめんなさいね、あはは」
ルカにべったりとへばりついていた三人は、はっと我に返り恥ずかしげに身を引っぺがした。
「ふっ。ただの勘違いだったぜ」
「だったぜ、じゃないわよ。ちょっと驚いたじゃないの」
「ニコラス、かなりビビってたもんな」
「あんたに言われたかないわよ」
どっちもどっちだ、と会話を耳に挟みながらルカは心の中で呟いた。
「結局ここは幽霊ホテルじゃないの?」
けろりとした様子で、ニノンはあたりをきょろきょろ見回している。
「声がでけえよ、ニノン。ホテルマンさんに聞こえたら失礼だろ」
「ええ? だって最初に幽霊ホテルって言ったの、アダムだよ」
「おまっ、だから、声がでけえんだよ!」
結論から言うと、ここは心霊スポットなどではない。れっきとしたホテルだった。
ルカはふと目線を落とした。車から出て建物に入るまでに随分と雨に打たれてしまったので、服は下着までぐっしょりと濡れている。これでは寒気も感じるはずだ。
「そういえばアダム、幽霊ってなに?」
「やっぱりわかってなかったか。幽霊ってのはだな……」
ルカは視界をフロントの左手に移した。客の待合室だろうか。品のよさそうな革張りのソファが、これまた品のよさそうな机を囲むようにして置かれている。ゴテゴテと装飾のされていない、センスのよさが光る内装だ。ただひとつ装飾されているといえば――ルカは壁に視線をやった。額縁だけが、等間隔にいくつも並んでいる。
そこでルカは、ふと既視感のようなものを感じた。
――なんだ? この景色を、どこかで見たことがあるような……。
そのとき、フロントに骸骨のような風貌の男が戻ってきた。
「大変お待たせいたしました」
明るい部屋で見るその顔は、暗闇で見るよりも随分と――当たり前だが――普通の老人だった。
「酷い嵐でしたねぇ。さぁさ、そのままでは風邪を引かれてしまいます。こちらの者がすぐにお部屋にご案内いたしますよ」
ヴァネッサ、ホテルマンは背後にそう呼びかけると、サッと身を引いた。すぐ後ろから、陰鬱そうな顔をしたロングスカートのメイドが姿を現わす。
「どうぞ、お客様」
ヴァネッサと呼ばれたメイドは、抑揚のない声で二階に続く階段へと進むよう促した。燻んだ赤茶のショートカットを耳にかけた少女の顔は、怖いくらいに無表情だ。思わず四人はぎょっとする。
端正な顔立ちをしているだけに、はっきり言って不気味だ。
「あのー、受け付け、まだしてないんだけど……」
おそるおそるといった口調でアダムが告げる。途端に、ヴァネッサの硝子玉のような瞳がぎょろりと動いてアダムを射抜く。
「え? な、なんか手順間違えたすか?」
「いいえ、お客様。それにつきましては問題ございません」
ヴァネッサの代わりにホテルマンが応える。
「あなた方は記念すべきお客様でございますから。どうぞ無償でご宿泊ください」
「無償で?」
ニコラスが疑いの眼差しを男に向けた。
男は「そうですとも」と胸を張る。
「あなた方は記念すべき――このホテル最後のお客様でございますから」
まるで一行を歓迎するように、またしてもカッと視界じゅうが白く光った。
メリメリと空を裂く雷の音。打ちつける雨の音。
「申し遅れました。わたくしはこのホテルの支配人であります、ジーノ・トワイニングと申します」
男は禿げ上がった頭を深々と下げた。それからたっぷりの間を空けて顔を上げ、意味ありげにニヤリと口元を歪めた。
「ようこそ――マーカブラホテルへ」




